第10話

 街灯が灯り出す時分、静かな住宅街の通りは、普段には感じられない薄気味悪さを醸す。

ヘッドライトは血溜まりを照らし続ける。車は徐行運転。

男は注意深く左右を見ながらハンドルをさばく。


(ひと気が無い……ヤツらも昼行性? 夜は眠るのかな?

 てっきり延々と活動し続けるもんだと……いや、獲物を探して移動をしたのかも知れない。

 住人は会社員や学生で、朝には家を出るし、家に残るのは主婦くらいで……)


 統也は頭を抱えて項垂れる。


(母サン……)


 父親は出社した後だろうが、母親は家に籠って惨劇を免れていると信じたい。



「ここで良いのか?」


「!」



 ブレーキ音を立てず、車は無音で停車。家の門には【水原】の表札。


(いつもは、この時間には電気くらい点いてるのに……)


 何処も同じだ。灯り1つ点かない真っ暗な家が並ぶ。


「トイレ、でしたよね? どうぞ」

「あ。悪いけど、家の中の様子を先に確認して貰えないかな?

 そうだな、20分経っても出て来なかったらトイレは諦めて、このまま出発するから」


 何処に何が潜んでいるか分からない。

身の安全の為には片っ端から疑ってかかるのが、この男の流儀。


(自分は何があっても逃げられるように準備万端か。……ちょっと引く。

 でも、この人もタダで生き延びたわけじゃないだろう。

 俺達と同じ、恐ろしい体験をして来たんだろうから、これも当然なのかも知れない)


「分かりました。俺としても、何かあって家の中で漏らされたんじゃ堪らないから」

「……」


 1つ嫌味を残し、統也は車を降りる。


足音を殺し、待ちに待った我が家への帰宅。

統也は繰り返し固唾を飲み、ドアノブを握る。



 カチャ……



 鍵は開いたまま。


(足が、進まない……)


 家に帰れば日常が待っている。

現実を見れば、そんな夢物語を願う自体が馬鹿げていると解かっている。

然し、今朝までは当たり前に存在していた日常が消失している事を突き付けられるのは恐ろしい。


(大丈夫、大丈夫……母サンは避難した。

 ここは住宅街だから、警察や自衛隊が率先して救助に当たってくれて、

 今はきっと、安全な場所で俺を待ってる……)


「た、だい、ま……」


(そうじゃなきゃ、この騒ぎに俺が家の鍵を無くしても ちゃんと帰って来れるようにって、

 締め出されたりしないようにって、母サン、何だかんだ俺には甘いから……)


 ドアを開ける。


「暗い、なぁ……」


 靴を脱ぐ。そして いつも通り、リビングへ向かう廊下を歩く。


「……母サン、買い物に出たの? まだ、帰って来てないの? 俺、腹減ったよ……」


 リビングのドアは半開き。


「今日はさ、何か、酷い目に遭ったんだ、俺……

 友達がいっぱい死んで、それなのに田島なんか寝ちゃって……

 さっき何か、車に轢かれそうになって怪我したんだ、膝、痛くて……

 もう走れないよ……」


 カチッ……と、リビングの電気を点ける。

明るくなった室内には女が1人佇んでいる。



「母サン……」



 見慣れた後姿。

身につけているピンクのエプロンは、昨年、統也が母親の誕生日に送った物だ。

とても気に入ったと言って、母親は毎日そのエプロンをつけて家事をこなしていた。


「ねぇ、母サン、」


 2度目の呼びかけに、母親は首を捻って振り返る。



(どうして……)



 母親の顔の半分は喰い千切られている。

損傷は少ないが、その真っ青な肌の色から見て、既に生きていない事が分かる。

負傷したまま家に逃げ戻り、息子の帰りを待ち侘びながら、ゆっくりと息を引き取ったのだろう。


「俺、やっと、帰って来たんだよ……? 母サンの事、心配で、心配で……

 母サンもそうだろ? 俺の事、心配してただろ?」



(どうしてこんな目に、遭わなきゃならないんだ……)



「大丈夫だよ、解かってる……死んじゃっても、母サンは俺を待っててくれたんだよね?」



(母サンだけは変わらない……どんな姿になっても……)



「そうだろ?」


 統也の問いに応える様に、母親は口を大きく開くと濁った声で雄叫びを上げる。



「アァアァアァアァアァ!!」


「!!」



 母親は牙を剥き出しに髪を振り乱して統也に飛びかかると、力任せに床に押し倒す。


「うわぁッ、うわぁぁぁ!! ああ!!」

「ガァアァアァアァ!!」


 統也に食らいつこうと顔を突き出せば、ガチン! ガチン! と歯を鳴らす。


「母サンっ、母サン!! 俺だよ、統也だよ!!」

「アァアァアァアァアァ!!」

「俺の事、忘れちゃったのかよ!?」

「ガガガガァアァアァ!!」


 この儘では喰い裂かれる。

統也は母親の腹を蹴り飛ばし、一時を回避すると壁を伝って立ち上がる。


「ハァ、ハァ、ハァッ、……か、母サン、ご、ごめん……、」

「ウゥウゥウゥ、アァアァアァアァ!!」

「落ち着いてっ、思い出してくれよ、ねぇ、頼むから、母サン!!」


 統也は後ずさりながらの嘆願。然し、母親に言葉を理解する思考は無い。


(悪夢だ、やめてくれ、助けて、元に戻して、元の世界に返してくれ、こんなの……)


 再び飛びかかって来る母親の顔は、生前の優しい笑みの1つも連想させない。

もう既に、別の存在に変わっている。



(こんなの、俺の現実じゃない!!)



 統也は傍らに立つ電気スタンドを握り、振り上げる。


「ガァアァアァアァアァ!!」

「うわぁあぁあぁあぁ!!」



 ガツン!!



 電気スタンドは母親の頭にめり込み、ヘシ折れる。

そして、統也の目には、仰け反って倒れる母親の姿がスローモーションの様に映る。


(母サン……)


 母親は静かに倒れ、その後、動く事は無い。



(不死身じゃ、無かったのか……)



「母サン、」



(頭を潰してしまえば、死んでしまうんだ……)



「母サン……?」



(俺が、殺した――)



「うぅ……うぅぅ、あぁ、あぁ……あああああああ!!」



 統也は泣き崩れ、頭を掻き毟る。



(俺が殺した俺が殺した俺が殺した俺が殺した俺が殺した俺が殺した俺が殺した……)


「俺が殺した!!」



 掌には、母親の頭を砕いた感触。


(母サンは、優しかった……

 怒るけど結局は許してくれて、いつも俺の事を考えてくれて、それなのに……)


 一瞬、母親では無く、ただの化け物に見えたのだ。

だからこそ、電気スタンドを容赦なく振り下ろす事が出来た。



(俺は自分の事だけ考えて、自分が生きる為だけに、手段を選ばなかった……)



「最低だ……」



(こんなやり方、最低じゃないか……

 俺なんか生きてる価値、無いじゃないか、死ねば良い、死ねば良い、死ねば良いのに……

 でも……)


 2度目の死ばかりは素直に受け入れた母親の亡骸を見つめ、統也は奥歯を噛み締める。



(この期に及んで、俺は死を恐れている……)



 統也は涙を拭うでもなく立ち上がり、ソファーを飾るクロスを剥ぎ取ると、母親の屍にかけてやる。せめて、その姿を隠してやりたい。

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