吸血鬼ヨル

 クーネ・オランジェは魔族である。

 かの聖魔大戦で良人を亡くし、このメリィ・ウィドウの話を聞いて移住を決意した。故郷から持ち寄ったのは、養蚕の技術と亡夫との思い出。

 思い出は今日、あらかた処分してしまった。


『飲みましょう。そして忘れましょう。心に蓋をして、日々を生きねば。そして時々思い出すの。そのくらいが丁度いい』


 この街の創始者の言葉である。 


(私は上手く生きられていただろうか)


 倉庫には時間ごと閉じ込めたものがたくさんあった。

 旅行先で手に入れた貝の珍品や、後ろに乗せてくれた自転車。戦利品として自慢された何のものだかよくわからない大角。一緒に選んだ食器。選んであげた服。

 一つ一つ仕分ける事に、クーネの心は軽くなっていった。

 軽く、薄くなっていった。

 クーネは部屋の窓を開け、春の風を呼び込んだ。藍色の髪が豊かに波打つ。褐色の肌は日々の仕事でかさつき、あかぎれている。

 目尻に刻まれた皺を深くし、後ろを振り返った。


 そこに立っているのは、長身の男。

 墨を流し込んだかのような艶のない黒髪。白い肌。細身の身体。

 まだ幼い顔立ちの少年。

 意外な程力強いその腕で、遺品の整理を手伝ってくれた。

 優しい顔で、主人との思い出に耳を傾けてくれた。


 そうだ。報酬を支払わなければ。

 空には皓皓と、青白い光が。

 今夜は満月。

 少年の目に、どろりとした血の色が滲んでいる。

 求めるように伸ばされた腕に誘われるように、クーネは虚ろな足取りで彼に近づいていく。

 夜着の襟がまくられる。

 まだいくらか脂の残る褐色の肌に。

 少年の口元に伸びる二本の牙が近づいていく。

 震える肩を掴まれ。

 空気が冷えていく。

 花の香りに、血潮の色が混じった。


 ……。

 …………。


「ああああぁぁぁぁ」

「ちょっと、変な声出さないでくださいよ」

「だって、気持ちいいんだもの」

「大分凝ってるんじゃないですか、クーネさん」


 ソファの上にうつ伏せたクーネの上に、ヨルが跨って乗っていた。薄い夜着に包まれた背中を、ぐいぐいと指で圧していく。

「くあああ効くうぅぅぅ」

「こっちはどうです?」

「んー」

「こっちですか」

「ああああそこそこそこ」

「はいはい」

「ヨルちゃん。便利屋やめてマッサージ屋やりなさいよ」

「何言ってんですか。ちゃんと習ったわけじゃないんですよ。見様見真似です」

「それでも、十分、気持ち、いいってば」

 指圧を続けながら、ヨルはテーブルに置かれた小瓶に目を遣った。


「それよりクーネさん、これ終わったら、ちゃんと聖水飲んでくださいよ?」

「んー」

「クーネさん?」

「ねーえ、ヨルちゃん」

「何です?」

 ヨルの指の動きが止まる。

「それ、飲まなかったらさ、私、吸血鬼になるの?」

「……なりますよ」

「ふうん」

 枕替わりに使っていたクッションに、クーネは顔を隠した。

「なっちゃおっかな、吸血鬼」

「…………」


 ヨルは無言で、指圧を再開した。

「大体変な吸血鬼よね、ヨルちゃんも。月に一口だけおばさんたちから血を吸って、吸ったらすぐに『聖水飲んで』だもんね。それも便利屋の仕事の報酬としてなんてさ」

「体を維持するだけならそれで十分なんですよ。眷属も要らないですし」

「ホントに要らない、眷属?」

「要りません」


「だぁってさ、来る日も来る日も蚕のお世話と蚕の虐殺。桑の匂いは取れないし、生理も来なくなるし、あの人はもう帰ってこないし、そろそろ節目かなあ、なんて思って倉庫片付けたらさ、なんかもうどっと疲れちゃった。そのうち更年期障害とかが来てさ、足腰が曲がってきて、皮がダルダルになってきて、枯れるみたいに死んでくのよ。どうせだったら化物になって面白おかしく生きてみたっていいんじゃないか、ってさ」

「クーネさん」

「何よぅ」

「吸血鬼になったら、『ハイビ』のニンニクたっぷりペペロンチーノ、食べられなくなっちゃいますよ」


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「あっはっはっはははははは! そりゃ困る。月に一度の楽しみなのに」

「旦那さんの思い出、ちゃんと仕舞えたんでしょ」

「うん、そうだね。時々は思い出してやんないとね。寂しんぼだったし」


 ……

 …………。


「そういえば、ヨルちゃん」

 クーネがしっかりと聖水を飲むのを見届け、帰り支度を始めたヨルに後ろから声がかけられる。

「はい?」

「新しく赴任してくるっていう聖騎士の人は、まだ着かないのかしらね」

「あー、なんか遅れてるみたいですね。って言っても、みなさんあんまり期待してないみたいですけど」

「まあねえ。でもよかったわよね、ヨルちゃんは」

「何がです?」

「だって、この聖水、隣町まで買いに行ってるんでしょ?」

 空になった小瓶を指先で弄び、クーネが言う。


「ゲンジさんがいた頃は、格安で売ってくれたんですけどね」

「格安っていうか、値段つけるのがそもそもおかしいじゃない。こないだ初めて知ったわ。これ、ただの水に聖騎士の人が陽の魔力練りこんでるだけなんでしょ?」

「それ、新任の人に言わないでくださいよ。言い方気にするんだから」

「お生憎様。私は魔族よ。聖気だなんてお高くとまって、五色の魔力と差別してるんでしょ」

「まあ実際、陰陽二極の魔力は五色の魔力とは区別されますから。それに、物質に魔力を通すのだって専門的な技術がいるんですよ。技術料だと思えば」

「優等生ねえ。ま、とにかく、これからはその新任の人に貰えばいいじゃない」

「そうなんですけどねぇ」

「どうしたの?」


「いや、その人、どうやらこないだ養成校を卒業したばっかの女の子らしいんですよ。まずこの街に馴染めるかっていうのと、そもそも聖水を作れるかっていう……」

「あらそうなの。へえ、まあそれならそれでいいじゃない。若い子なんて滅多に来ないんだから、仲良くしてみたら?」

「それもそうですね」

「あ、ヨルちゃん。襟曲がってる」

「ああ、すいません」

「ていうか、あの黒い外套どうしたのよ。せっかくマーヤさんが作ってあげたのに」

「先月ヨーコさんのトコ行った時は着てきましたよ。雰囲気出過ぎてちょっと怖かったそうです。でもほら、今日、倉庫整理って聞いてたから、痛めちゃまずいと思って」

「次は着てきてね」

「もう駄々捏ねないでくださいね」

「この子ったら!」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 ……。

 …………。


 玄関口まで見送られ、月明りに照らされた夜の街を歩み去るヨルの背中を、離れた物陰の中から窺う、一対の瞳があった。


「あれは……まさか。ホントにいたんだ。どうしよう。私が、……私がなんとかしなきゃ」


 ……。

 …………。

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