第8話 おはなと夜
――奴らはいる
知ってはいた。知ってはいたが、あの日以来、自分の記憶の中でのみ存在しているだけであった。時々、これは全て夢なのではないのかとさえ思っていた。それが今日、急激に現実の存在となって胸に迫ってきた。
胸の奥で赤黒い炎が燃えだした。その炎は、あの日からずっと胸の奥にくすぶって消えていなかった。消えないどころか、ジリジリと身を焼き尽くしていた。それが今日、南町奉行所同心の鞍家新右衛門という侍が来たことによって、轟々と音をたてて燃えだした気がした。
八王子宿の旅籠だ。祭りが終わると八王子宿まで戻ってきた。安宿の二階にある大広間には、多くの男女の旅人が雑魚寝をしていた。皆、今日限りの一宿一飯の関係である。周りに誰も知らないこの蚤だらけの薄い布団の上で、女――おはなは考えていた。
寝息といびきが聞こえる部屋の中、寝言だろうか誰かが何やら呟いた。寝返りする気配も感じる。冷気は厳しいが部屋の中は、人いきれのせいだろう、さほどの寒さは感じない。
ホウ、と外で何かが鳴いた。鳥だろうか。
おはなは、しばし耳を澄ませていたが、鳴き声はそれっきりであった。気配もしない。意識を戻した。
意識を戻すと、自然と過去の記憶に焦点を当てていた。普段は、見ないようにしていた過去だ。いったん目を向けると、待ち構えていたかのように記憶が流れ出した。
おはなの意識は、瞬く間に過去の記憶に呑み込まれていった。
「おはな」
優しい声だった。声まで笑っているのがわかった。おはなも自然と笑顔になる。
「おはな」
低い声。自愛が言葉の端々にまで満ちあふれていた。分厚くてところどころタコができている。しかし、柔らかく優しい手。
「おはな」
緊張で震えていた声。身体も震えていた。私も震えていた。お互い気がついて笑いあった。首筋がお日様の匂いがした。
幸せに満たされた世界が突如終わり、世界が変わる。
どんよりとした重苦しい空気、哀しみと怒りが混じり合った感情。叫び出したいのにできない。喉が蓋をされてしまったように感じる。息ができない。苦しい。
なぜ?
目の前に、人が横たわっていた。
誰?
わからない。着物の下から赤黒い液体が音もなく広がっていく。手のひらが目に入った。見覚えのある箇所にタコがあった。そっと触ってみる。柔らかいのに固い。知っている感触だ。しかし、冷たかった。芯が氷のように冷えていた。こんな冷たさは初めてだ。
「可哀相に、辻斬りにやられたらしい」
「お城からの帰りだそうな」
「運がなかったねぇ」
「夫婦になってまだ日にちがそんなに経っていなかったそうだ」
――辻斬り?何を言っているの?わからない
「おはな殿。気を強く持って聞いてください」
場面が自宅に変わった。目の前に侍がいた。若い青年の思い詰めたような顔は、まだかなり幼さが残ってた。しかし、それに被さるように濃い影が表情を覆っていた。
「……どのは、殺されたのです」
なぜだか最初の名前の部分だけ聞こえなかった。しかし、理解していた。
――え?何をこの人は言っているのだろう
「これは、ただの辻斬りなどではございません。……どのは、口封じのために殺されたのです」
――口封じ?
若い侍は悲痛な面持ちで頷いた。
「……どのを亡き者にした相手の名は……」
「……」
自分でも呟いたはずなのにその相手の名は聞こえなかった。
またも世界が変わる。
土砂降りの雨の中を喘ぐように急いでいた。
どこへ?
決まっている。あの若い侍が教えてくれた場所へだ。
雨の音が、また記憶を呼び起こす。
真夜中に突然に若い侍が現れた。
「お逃げください。今すぐに」
事態を飲み込めない私にじれたように若い侍は早口で言った。
「一刻を争います。……がおはな殿のお命を狙っております。すぐにここに書かれている場へお逃げください」
そう言うと若い侍は、油紙で梱包された文を渡してきた。
「ここに私の書状があります。これを私の武の師匠で、今はご夫婦で隠棲なさっておいでの方にお渡し下さい。この文を見せれば必ずや力になってくれます」
私は、最低限の荷物だけを手早くまとめて、家を後にした。
若い侍はどうかご無事で、とだけ言って頭を下げた。
――あなたは?あなたはどうするの?
問いかけた私に小さく笑うだけであった。その笑顔が忘れられない。何かを悟りきったそれであった。
私は歩いた。歩いて歩いて歩き倒した。
雨はいつの間にか止んでいた。髪が乱れ、顔にすだれのように張り付いても直さなかった。埃と汗が顔はおろか、体中についているように感じた。それでも歩き続けた。止まったら、己の中にある必死に堪え続けてきた何かが崩れ落ちて、そのまま一歩も動けなくなるのではないのかと怖かった。
いつの間にか山の中を歩いていた。
足は止められなかった。
何かにけつまずいた。バタリと倒れた。目の前が真っ白になって、視界がチカチカと光る。
濃密な土の匂いと濃い葉っぱの香り。このままここで少し休憩もいいかもしれない。そう思った刹那、目の前の視界が闇に閉ざされた。
気がつくと仰向けに寝かされていた。かい巻きが掛けられている。の炎が揺れている。
――ここは
少し周りを見ようと頭を動かした。途端に視界が歪んで回転した。思わず目を閉じる。
「気がついたかね」
しゃがれた声がした。老婆だろうか。
「ああ、そのまま横になっておきな」
おはなは小さく頷いた。しゃがれた声は続ける。
「あんた、山の途中で倒れていてね。それっきり三日三晩眠り続けてたんだよ」
――三日も寝ていたのなら目眩がしても仕方ない
おはなは冷静に思った。
「まだもう少し寝ておきな。あとで起こしてあげるよ」
しゃがれた声は、なぜだか聞いていると安心感があった。おはなは先ほどよりも大きく頷いた。ゆっくりと眠りに落ちた。
そこで、おはなは物音で目が覚めた。
朝であった。
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