願い

 私はドレスのスカートに気を使いながらタクシーを降りた。私が目を向けたのは、どこにでもある安そうなマンション。私は靴を鳴らしてマンションに向かう。

 ドレスのスカートの前を少し上げ、踏んでしまわないように気をつけて、階段を上っていく。春風が運ぶ澄んだ空気が階段の中を通り抜ける。

 きっとこの風は、誰かにとって期待と不安を胸に抱いた人達の背中を押す風なんだ。でも私にとってこの風は、期待と不安に混じって切ない匂いを持った風に感じる。卒業式の感覚に少し似ているかもしれない。


 私はゆっくり目的の部屋の前に来た。薔薇をイメージさせるロンググローブを着けた私の指先が、202号室のインターホンを押した。

 反応がない。大丈夫。この時間にいることは知ってる。

 私は5秒おきにインターホンを押していく。中で物音が聞こえ始める。大きな足音は玄関で止まり、ゆっくりとドアが開いていく。ドアの隙間から、まだ眠そうな彼が顔を覗かせた。


 彼は目を見開いて驚くと、咄嗟にドアを閉めた。

「待って!」

 私はドアに貼りつくようにして声をかける。

「お願い聞いて!」

「うるさい! 帰れ!」

「違うの! 私は、あなたと!」

「もう聞き飽きたよ!俺はお前と別れたんだ!もうどっか行けよ!」

 こう言われるのは分かっていた。散々やってきた。私は疼く胸の痛みを堪えて、必死に説得する。

「私の頼みを聞いてくれたらもうどっか行くから!お願いだから、話を聞いてよ一真かずま!」


 一真の声が聞こえなくなった。ドア越しに耳を澄ませても音は聞こえない。

 でも、一真は近くにいる気がした。私の掌がドア越しに伝わる彼の気配を受け取っている。

「なんだよ、頼みって……」

 兆しが見えた。私はそれを掴むしかない。

 私は姿勢を正し、ドアの前に立つ。

「一真のことは、もう諦める」


 この言葉を告げるのに1ヶ月を費やした。自分の声がこの言葉を告げていることを聞いてしまうだけで、胸が張り裂けそうだった。


「だから最後に、1日だけ、私と一緒に過ごしてくれませんか?」


 隣の部屋のドアが開き、そこから覗く若い女性の顔。不審を訴える目と合った。私は好奇な視線から目を逸らし、彼の部屋の前で毅然きぜんと彼の言葉を待った。

 目の前のドアが開き出した。落ち着きを取り戻した一真が表情を強張らせ、「入れよ」と促す。

 私は微笑み、「ありがとう」と返して一真の部屋に入った。

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