第50話 城
すべての小袋を投げ終わったアラートンが、腰に差していたナイフを抜く。
狭苦しい場所では、刃渡りが短いほど有利だ。今のソードストールは小刀を持っていない。
切り裂かれた腹から血が止まり、顎を赤黒い血で濡らしたまま、アラートンが笑った。
「……こちらの勝ちだな」
「ほう、呪術や加護術ではなし」
アラートンは正直に答える。話をして、少しでも時間を稼げば、外にいるジョンフォース団からの助けが期待できる。
「ああ、もし致死性の傷を負ったまま教会の加護で命だけ救われても、傷そのものが治っていなければまた死ぬだけだからな。呪術となると、教会が嫌っているから使える人間は滅多にいない。たとえ使用できたとしても呪われて復活すれば、まともな人間ではいられない……」
だから呪術師として復活していたジャニスを人として復活させることにも手間がかかった。
「そこで少し前に竜の血を手に入れて、あらかじめ浴びておいたのさ。そうそう死にたくはないんでね。後からかける術と違って、命をつなぐだけでなく、肉体も再生できる」
竜とされる魔物の血を浴びれば、不死に近い力を手に入れられる。シュナイから得た血は少量であったが、斬殺を一度だけ切り抜けるくらいは充分だった。北欧神話のジークフリートなどの伝承として伝わる竜の能力が、アラートンの奇策を支えた。
「本当は市場で高く売りつけようかとも考えたよ。しかし、そこらの魔物の血と区別できる証拠がなかった。手に入れた量が少なすぎて、商人の前で試すのももったいなかった。もっと大きい市場に行けば竜の血を見わけられる買い手がついたかもしれないがね」
アラートンがナイフの切っ先をソードストールの刀へ向ける。
「しかしその刀、どう考えてもおかしいよな。何人も斬りながら血や脂で切れ味を鈍らせない」
捕らえた獣の肉を解体する時は、何度となくナイフの血や脂を落とさなければならない。それをアラートンは熟知している。
「おそらく、その刃に浮かぶ露が、汚れを落としているのだろ?」
「慧眼」
ソードストールは白濁した目でアラートンを見返した。
「この刀の銘はチザメ……この地の言葉で呼ぶなら、
「それだけではないだろう。茸の魔物ならば、乾燥が怖いはずだ。水の少ないこの地方で、刀の露が助けになったに違いない。石灰の粉は、よく水分を吸うだろう?」
「……良い鋭さだ」
むろん早朝にソードストールが奇襲してくるとまではアラートンも予想していなかった。石灰で相手を固められたことも、予定していたことではない。
小袋を投げることでソードストールの刀を誘導し、石灰が積まれている部分を切らせ、自滅させた。これは即興で思いついた策であり、もし最初に考えをめぐらしていたならば成功率の低さから自ら却下していただろう。
「ナイフの腕はさておき、投擲は見事なり」
今日の戦闘で目潰しが使えるかもしれないと思い、いくつかの粉袋を開けて、灰と混ぜながら小袋に移しかえていたことが、役立った。
「ただの悪運だよ、本当に」
「……罠か」
「そちらは正面からの戦いを好んでいるみたいだな。こういう戦いはつまらないだろう?」
「さにあらず」
ソードストールは一瞬だけ頭上を見て、直上には垂れ下がっている物がないことを確認した。
石灰に固められた関節を動かし、まっすぐ刀を上段へかまえた。刃が粉に覆われていても、長い鉄の棒と考えれば、棍棒として充分に使える。
固まった粉が圧縮される時に独特の、激しくこすれるような音がした。石灰を浴びて重く垂れたマントが持ち上がる。
ソードストールの体表で乾いた石灰と小麦粉がひびわれ、細かな塊のまま散り落ちた。
「動けるのか……」
アラートンは後ずさった。粘った小麦粉が靴底に張り付き、足が重い。握ったナイフが、急にたよりなく感じた。
「興味深かった」
その一言とともに、ソードストールは刀を振り下ろそうとして、腕に力を込めた。
しかし顔を少し上げ、アラートンの背後を見たまま、ソードストールは動きを止めた。
アラートンも聞いた。背後の中庭で、マリヤウルフが小さく吠える声。
全ての団員が中庭に出て、全員が出撃したとでも勘違いしたケンプが何をしでかすか、アラートンにはすぐ見当がついた。
それが今の状況にどう活かせるか考えるのも容易だった。
「人質だ!」
そう叫んだアラートンは、ソードストールの首もとを目がけてナイフを突き出した。ソードストールは動かなかった。
自分が動けば、アラートンの背後にいるマリヤウルフが、若い戦士に殺される……そうソードストールが誤解することにアラートンは賭けた。
戦いは一瞬の内に終わった。
動きを止めている相手なら、どう切ればいいかアラートンは熟知していた。
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