転生者ヨル
ヨルの記憶には、忘れられない光景が一つある。
それはまだ、彼が
いや、そうではなくなった時の記憶。
黒いような、白いような。
何処までも突き抜けるような、それでいて何処にも辿り着けないような。
全天に広がる無窮の宙。
星影。紅炎。砂塵。極光。夢幻。混沌。
瞬き、交じり合い、浮かんで消える。
自分の存在が溶けて染み出していくような曖昧模糊たる宇宙の中で、ただ一つだけ明確に形をとる影があった。はっきりとこちらを認識し、そして、敵意を向けてくる男。
黒くて、白い男だった。
見上げるほどの長身は引き締められた鋼のような筋肉に覆われている。しかし、白い。静脈の透けるような肌の白。そして、それを一層引き立てる黒一色の薄衣。首筋にかかる髪もまた、墨汁で染め抜いたかのような艶なしの黒。
しかしその双眸だけは、血が滲み出したようなどろりとした朱だった。
男の筋肉が盛り上がり、体が沈み込む。
来る。
そう思った時には、二つの朱が眼前に迫っていた。
ぼっ。
空間を切り裂き繰り出された男の右拳に、萄也の顔の右半分が持っていかれる。
「んぎっ」
眼球がこぼれ落ちるのを感じながら、萄也は左の拳を引き絞り、屈めて矯めた反動を両足の拇指球に込め、全身でアッパーカットを放つ。
男の顎が弾け飛び、ぎらりと光る犬歯が散らばる。
「ごぼっ」
仰け反った体勢から、男が前蹴りを繰り出す。
右の肋骨を犠牲にして、その足を抱え込む。
「おおおおああああ!!!」
全体重を込めて捻り込み、引きちぎる。
「があああああああ!!!」
男に両肩を掴まれたと思う暇もなく、男の頭突きが脳天に叩きつけられる。
お互いに、二歩後ろへ。
萄也はこきこきと首筋を鳴らし、男はとんとんと両足でステップを踏む。
一瞬間の後、両者の体には傷一つ残されていなかった。
「いい加減諦めたらどうだ、小僧。大人しく魔王になれ」
「イ・ヤ・だ」
男の顔に青筋が浮かぶ。
「ほう。面白い。いや、面白くないな。ならば喰らうがいい。魔王666の秘拳の一つ。『劫火龍お―」
「ぜいやぁ!!!」
「ぐぶぉあ!!! おのれ、ポージングの最中に!」
「そのまま死ね!」
「許すまじ!」
「来いやぁ!」
……。
…………。
夜ノ森萄也は、21世紀の日本で生まれ育った。
彼の生活を端的に表せば、それは極貧の一言に尽きる。
萄也の家は代々続く柔術道場だった。彼の父親は善良な人間であったが、浮世で生きるにはいささか不向きな人間だった。
萄也からすれば降って沸いたように突然親の会話から聞こえ始めた、負債がどうの担保がどうのという話を、すっかり理解するようになる頃には、萄也は年の離れた弟二人の生活のために高校を中退して働きに出ていた。
道場はなくなっていた。
萄也はいくつものアルバイトを渡り歩き、掛け持ちし、資格のための勉強をし、日々あくせくと働いた。
そして、二十三歳の誕生日を間近に迎えたある日のこと。
萄也は死んだ。
交通事故だった。
街中での玉突き事故に巻き込まれ、病院に搬送される前に息を引き取った。
……はずだった。
萄也の意識が目覚めた時、そこは何だかよく分からない空間だった。前後左右上下に広がる、黒いような白いような、ごちゃごちゃとした色彩のこんがらかった意味不明の宇宙。
あの世ってのはこんな所だったのか、と独りごちる萄也に、澄んだテノールの声が投げかけられた。
「ここはあの世の手前だ」
後ろを振り返った萄也が見たのは、黒衣に身を包んだ、病的に白い肌をした長身の男だった。
「……あんたは?」
男はにやりと笑って言った。
「俺は魔王だ」
「はあ?」
「吸血鬼のな」
「はあ」
ぽかんとする萄也に、魔王で吸血鬼を自称する男は朗々と説明を始めた。
盟約がどうの、異世界がどうの、転生がどうの魂がどうのと、そういったサブカルチャーに触れる機会など更々なかった萄也には何がなんだかよくわからないことを一方的にまくし立てた男は、結びにこう言い放った。
「さあ、俺と共に魔王として生きるのだ」
「イヤだ」
「!?」
そして。
そして、いつ終わるともしれない殴り合いが始まった。
「神・速! 雷鳴――」
「遅え!」
「――拳! よし今度は言い切った!」
「ごふぁ!」
「ふははははは。魔王の技名を中断させようなど不遜にもほどがあるぞ小ぞ、ぐぼぉ!」
「まだまだぁ!」
「な、何だその技は!? かっこいいではないか!」
「ただの靠撃だ!」
「何ぃ!? やる気があるのか小僧! よし。待ってろ、今が俺が最高にかっこいい名前を考えて――」
「隙だらけなんだよ!」
「ふっ。甘いわ!」
「ぎゃああああ!!」
「これぞ秘技、『血涙号泣』!」
「……自分の、目玉潰して、目潰しって、洒落になってねえだろ!」
「なってるだろう! 洒落に!」
「やかましい!!」
魔王によると。
この場は
「何が不満だ、人間!」
魔王の足刀が萄也の肩を掠める。
「ああ!?」
萄也の足払いを、魔王が跳んで躱す。
「魔王として生きることの! 何が不満かと! 聞いておる!」
そのまま振り下ろされた、かかと落とし。手刀。正拳突き。
右肩、鼻梁、胃袋を続けざまに消し飛ばされた萄也が膝を突く。
その頭を、魔王の腕が掴み取る。
「ん。ぐ、ぐ。ぐ」
歯を食いしばる萄也の口から呻き声が漏れる。
残る左手。掌形は開手。
頭を掴む男の左腕の脇に、体を滑り込ませた。
ぶちぶちと、頭皮ごと毛髪が千切れる。
構うことなく喉輪を噛ませ、男の左膝の後ろに全力の刈り足。
魔王の体が、浮いた。
「ぐおらぁ!!」
「ぬお!」
渾身の大外刈りで、脊髄をへし折った。
「がはっ」
ぜいぜいと荒い息を吐き、萄也が答える。
「俺は、人に迷惑をかけないで生きると決めた!」
黒衣の男が、何事もなかったかのように立ち上がる。
呆れ切った顔で、萄也を見下ろした。
「何だ、それは。生き物が誰かに迷惑かけずに生きれるわけがないだろう。馬鹿か貴様」
「ああそうだ。大馬鹿だよ。後悔してる。でもそう決めたんだ」
「分からん奴だな。大体貴様、もう死んでおろうが」
「馬鹿は死んでも治らねえんだよ!」
踏み出す。
拳を握る。
男の顔を睨みつけて。
「うおおらぁあああ!!!」
「甘いわ!!」
踏み出した膝を蹴り飛ばされる。
重心が崩れ。
肩に一発。
脇腹に一発。
萄也の身体が三つに千切れ飛んだ。
「ご……あ……」
やがて身体が再生し、一つにまとまる。
しかし。
「……ん。……ぐ」
立ち上がれない。
もぞもと這いつくばる萄也が、立ち上がる様子はなかった。
もう気の遠くなる程の時間、二人は殴り合っていた。ここでは魂の揺るがない限り、いかなる暴力もダメージになることはない。
そう、魂に揺ぎのないかぎりは。
魔王が歩み寄る。
「人の生など、ろくなもんでもなかろう。いいか小僧。この幽世はな、前世を悔いなく全うしたものは来ることができん。前世に未練を残したものも来ることはできん。ここに来ることが出来るのは、前世を厭ったものだけだ。なすべきこともやりたいことも前世に残しておきながら、それをどうでもいいと思っているもの。前世にいい意味でも悪い意味でも執着を持たないものしか、ここに来ることは出来んのだ」
「…………」
「貴様の前世の事情など俺は知らん。ただな、ここに来れたということは、お前にとってはそれ程価値のあるものではなかったということではないのか。それに比べれば魔王も吸血鬼も悪いもんじゃないぞ。俺はそこそこ楽しかった。だがこの転生の儀は魔王の宿命でな。俺の前にも何人もの魔王が、死ぬ度こうして異世界の住人の魂を掠め取って、輪廻の輪を欺いてきた」
「……あんたは、何で死んだ」
這いつくばったまま、不意に返事をした萄也に驚いたか、少し間を置いて魔王は応えた。
「勇者だよ。美しい女だった。言動は意味不明だったがな。どうやら周囲に担ぎ上げられたらしい。あやつの属する聖国は腐り切っていてな。自分から魔国に戦争をしかけておいて、軍需産業で大儲けの商人共と上層部がベタベタに癒着しておった。
バカらしくてなあ。取り敢えず戦争を終わらせようと、勇者の女と示し合わせて相討ちした。大地の盟約を交わした上での決闘だ。流石に終戦しただろう。まあ、それでも俺には転生の儀があったから気は楽だった。生まれ変わって仕切り直し、もう一度人間共を、今度は真っ当に脅かしてやろうというわけだ」
「イ……だ」
「なんだと?」
魔王の口元には、薄く笑みがあった。
「……俺の世界にも、腐れ切ったヤツはいたよ」
ぼつぼつと、萄也が言葉を紡ぐ。
「悔しい思いもした。殺したいやつだっていたさ」
「そうだろう」
「でも、俺の親父は最後まで善良な人間だったよ。『自分に恥じない生き方をしろ』って。最後の最後までさ。確かに馬鹿さ。馬鹿だけどさ、俺にとっては憧れだったんだ。あんな風に、真っ直ぐ生きたいと思った」
「父君はどうした」
「血管詰まって死んだ」
「ふむ」
「頑張ったんだ。頑張って、胸を張れる生き方をしてきた。弟二人を高校に入れてさ。学費はもう払ってやったし、バイトも教えてやった。後は俺がいなくても生きていける。やっと終わったと思ったんだ。あのトラックが俺を轢きそうになったとき、俺、ほっとしたんだ。ああ、これで終わりだ、ってさ」
いつの間にか、男は萄也の横に座っていた。
「それが何だよ、生まれ変わって魔王になれって。台無しじゃねえか。せっかく今まで真っ当に生きてきたのに」
「……」
「なあ、頼むよ。もういいじゃねえか。許してくれよ」
「………」
「俺はもう、頑張りたくない」
嗚咽混じりの声だった。
かすれるような声で、萄也は泣き出した。
男はしばらく、黙ってそれを聞いていた。
「小僧。名は何という」
「ぐすっ。……ああ?」
「俺は、ウル。ウル・ノストラキュトスだ。お前の名は何というんだ」
「……萄也。夜ノ森萄也だ」
ウルと名乗った魔王は、座り込んだまま、遠くを見た。
「いい名前だ」
「葡萄の萄だぞ」
「いいではないか」
「ふん」
「萄也。お前、もう一度生きてみろよ」
「……イヤだ」
「魔王になれとは、もう言わん。どの道あれは称号に過ぎん。ただの吸血鬼として、俺の世界で生きてみないか」
「そんなの、変わんねえよ」
「変わるさ」
「変わんねえって。結局人を襲うんだろ。吸血鬼って、血い吸うじゃねえか」
「襲わなければいい」
「ああ?」
「だから、襲って血を奪うんじゃない。『頼んで』、『貰う』んだよ」
「何だよそれ」
「お前が吸血鬼にどういうイメージを抱いているか知らんがな。確かに血を吸うのに襲って奪うやり方もあるし、俺もそうしたことはある。ただな、それしかせん奴は大概長生きせん。すぐに討伐される」
「じゃあどうすんだよ」
「だから、正面から頼んで吸わせてもらうんだよ。意外と何とかなるぞ? ちゃんと頼めば、血くらい分けてくれる。人間でも、魔族でもな」
「けど、確か血を吸われたやつは、吸血鬼になっちまうんじゃないのか」
「よく知ってるな、異世界人のくせに。ただまあ、そこはやりようによる。眷属にしてくれと頼まれて吸血する時もあるが、本人が拒むのであれば回避する方法はある」
「……でも」
「でも何だ」
「でも、やっぱりイヤだ。結局、血を吸う人に迷惑かけるのは一緒じゃねえか」
「だから、一緒ではない。萄也、『迷惑をかける』のと『世話になる』のとは違うぞ?」
「はあ?」
「真祖の一人に最古の吸血鬼と呼ばれるじいさんがいてな。魔導の深淵を極めた偉大な大老だ」
「何の話だよ」
「まあ聞け。けどなあ、じいさん、古いことはよく知ってるが新しいことには疎い。人界で新しい発明があると自分の領土でも取り入れようとするんだが、さっぱり勝手がわからないんだ」
「普通のじいさんじゃねえか」
「そうだ。そこへ行くと俺は新しいもの好きだし、配下には人界に明るいものが多い。よくじいさんのとこへ行って、ああだこうだと教えてやるのさ。じいさんもじいさんで、何かあるとすぐ俺を呼びにくる。けどな、俺はそれを迷惑だなどと思ったことはない。代わりに旨い酒をたらふくかっくらって帰るし、古い魔道書もよく借りる」
「……」
「いいか。人でも魔王でも独りで生きていけるものなどいない。貴様の前世だってそうだったであろうが」
「そう、だな。それは、そうだ」
魔王は、にかりと笑った。
「この喧嘩、俺の負けだ。萄也よ、俺の世界で俺の代わりに生きてみろ。頑張らなくていいさ。気楽に生きろよ。鼻唄でも歌いながらな」
「……お前はどうするんだ」
「俺は一回休みだ。しばらく寝てる」
「はあ?」
「お前は『はあ?』が多いな。元々この転生の儀は、魔王の魂が異世界の魂を隠れ蓑にして輪廻の輪を欺き、元の世界に生まれ直すためのものだ。魂の主導権を握るのは、俺でも貴様でも構わん」
「でも、それじゃ――」
「一回休みだと言ったろ。死んだら返せ。吸血鬼とは言ってもな、月に一度最低限の血を吸えば、とりあえずは生きていける。それなら体はちょっと魔力の強い普通の人間と変わらん。当然寿命も変わらん。何ぞ人の一生如き、昼寝気分で待っててやるから、貸してやる」
萄也は宙を見上げた。
「もう一回……か」
何処までも突き抜けるような、何処にも辿り着けないような混沌の空が、そこにあった。
視界は晴れている。
父の顔を思い出した。
心は澄んでいた。
息を深く吸い込み、長く吐いた。
「なあ、あんた」
「ウルだ」
「ウル」
「おう」
「俺は――」
こうして、萄也はヨルと名を変え、二度目の人生を得た。
……。
…………。
「ところで萄也よ。最後に俺の背骨を砕いたあの技は何だ」
「あれか。あれは大外が――」
「待て。また何か芋臭い名前を言おうとしてるな。仕方のないやつめ。この俺が特別に最高にかっこいい名前をつけてやろうではないか」
「ケチつけんなら聞くんじゃねえよ!」
「ふははは。良いではないか。折角だ。貴様の世界の話をもっと聞かせるがいい」
「偉そうなヤツだな」
「魔王だからな。ふはは」
「ははっ。そうだな、まず、俺の生まれは――」
……。
…………。
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