第八幕 都市伝説の一夜


 夜陰に紛れて複数の黒ずくめがそっと屋根の上に飛び移る。

 頑丈な煉瓦造りの酒場宿は、屋根を伝う足音一つ響かせない。

 命綱を腰に巻き、屋根から壁を伝って窓の中を覗くと、少女が健やかな寝息を立ててベッドの上で仰向けになっていた。

 部屋を分けたのか、そこには派手な蝶ネクタイの男は見当たらなかった。

「例の赤毛の娘です」

 ズボンのポケットから取り出した懐中伝話モバイルトーカーを開き、中の様子を相手に見せる。

 伝話の画面越しに縫合痕の男がその寝姿を視野に入れ、思わず舌すすりした。

「こいつは……思ったより教育し甲斐がありそうだ……」

 売る前に味見するのも悪くない――などと密かに考えを巡らす男。

「行け!」という縫合痕の合図で、黒の群れは窓を割り容易に建屋に侵入していった。



 不意に響いたガラスの割れたような音で、ロゼリッタは目を覚ました。

 何が起こったのかは解らない。ただ――次の瞬間、目に焼き付いたのは無数の黒い覆面達。それがシーツを剥ぎ取り、自分の上に馬乗りになり、口をふさぎ、手足を押さえつけ、そして――短刀をその柔らかな頬に近づけた。

「大人しくしろ、娘! そうすれば後でお前の知らない世界を教えてやる!」

 その血走った瞳は悪意の塊のようで、無垢な少女の中を無理やりこじ開けようと牙を立てる獰猛な獣のようであった。

 背徳感の余り、男は息を荒くする。

 刃は頬の辺りから徐々に下がり、首筋、更にはまだ未発達な胸元へと切っ先を向ける。そして、


 炎が爆ぜた。


「なんだ今の音は!?」

 静かに寝息一つ立てていないシーツのふくらみを掴もうとしたその時だった。

 赤く滲んだ縫合痕がひりつくのを覚えたかと思えば、不意に背後から爆発音のような物が聴こえてきたのだ。

 男が思わず怒鳴り声をあげるのも無理はない。相手が素人であればその程度の間はほぼ一瞬に等しかっただろう。だが、

「あんたの方こそ、一体何処のどちらさんで?」

 彼が寝首を掻こうとした相手は、そんな隙を見逃してくれるような男ではなかった。

「なっ!?」

 振り返る間があればこそ。

 いつの間にか、彼の背後に何者かが立っていた。

 声からすると若い、二十代半ば過ぎといったところだろうか。

 それは硬い鉄の塊を後頭部に突き付けて、呆れたような口調で続けた。

「おっさん、夜這いをかけるなら部屋を間違えてるぜ。そのシーツの中を良ぉ~く確かめて見な?」

「くっ……」

 背後の死神を警戒しながら、ゆっくりとベッドの上で綺麗に敷かれた純白を掴む。そして、バサッと引きはがしたそのシーツの中には枕と布袋サックが並べられていて――刹那、脳を揺さぶる鈍い音と伴に嘔吐感が込み上げる。手足の痺れ、視界が白んでいき――そこでの意識がふつりと切れた。

「手間取らせやがって……」

 舌打ちながら、足元の男を見下ろしてウィスターが零す。

「さて、必要ねえとは思うが、一応幹部様の様子でも見ておくかね」

 誰にともなくそう呟いて、蝶ネクタイの男は気だるそうに隣の部屋を覗きに行った。


「な、なんだい、あ……アンタは?」

 紅蓮の髪を爆風で揺らしながら、ロゼリッタは対峙する黒衣の影に

 月明りを背に立つその怪人は、目深に被った闇色のフードの下に月と同じ血の色をした二つの光で少女と少年を見つめていた。

、ゼノ君まで巻き込むつもりかい!?」

「フッ……それに当たっても問題は無い……」

「なんだって、あんたもゼノ君をさらいに来たんじゃないのかい?」

「な、どういうことです! ロゼリッタ様?」

 そこへ、様子を見に来た蝶ネクタイが少女に問いかける。

「ウィスターか」

「何者ですか、この不気味な野郎は?」

「知らないよ。ただ、は確かだけどね」

「仲間じゃない?」と、おうむ返しに問うウィスター。

 そっと右手を腰の辺りに伸ばしながら、正面に立つ漆黒をにらみ据える。

 その紅い瞳と目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走った。

「なんだよ、コイツ……」

「……レーダスへ行け」

「何?」

 不意に闇が発した言葉に眉をひそめる少女。

「レーダス? そんなとこに行って何があるってんだい?」

「……さあな、行けば解るだろう……」

「ふ、ふざけんじゃないよ! どうせ罠でも仕かけてんじゃないのかい?」

 ロゼリッタの問いかけに、しかし闇は答えない。代わりに少年の方を一瞥して、一言だけ告げた。

「確かに伝えたぞ……」

 不意に月が隠れると、闇色の怪人はそのまま夜陰の中へと溶けていった。

「お、おい……今、き、消えたよな?」

「た、多分……」

 唖然とする二人を余所に、少年が近くに転がった黒焦げの男の前に立つ。

「願わくば、哀れなこの者達を清めたまえ」

 呟きながら、彼は膝を付いてその骸の上を人差し指でなぞるように印を切る。

 それから手を合わせて祈りをささげた。


 宵の闇は、ただ静かにそこに佇んだまま、無為なる時を刻み続けた。

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