第61話
ふいに風が吹きすさび、城の周囲を砂埃が舞った。
城門の奥に見える円卓上で、白い物が動いた。次々に黄ばんだ紙がめくれあがり、風がやむとともに動きを止める。ジョンフォースの日誌だ。
今になっても戻ってこないということは、日誌に残された空白が埋められることはないのだろう。そうアラートンは思った。
肩をすくめて前に向き直ったアラートンは、思いもよらない光景を見た。
禿山が森林に変わる境界線を越えて、ケンプ達が馬を走らせている。それを頂上から見下ろすアラートンとの中間で、ワァフが弩をかまえていた。その狙いはケンプの背中に向けられている。
城からのびる道は、ほぼ一本道だ。敗走したワァフがケンプと道をすれ違ったわけではない。木の葉を撒き散らし、枝を折りながら、森の中からケンプ達の後方に突如として現れたのだ。
森の中を逃げまどっていたため、ワァフの髭や服には葉や草がまとわりついていた。落下の衝撃を受け止めた屋根の
ワァフは右手だけで重い弩を持ち、ケンプ達の背中へ向け、微動だにしない。すさまじい筋力だった。
左手は肩から切断されて皮膚だけで繋がり、振り子のようにゆれている。引きずった足が蛇のはったような紋様を地面に残している。頭から流れる血で白髪が染まり、左目まで覆っていた。
「止まれ……!」
押し殺すような叫びは、弩が向けられたケンプにも、背後から走り寄ってくるアラートンにも届かない。
「ジョンフォース団は終わらん、旅はまだ続くのだ……」
片手で持っているため弩の狙いが定まらない。激しく息をつきながら、ワァフは弩をかまえ直す。
「団を抜けることは許さん、今から団長を助けに戻るぞ……!」
ケンプの背中にしがみついているマリヤウルフが吠えたが、脅しにもならない。直線が続く一本道のため、曲がって隠れることもできない。もし馬から降りて森に隠れようとすれば、その瞬間を狙い撃ちされる。
ケンプが馬の腹を蹴った。少しでも速く遠ざかろうとするしかないのだ。
跳ね橋を渡りきったところで立ち止まっているエイダをすり抜けるように、アラートンは荷を放り捨てながら坂を駆け下りた。刀を握りしめ、坂を駆け下りながら、声にならない叫び声をあげる。
その叫びは、ケンプに対するものか、自身に対するものか、どちらであったろうか。
「速く行け、馬鹿が!」
その台詞は、戦場からともに逃げた異教兵の仲間がアラートンへ叫んだ言葉だった。その仲間は追っ手を撹乱する囮となることを自ら選び、アラートンの逃走を助けた。
叫びが届いても、ワァフが狙う弩はケンプの背中につけられたまま、ゆらがない。
アラートンは下り坂を転がり落ちそうなほど前傾した。
握りしめていた刀を背中へ回し、そして全身の力をふりしぼって投擲した。
回転する刀は、灰色の空に向かって高く上がりながら、途中で力つきて落下する。
そうして大きな放物線を描いてワァフの背中へ突き刺さり、そのまま貫通した。
回転で裂かれた背と、切っ先が突き出た胸から、刀の銘通りに
ワァフは弩を握ったまま前のめりに倒れた。背中に突き刺さった刀が抜け、道へ倒れて金属音をたてる。
ケンプはふり返ることなく馬を蹴立てて、森の小道を走り去った。
刀を投げた勢いで坂を転がったアラートンは、荒い呼吸をくり返しながら立ち上がった。全身はすっかり泥まみれになっている。
アラートンは息を整える間もおかず、ワァフの様子を確かめにいった。
小道の中央で、老いた戦士は胸から大量の血をあふれさせていた。白髭も赤く染まり、血溜まりを道に広げて、ぴくりとも動かない。近くに転がっている弩は、落ちた拍子に仕掛けが壊れて、使い物にならなくなっていた。
「……行かせてやれば良かったんだよ……馬鹿な夢を見ている若者くらい」
息をきらせながらアラートンはつぶやき、拾った刀を軽く振った。ほとばしる水気で血と脂が流れ落ち、運命の印が姿をあらわした。
それからアラートンは力が抜け、崩れ落ちるように地べたへ寝転がった。
あおむけの姿勢で空を見上げる。左右から木々が迫ってくる視界の中央に、灰色の雲が満ちて見えた。
「何をやってるんだか、俺は……」
刀をつかんでいる指先に、シュナイを騙して喉をかき切った時の感触がよみがえる。魔物を殺すことと人を殺すことに、大して気分の違いはない。
そもそも魔物の魂が下劣で、人間の魂が高潔などと、誰が決めた。皇帝か、教会か、それとも神か。そのどれでもない、かつて異端であり今は詐欺師でしかないアラートンが、魔物と人の魂が異なるなどと信じる必要はあるのか……
アラートンの鼻先へ小さな水滴が落ちた。すぐ柔らかな雑音が周囲を包む。
霧雨は道を濡らし、土の臭いが漂い始めた。横たわるアラートンは、空を見つめたまま、ほこりっぽい顔を雨で洗った。
横に視線を移すと、目を見開いたまま絶命しているワァフの顔があった。さぞかし未練をたっぷり残して逝ったのだろうと思える、ゆがみきった表情だった。
「……悪く思うなよ。後で弔ってやるから」
倒れているアラートンの、頭の方向から、泥をはねる足音が近づいてきた。
しばらくして、道端の草むらに荷物を投げ出す音がした。
「急に走って行かれたので、驚きましたよ」
二人分の荷物を運んできたエイダが腕をさすっている。
一見すると女の細腕だが、長く旅を続けてきただけの体力はついてきていた。
「悪いな」
上体を起こし、頭をかいて髪についた土を落とし、道の先を見る。先ほどまで豆粒のように見えていた若者と魔物の背中は、すでに森の奥へ消えていた。
ケンプ達が去った方角を見ながら、アラートンは笑った。
「馬鹿だが、いい若者だったな」
エイダが抑揚のない声で応じた。
「ええ、あなたとは大違いですね」
アラートンはエイダを見上げた。エイダは涼しい顔をして、透き通った青い瞳で道の先を見つめていた。
「驚いたな、あいつは心底から魔物を愛しているぞ」
「褒めたのは、あなたと比べたらの話ですよ」
エイダが薄っすらと笑った。
「あなたの場合は、少しは腕も鍛えなければ次はありません。道なかばで倒れれば、教会に許しを願うこともできなくなりますよ」
確かに、よく命中したものだとアラートンは思った。
猟のために投擲はそれなりにできる。しかし、坂を駆け下りながら、使用した経験のない重い刀を投げて、当てられるとは思わなかった。威嚇できるのがせいぜいで、ほとんど無意味な賭けだと感じていた。
ワァフ殺しだけではない。今回の戦いは悪運にめぐまれすぎていた。竜の血で一度は死をまぬがれられるからといって、やや無茶をしすぎていた。
「わかっているさ。二度はない」
何度も奇跡を期待するほど幸運に恵まれた旅をしてきたわけではない。
しかし、少し思いをめぐらして、アラートンは気づいた。加護術とは、奇跡を体系化した技であるということを。
見上げると、霧雨に体を濡らしたエイダが薄っすらと笑っている。
女僧侶は薄いくちびるを小さく開けて、つぶやいた。
「……そう、二度はありません。それゆえに奇跡と呼ばれるのだから」
アラートンは立ち上がりながら、ふとした疑問を口にした。
「なぜ、俺についてきてくれた?」
「いいませんでしたか。神の教えを伝え、導くため。それが万人に等しく向けられる博愛というものです」
答えたエイダは真面目くさった表情をしていて、冗談でいっている様子ではなかった。
「見返りを求めず、愚か者へ奉仕することこそを愛と呼ぶのですよ」
……ならば、アラートンがワァフを止めたようとして殺したことも、同じように愛とやらだというのか。
ひとしきり笑ったアラートンは、隣に倒れているワァフの死体に目をやった。
「では、道端に埋めてやるか。愛とやらをこめて」
伝説に残ることのない勇者の苦笑いが、黒い森の霧雨に溶けていった。
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