第5話 亀裂
「ふう……」
奉行所内の空気が重かった。
小典は、厠だと言い置いて、ひとり外の空気を吸うために中庭に面する廊下まででてきた。
中庭は、綺麗に手入れされている。大きさは、大名庭園と比ぶべくもないが、それでも岩や雪見灯籠が庭木と相まって、上品な印象を見る者に与える。今は冬だから、枝にも葉は付いていないし、草も芽吹いていない。それでも、庭園に疎い小典をもってしても、その配置の妙は、なんとなくだが理解できる。全体的に清潔な印象を受ける。小典は、この庭が好きであった。
大きく息を吸って吐く。深呼吸を数度くり返す。寒さ厳しいが、それがかえって小典の中にある焦燥感を覆い隠してくれそうな気がした。
あの夜の捕物から数日が経っていた。
繰り返し思い出すのは、あの日の夜のことであった。
くせ者は、桃鳥の読み通り現れた。しかも、たった一人でだ。それなのに奉行所の腕っこきを集めた包囲網を易々と切り抜けて逃げたのである。小典はじめ、桃鳥ですら文字通り一歩も動けずに追うことすらできなかったのである。一方、筆頭与力である北矢勘解由左衛門が指揮して張っていた下谷の呉服商、鐘田屋豊兵衛宅には、数人のくせ者が現れた。激しい攻防の末に、こちらもすんでのところで取り逃がした。幸い、死傷者は出なかった。ただ、現れた賊をひとりも捕縛できなかったという事実は、すぐにお上の知るところとなった。お奉行である重藤図書助公連、筆頭与力である北矢勘解由左衛門はお城に呼び出されてしまった。すでに、二人が登城して数日が経っていた。奉行所内外では、様々な噂話が流れていた。曰わく、すでに謹慎の身となっている。曰わく、幕閣たちへの申し開きを連日行っている。すでに、二人とも腹を召された後だ、などという馬鹿げた話しまで聞こえてきた。小典は、そんな噂話を聞くたびに憤慨したり、現場にいた者のひとりとして申し訳なくなったりしていた。奉行所にいる多くの者達も同じような気持ちなのだろう。雰囲気は目に見えて沈んでいた。だから時々、こうして息抜きをしているのだ。
「うん。やはり砂糖漬けは桜八屋のに限るわね」
すぐそばで声が聞こえて、小典は思わずビクリとした。
「と、桃鳥様。いつの間にいらしたのですか」
斜め後ろに立っている桃鳥に向かって小典は言った。
「あら、心外ね。幾度も呼びかけたのに黄昏れてたのはあなたじゃない」
桃鳥は、手に持った紫色の物を口に運んでいる。
「それは、ナスですか?」
短冊状に切られた紫色のナスに粗目がついていた。そうよ、と桃鳥が答える。
「それ、砂糖漬けですよね。どうなされたのですか」
「ああ。これ?家にあったのを持ってきたのよ。皆、辛気くさい顔してるから」
そう言うと、小典に箱に入った砂糖漬けを差し出す。箱の中には、ナス、ニンジン、レンコンまである。小典はひとつつまんだ。
レンコンに粗目がついている。小典も初めて見る。だいたい、砂糖漬け自体高級品だ。貧乏御家人の己には、滅多に口に入れられぬ品物だ。
口に入れてかじる。レンコンの歯ごたえとともに粗目の甘さが広がる。
「美味いですね」
驚きつつ桃鳥に言った。
「気に入ったならあげるわ」
そう言って、箱ごと小典に渡した。
「箱ごといただいていいのですか」
確か桜八屋の砂糖漬けだと言っていたはずだ。桜八屋は、江戸でも有名な砂糖漬けを売っている店で、値段もかなりするはず。小典がずいぶん前に食べた砂糖漬けは、こんなに上品な甘さはなかったし、野菜ももっと固かったし、値段も安かった。さすが江戸でも指折りの砂糖漬けだと妙に感心してしまった。
「梅の間にまとめて置いてあるから好きなだけ持って行きなさい」
梅の間は、いわゆる与力同心たちの休憩する部屋である。そこにまとめて置いてあるということは、ひとつやふたつではないということだ。
驚きとともに桃鳥を眺めていると、
「甘い物を食べれば少しは気持ちが和らぐでしょ」
などと笑って言った。
先ほどは、家から持ってきたなどと言っていたが、わざわざ買ってきたのだろう。桃鳥の気遣いに小典は心が温かくなった。
「お奉行様と北矢様。ご無事でしょうか」
小典は呟いた。
「ふふん。ご無事よ」
「え」
思わず桃鳥を凝視した。
「お二人ともご無事よ」
「なぜわかるんです」
「そのように人から聞いたからよ」
「人から……」
誰からですか、と聞きそうになって、小典はすんでのところで言葉を止めた。横にいる黒葛太郎右衛門桃鳥は、元公家の家柄で大々身の旗本の当主なのだ。本来ならば、こうして言葉を交わすこともはばかれるほどの身分差がある。伝手を辿れば、様子を聞いてくるぐらいは可能だろう。
「お二方については、それほど心配しなくてもいいでしょう。ただ、問題は今回の下手人どもね」
「下手人どもが問題?」
小典の問いかけに桃鳥は頷いた。
「そうよ。あなたも体験したでしょ。あの男の奇妙な術」
そう。完全に取り囲んだ奉行所の猛者たちを文字通り指一本動けないようにしてしまったのだ。
「あのような術が本当に可能だなんて、いまだに信じられません」
桃鳥も頷く。
「わたしも驚いたわ。でも、そういった術がないのかといえば実はそうでもないのよ」
「桃鳥様は、あのような怪しい術をご存じでしたか」
小典は驚いた。小典自身は、今まであのような術の存在すら聞いたこともなかったからだ。
「かの有名な剣豪宮本武蔵は、気合いひとつで相手を金縛りにかけることもできたらしいわ。他にも幾人か有名な達人たちにも同じような話しが残っていることは事実ね」
もちろん、皆、噂の域を出ないけれどね、と桃鳥は付け加えた。
「ああ、そういえば、わたしの祖父の知り合いに客としてきた者に幻術を用いて、からかっていた御仁がいるというのを聞いたことがあったわね」
「幻術ですか?」
「そうよ。もちろんその御仁は、立派な武士で、兵法の腕前も相当だと祖父は言っていたけれど、客人に幻術を用いてからかうのだけが悪いクセだ、と憤慨していたのを思い出したわ」
「どうやって幻術を用いたのでしょう」
「なんでも、サッと術をかけてしまうのだそうよ。その術にかかってしまうと本当なら目の前にない食べ物を食べて満足してしまうらしいわ。例えば、まんじゅうを術にかかった客人の前だけに出すと本当にまんじゅうを食べているように手も口も動かして、その上、味もちゃんとするらしいわ」
「味までするのですか?にわかには信じ難いですね」
「ほんと、信じ難い話しね。そして、この話しの一番興味深いところは、その幻術は、全員にはかからないということなのよ」
「全員にはかからないということは、人を選ぶということですか?」
「その御仁が言うには、見た瞬間、幻術がかかるかからないがわかるらしいわ。だからかかる人にはかかるけれど、かからない人にはかからない」
「ふむ」
小典は腕組みをして考えた。
小典も武士の端くれだ。武芸に幼少の頃から慣れ親しんでいる。武芸では、『形ありて無いものを尊ぶ』と師の衣谷清十郎満晴に教えられてきた。禅問答のもののように聞こえるが、腕が上がるにつれ、なるほど、と膝を打つ場面が何度かあった。師の教えは、うまく答えられないが、感覚的にわかるのだ。しかし、それは皆が感じ取れるものではないらしい。同じ時期に道場で汗を流して稽古に励んでいても上手下手に分かれていく。その違いは、師の言うように『形ありて無いものを尊ぶ』ことが出来るか否かにあるような気がしていた。
だから、幻術にかかる者とかからない者がいるというのもどこか頷ける気がした。武芸にしろ幻術にしろ、それだけ、微妙な何かがあるのだろう。しかし、今回のあのくせ者が見せた術は、これらの理を大きく逸脱してるように思う。なにせ、奉行所の猛者たちを全て動けなくさせたのだ。
「桃鳥様は、あのくせ者も、なんらかの幻術を使ったとお考えなのですか」
ふと思ったことを聞いた。
「さあね。今のところ、違うともそうだとも言えないわ。いずれにしても金縛りでも幻術にしても驚くべき腕前なのは確かね」
「そうですね」
意識がはっきりとしているのに、体だけが夢の中にいるみたいな摩訶不思議な感覚。動いていたのはあのくせ者だけ。あの男が刀を抜けば、今ごろは、あの場にいた全員が首と胴が切り離されていただろう。そう思うと、小典は肌が粟立たずにはいられなかった。
「あの男の使う奇妙な術ももちろんだけど、あの男は、武家は武家でもただの武家ではないわ。それが一番の問題なんだと思う」
「確か、卯之介の子分も同じようなことを言っていましたね。特殊な業を身につけたとかなんとか……桃鳥様の言うただの武家ではない、というのはいったい……」
「黒葛様。鞍家。今しがた北矢様がお戻りになった。一同集まれとのお達しだ」
同じ同心の者が息を切らして知らせに来た。
小典と桃鳥は、一瞬顔を見合わせ、急いで向かった。
大広間には、すでに多くの与力同心が集まっていた。小典も桃鳥も一番後ろに座した。
正面には、北矢勘解由左衛門が座っている。まだ裃姿のままだ。本当にお城から帰ってきてすぐにここへ来たのだろう。
久方ぶりに見る北矢勘解由左衛門は、いくぶんやつれたように見えるが顔色は悪くない。
北矢勘解由左衛門は、ざっと周りを見渡すと口を開いた。
「皆のもの。ご苦労。先ほどまでお城で大目付の新田さまとお奉行である重藤さまとこれからのことについて協議を重ねてきた」
大目付の
「今回の事件は、上様も大変心を痛めていらっしゃるご様子。よって翌月の上様の御生誕までに下手人をあげろとのお達しだ」
北矢勘解由左衛門の言葉に集まった与力同心たちの間からどよめきにも似た声が上がった。
小典も同様に驚いた。
上様のお名前が出たこともそうだが、これからわずか一月で下手人をあげろとは、これまでの経過を考えると限りなく不可能に近い。しかも、相手は、妖術と見まごうほどの術を使う使い手だ。これまで以上に警戒もしているだろう。もしかしたら、もうどこかに潜んでしまって二度と現れない可能性すらある。
集まった与力同心たちは、お互いの顔をチラリと見るだけで、誰も声を上げようとしなかった。
大広間には、緊張感に支配された沈黙が長く続いた。
「北矢さま」
声を上げたのは、山野彦次郎である。
「上様のご命令ならば、なおのこと、失敗は許されないですな。次の手はいかにお考えか。まさか、また少数精鋭でいくなどとは……」
今回の作戦、実は二段構えに人を配置していたのだ。一段目は、少人数で店に潜んで敵を迎え撃ち、味方のいる方へ追い出す役と二段目は、大勢で捕縛をする役とに分けていたのだ。これは、店の中で潜むにしても大人数では難しいのはもちろんだが、狭い屋内で敵とやりあうのは一定の術技が必要なことと敵に無駄な警戒心を抱かせないようにとの配慮だ。当然のごとく、一段目の役には、奉行所内で腕の立つ者達が選ばれた。もちろん、山野彦次郎は二段目に配置されていた。
「山野どの。あれはあれでそれなりの策であった」
そう鷹揚に言ったのは浜永孫三郎であった。
浜永は、北矢勘解由左衛門の指示で鐘田邸の一段目に配置されていた。剣の腕前はそれなりに使えるとの噂だ。しかし、小典は、後々のことを考えてのことだろうと邪推している。
「だが、二度、同じ手が使えないのは必定。別の新たな策がおありなのだろう」
そう言うと北矢勘解由左衛門のほうへ視線を向けた。そこに居る皆の視線も集まる。
北矢勘解由左衛門は顔色ひとつ変えずに頷いた。
「策は、その都度選べばよい。まったく同じ戦がないのと同じように策や戦略も臨機応変に変えればそれでいい」
小典も頷いた。その通りだ。しかも今回の作戦は、桃鳥が考えて進言し、それを採用したのが北矢勘解由左衛門だ。おそらく、浜永孫三郎の口ぶりから、桃鳥が考えた作戦と言うことは知らないのであろう。知っていれば、桃鳥にも嫌味のひとつは必ず言うはずだからだ。己が責任を取る、と先に言っていた通り、責任は、北矢勘解由左衛門自身が全て取るつもりなのだろう。
「その後、誰か下手人に関する新たな情報はあるか」
北矢勘解由左衛門は聞いた。
登城していた数日間も与力同心、放免の者達がくまなく動いていた。むろん、小典と桃鳥も動いていた。
誰も声を上げなかった。先ほどよりも重い沈黙が辺りを支配している。小典も視線を下げた。卯之介も独自に動いているらしく、会えなかったが、なんらかの情報があれば必ず知らせに来るはずだ。それがないということは、いまだ正体が掴めていないということなのだろう。そういう小典も、ほうぼうあたってみたものの、まったくもって手応えがなかった。
横にいる桃鳥を横目でみる。ひとりだけ、面白がるような表情で真っ直ぐ前を見ていた。
「そもそも、元武家の者で二刀の使い手というのが間違いなのではないか」
山野彦次郎の声が上がった。幾人かが同意するように頷く。
「これほど多くの与力同心はもとより狗たちも動いていて、いまだになんの情報も掴めていない。これは根本的に間違っているとみるべきではないのか」
ざわざわと場がしはじめた。「そうだ」という声も聞こえた。
「お言葉なれど」
と小典の口から言葉が飛び出した。
「皆も見たはずです。坂屋弥五郎宅での浪人の遺体と巻川屋佐平治宅での奉公人たちの遺体を」
小典も桃鳥も坂屋弥五郎宅での浪人の遺体を直に見ていた。巻川屋佐平治宅では、人づてには聞いているだけで実際に見てはいないが、坂屋の浪人の遺体と同じ刀傷であったと聞いていた。
「あの刀傷は、かなりの手練れでなければできない。二刀の使い手かどうかはともかく、元武家の者という見立ては間違いではないと思います」
小典の言葉に山野彦次郎は鼻で笑った。
「なれば、なぜ噂のひとつも出ないのだ?それだけの手練れの賊であれば、どこからかは話しのひとつやふたつ、出てきてもおかしくはないはずだ」
これには、多くの与力同心が頷いた。
「そ、それは……」
小典は口ごもった。
確かに不可解であった。ほぼ全ての与力同心をはじめ岡っ引き以下、狗と呼ばれる放免の者達も動いている。いかに江戸八百八町と呼ばれ、数えきれぬ人々が暮らしている日の本一の城下町とはいえ、日陰の者達がいる世界はそうそう広くはない。なんらかの手がかりはあってしかるべきだ。しかし、それがないのである。
山野彦次郎は、小典が口ごもるのをたっぷりと侮蔑の眼差しで眺めてから、
「だいたい、なんら確証のないことをさも訳知り顔で吹聴し、皆を迷わせた者の責任が一番重いと思うが」
と隣にいる桃鳥を揶揄した。
桃鳥は、先の大広間での話し合いで、評判は悪いが売り上げを伸ばしている店を調べ上げることと元武士で二刀の使い手のならず者を調べろ、と提案したのであった。
「なんと……」
これにはさすがの小典も頭にきた。そもそも、先の話し合いで誰も声を上げなかったのを桃鳥ひとりが道筋をつけて、それを北矢勘解由左衛門が了承したのである。誰からも文句の言われる筋合いではないはずだ。加えて、確証がないどころかきちんと下手人が現れている。取り逃がしたのは痛恨の極みだが、それとこれとは別だ。皆を迷わせたなどと、言いがかりも甚だしい。
「いかに山野どのとはいえ……」
山野彦次郎に向けて声を張り上げようとした小典の肩をそっと、だが力強く制したのは、桃鳥であった。
「ふふん。面白いわね」
小声でそう言うといつもの涼しい顔で微笑を作って見せた。
小典は、なぜ反論しないのか眼で問うた。
桃鳥は、口の端をあげただけで何も言わなかった。
「しかし、山野どのの言うことにも一理はあるのではないか」
誰かの声が上がった。
「一理があると言うのなら鞍家の言うほうがよっぽど説得力がある」
今度はまた別の声があがる。
「あの浪人の遺体の刀傷は、かなりのものだぞ。武家の者だと考えるのが妥当だ」
「ではなぜ、見つけられないのだ」
「だからそれを皆で調べているのだろう」
「このまま間違いかもしれぬことを間抜けずらして調べていろというのか」
明らかに怒声が混じっている声だ。
「何ッ!誰が間抜け面だ。愚弄するつもりか」
「我らには時間がないのだぞ」
「巷の者達が間抜けと笑っておるわ」
次々と怒声が飛び交うのと同時に、「このまま続けるべきだ」「いや。新たな策を考えるべき」などとそれぞれが声を上げた。今や、顔をつきあわせて怒鳴り合う者がいるほど場が荒れはじめた。
小典は頭を抱えた。皆、疲れているのはわかっていたが、ここまでとは予想外であった。
その時、
パンっと大きな音が鳴った。一瞬で、それまでの喧噪が静まりかえる。驚いたかのように音の出所を皆が凝視する。
スッと長身の男が立っていた。
桃鳥であった。
拝むような格好をしている。どうやら、柏手を打ったらしい。
たっぷりと皆の耳目が集まるのを確認してから、サッと周りを見渡した。
「各々方、この黒葛桃鳥からひとつ提案がござる」
というと最後に上座に座る北矢勘解由左衛門の方を眺めた。
北矢勘解由左衛門が頷いた。
「まず……」
話し始めた桃鳥の策は、驚くべきものであった。
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