リスの尻尾をもふもふしたいという欲求

 徒歩での道行きである。

 日差しが照りつけ、風が強く吹く街道を、路に沿って長く続く馬車の轍をなぞるように、ヨルが歩いている。

 遠出用の革靴に、麻のズボン。白いワイシャツの上から黒の外套を羽織り、風を通すように前を開けている。肩に下げられた荷袋には耐熱素材のシートでくるんだシードルの瓶と、何日か分の携帯食。旅の必需品がいくつか。腰には太い革のベルトと、ナイフが二本収まったホルスター。顔には風塵避けのゴーグルが装着されている。


 メリィ・ウィドウから港国領バルまでは普通の行程で徒歩2、3日程の旅となるが、単身の上装備も軽量、健脚のヨルは1日あれば辿り着く。

「そういえば、港国領に行くのは久しぶりだな。今は何が美味しいだろう」

 甘いもの好きのヨルは、交易の盛んな港国の土産品に思いを馳せながらすたすたと歩いていく。


 ヒカリが街に来てからというもの、気の休まる時のなかったヨルにとっては、今回のお使いは正直ありがたい申し出だった。

 特に先日、ジンゴがヒカリに採取依頼を出した時は大変だった。

 魔道具や薬種の素材の採取依頼は、研究者にとっては本来傭兵団に金額を支払って行う類のものだ。当然危険地帯に足を踏み入れることもあるし、ものによっては採取自体に危険の伴う素材もある。

 ただ、ジンゴは普段その殆どを自分の手と足でこなしてしまうし、場合によってはヨルが手伝うこともあったので、手の離せない要件があるからといってわざわざ隣街の傭兵団の窓口まで依頼の文を送るという発想がないのは分かる。

 しかし、いくら何でもあの新米聖騎士に依頼を出すことはないだろう。


 確かにジンゴ謹製の木剣型魔道具があれば、多少危険な魔獣がいたところで敵にはなるまい。だが、素材の採取とは魔獣にのみ気をつければいいというものではない。

 ヨルはその話を聞いてジンゴに依頼を取り消すよう言ってみたが、当の聖騎士がすっかりやる気になってしまい、意地でも折れず。挙句アヤまで巻き込んでこちらを説得しにかかってきたのには、本当に参ってしまった。

 あの日、ジンゴの資材倉庫で聖騎士の身の上話を聞き、少しくらいは力を貸してやるかと魔道具制作に協力してやったことを、ヨルは既に後悔すること頻りであった。


「まあ、済んだことは仕方ない。ジンゴがまたあいつに依頼を出すこともあるだろうし、俺が採取のイロハを教えてやれればいいんだけど。どうやって俺の言うことをあいつに聞いてもらうかが問題なんだよなぁ…………んん?」


 歩きながら一人ごちるヨルの視界の端に、砂煙を挙げて街道脇の草原を疾駆する馬車が見えた。

「何だ、あれ。危ねえな……いや、襲われてる?」


 高速で走る馬車の後ろを数メートル離れた所を、人間大の大きさの、どろりとした紫色の毛皮の犬が二匹、馬車を追い詰めるように走っているのが見えた。


「あーあ」

 それを見ると同時、ヨルは腰のナイフに手をやり、黒い煙となって駆け出していた。


 ……。

 …………。


「やあぁぁぁぁぁ!」

「遅い!」

「ふぐっ。まだまだぁぁぁ!」

「遅すぎる!」

「まだです!」

「欠伸が出るよ!」

「まだです!!!」

「しつこいねえ、全く!」

「はっ。今度こそぉぉぉぉ!」

「甘いよ!」

「へぶっ」

「ふん。百年早いねえ、この赤ん坊が」

「きゅうぅぅぅ」


 メリィ・ウィドウの街の外れ、臙脂色の屋根のログハウスの前で、ヒカリが地面に突っ伏し、それをリス獣人の老婆――シャオレイが見下ろしている。

「ううぅん。何でそんなに元気なんですかぁ。おばあちゃん」

「あんたら人族がひ弱すぎるだけだよ」


 腰に手を当てヒカリを見下ろすシャオレイの尻尾がゆらりと揺れる。

 ヒカリの目がキランと光る。

「隙有りぃ!」

「あるか!」

「ふぐっ」

 飛び掛ったヒカリをひらりと躱し、手刀で叩き落す。

「諦めの悪い赤ん坊だね」

「うう。諦めません!」


 数分前。出会い頭に尻尾をもふもふさせろと迫るヒカリに、シャオレイは当然のようにそれを拒否した。それでも、普段の彼女を知る人からすればいつにない粘りを見せて食い下がるヒカリに対し、シャオレイは呆れた顔で条件を突きつけてきた。


「あたしの服を掴むことが出来たらいくらでも触らしてやるよ」


 その言葉に目を輝かせたヒカリが手を伸ばすと、老婆はひらりとそれを躱した。

 もう一度伸ばせば、一歩退いてそれを躱す。

 一歩踏み出せば、一歩退く。

「???」

 足を踏み出せばそれと同じだけ下がられ、横に回ればくるりと視線を合わされる。

 シャオレイは腰に手をやったまま、すらりと伸びた背筋でヒカリを睥睨する。


「どうした、捕まえないのかい?」

 尻尾がゆらりと揺れる。

 その足運び。芯の通った姿勢。

 ヒカリは察した。


 この人は、強い!


 ヒカリの目に、火が点った。


「聖王教会第5支部所属ヒカリ・コノエ。参ります!!」

「ふん。かかってきな!」

 そして、謎の鬼ごっこが始まったのだった。


 ……。

 …………。


 結果は惨敗だった。

 飛ぼうが跳ねようが、ヒカリの手はひらりひらりと木の葉のように動く老婆の体に掠りもせず、空を切った。そして何度転がされようとも諦めずに襲いかかるヒカリに、老婆もまた本気で応じた。

 やがて、太陽が中天に昇りきった頃。


「はあ。全く根性だけは一人前だね」

「はひい。はふう」


 大の字になって地面に寝転んだヒカリは、とうとう自力で立ち上がれなくなってしまったのだった。

「全く、あたしも疲れちまったよ。どれ、お茶でも淹れるから、あんた今日はもうそれ飲んで帰りな」

「は、はひい」


 やがて熱い湯気の出るマグカップを手にして、シャオレイがログハウスから出てきた。

 庭に置かれた、平に均された太い切り株にそれを置くと、その横に置かれた椅子代わりの丸太に腰掛ける。

 ヒカリはそれを見て、何とかゆっくりと起き上がった。

「ほれ、飲みな」

 よろよろと対に置かれた丸太に座ると、両手でマグカップを握る。


「ありがとうございます。いただきます。あちち……って、ああ!」

「何だい。でかい声出すんじゃないよ」

「あ、すみません。私、クーネさんからケーキを預かってたんでした」

「ああ。あの袋かい。丁度いい。貰っちまおうかね。あんたも食ってきな」

「はい。あ、切り分けますので、お台所借りますね」

「あいよ」


 そして二人は、しばらく黙々と、イチゴのパウンドケーキを頬張った。

「今年のイチゴは随分と甘いね」

「そうなんですか?」

「ああ。去年は酸っぱいやら水っぽいやらでそのまんまじゃ食えなかったからね。そうか、ジンゴの小僧が代えてやったとかいう肥料が役に立ったのかね」

「流石ジンゴさんです!」


「ふん。それよりあんた。一体何の用だったんだい?」

「ふえ?」

「だから、ここに来た用件だよ。まさか尻尾触るためだけに来たんじゃないんだろ?」

「ええと、ですからクーネさんから預かったケーキをお届けに……」

「すっかり忘れてたじゃないか」

「はうう。済みません」

「呆れた赤ん坊だね」


「おばあちゃんは、ずっとここに独りで住んでるんですか?」

「ああ。ずうっとね。最近じゃ水門の管理が仕事さ」

「へええ。あ、私、今便利屋の仕事をしてるんです。何かお手伝いすることがあれば何でも言って下さい」

「便利屋? ヨルの小僧はどうしたんだい」

「あ、あれはいつか私が倒します!」

「倒してどうすんだい。仲良くしな。大体、私の服も掴めないようじゃあ無理だねえ」

「ふぐっ」

「ほれ。もう茶も飲み終わったろ。そろそろ帰んな。あたしゃ忙しいんだよ」

「あ、はい。おばあちゃん、お茶、ごちそうさまでした。美味しかったです」


 まだ疲れの抜けきらぬ足取りで、ヒカリはふらふらと身支度を整えた。

「あ、あの。おばあちゃん」

「あたしゃ、あんたみたいなちんちくりんの孫を持った覚えはないよ」

「また、遊びに来てもいいですか?」

 体の前で手を組み、ヒカリが不安げに問いかける。

 シャオレイはつまらなそうにそっぽを向くと、尻尾を揺らして食器を片付け始めた。

「ふん。尻尾は触らせないよ」

 ヒカリの顔が、ぱっと明るくなる。

「はい! 私、諦めませんから!」

「赤ん坊が偉そうに」


 ……。

 …………。


 そして、翌日の早朝。

 街に唯一ある武道場にて。

「もう一本お願いします、アイナさん!」

「あら、今日は随分気合入ってるわね」

 元魔族の戦士で、今はヒカリの剣術の教練をしてくれている女性が、驚いた顔でヒカリを見た。

 瞳に火を点したヒカリが、勢い込んで言う。

「はい! 私、大きな目標が出来ましたので!」

「あらあら。またヨル君と喧嘩したの? ダメよ、仲良く――」

「絶対に! あの尻尾をもふもふしてみせます!」

「――しなきゃ…………尻尾??」


 ……。

 …………。

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