消えていくもの
ドアの閉まる音を背に受け、一真の部屋の奥へ進む。
懐かしい。あまり物がない6畳一間の部屋。シトラスの香りが仄かに鼻をくすぐった。
「なんだよその格好」
「綺麗でしょ?」
私は簡素な部屋の真ん中でくるりと回り、スカートの裾を持ち上げてみせる。
「綺麗だけど、そんな派手なドレスで外歩いてくんなよ」
一真は疲弊感を匂わせた息を零して、薄緑色のカーペットの敷かれた床に腰を下ろす。
「最後に一緒に過ごすって、どこに行く気なんだ? 俺はタキシードなんて持ってないぞ」
私は彼の真正面に座り、目線を同じ高さにして見つめる。
「パーティーに行くんじゃないよ。場所は私の部屋」
「そこで何するんだ?」
一真は怯えた表情で問いかけてくる。私は疼く胸の痛みを呑み込む。
私がやってきた数々の愚行が彼を苦しめた。私の愛は彼の酸素を奪い、呼吸すらまともできなくなった。今では反省してるし、きっともう元には戻れない。
「それは行ってからのお楽しみ。服はスーツでいいよ」
私は精いっぱいの笑顔で言った。
「本当に今日1日付き合えば、追い回すことも、メールも寄こさないか?」
私はバッグから携帯を取り出して、彼に差し出した。
「一真とのメールも全て消した。電話番号もメールアドレスも変えた。私の携帯にはもう、あなたはいない」
一真は神妙な顔で私の顔を数秒見つめて、おずおずと携帯を取った。
一真は私の携帯を操作していく。私の言ったことが本当かどうか確認している。これもまた儀式のようで切なかった。
でも、これは前章ようなもの。本当の儀式は、これから始まる。
3分ほどして、一真は私に携帯を返してきた。
「信じてくれる?」
私は願いを込めて聞いた。
「ああ……とりあえず本気みたいだな」
「ありがとう」
私の笑顔に、一真は難しい顔をして立ち上がって、クローゼットに近づく。
私は悲しい思いにひかれつつ、彼の行動を見つめるしかなかった。
クローゼットから紺色のスーツを出すと、「ここで待っててくれ。着替えてくる」と言ってユニットバスに消えた。
私は1人、部屋で待たされる。
さっきのことがまだ心に傷を残していた。
付き合っていた頃は、私が笑えば一真は笑顔を返してくれた。今では何もかもが噛み合わない。
一緒に過ごしたこの部屋も、今では過去のオブジェ。小さな箪笥の上に飾られていた2人の写真はなく、円柱のスピーカーに挟まれ、ポータブルオーディオプレイヤーが硬いベッドで休んでいる。
足を畳み、壁に立てかけられたローテーブルは、私がここに入り浸っていた頃とは違うものに買い替えられていた。ローテ―ブルの裏に油性ペンで書かれた【大好き】も、ここにはもうない。
世界から私達の思い出の形が消えていく。それは仕方のないこと。永遠の愛は、私が壊してしまった。自覚もなく、彼のためだと思っていたことは全て、私のためだったのだ。
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