第4話 暗闇から呼ばわる声

 桃鳥の提案を受け入れた北矢勘解由左衛門の下知で、いっせいに、与力同心をはじめ岡っ引き以下、放免の者達も動いた。瞬く間に、桃鳥の言う条件に当てはまる店を探し出し、そのうち三軒に絞った。

 ひとつは、下谷に近い場所にある呉服商、鐘田屋豊兵衛宅。

 ふたつめは、神田にある小間物問屋、武蔵屋杢右衛門宅。

 みっつめは、京橋近くにある酒造業、岩松屋宗兵衛宅。

 どの店も、主、もしくは店の評判は悪いが、売り上げを急激に伸ばしている。北矢勘解由左衛門は、それぞれの店に、ことわりをいれて、信頼出来る間者を忍び込ませた。

 そして、もうひとつの元武士で二刀の使い手という人物は、まだ見つかってはいないが方々手を尽くして探していた。この分だと見つけ出すのは、時間の問題だと思えた。

 小典たち、おもだった与力同心は、それぞれの店の向かい、もしくは、店の様子が見える位置にある住居の一部を借り上げ、交代で四六時中見張ることになった。

 小典と桃鳥は、京橋の酒造り、岩松屋宗兵衛宅を割り当てられた。

「今日は、臭いますね」

 小典は、細く開けた障子から通りを覗いていた。

 低く垂れ込めた雲が空一面を覆い、昼間だというのにどことなく薄暗い。くわえて、河川からの匂いがいちだんときつく鼻につく。こういう日は、すぐ雨が降る場合が多い。

「一雨来そうですね」

 通りを行き交う人々も常とは違い急ぎ足だ。空を気にするように見上げる人もいる。京橋近くにあるため、眼下の道には、人通りは多い。

 斜向かいにある造り酒屋の岩松屋は、売り上げが伸びているお店というだけあって、次々とお客が入っていく。出てくるお客は、小さな素焼きの徳利のような物を手にしていた。どうやら、岩松屋の売り上げが伸びた理由は、この商品らしい。

 〝香り酒〟と名付けられた華やかな香りがする酒みたいだ。しかも、香りを存分に楽しむため初めから素焼きの入れ物に詰められて売るらしい。その物珍しさもあって、見ている間に客が出入りしている。

「〝香り酒〟か。どんな味なのですかね」

 小典は、障子の隙間から目を離さずに聞いた。

「確かに香りはするけれど、酒自体はまだまだね」

「えっ!呑んだことがあるのですか?」

 小典は驚きのあまり、障子から目を離して室内にいる桃鳥を見た。

 桃鳥は、室内の壁にもたれかかりながら、「そうよ」と気のない返事をした。

「いつ呑まれたのですか」

「先日、見廻りついでにね」

「それならば、一言誘って下さっても言いじゃないですか」

 小典は抗議した。

「あら。小典も呑みたかったの?」

 小典自身は、酒好きというほどでもない。むしろ弱い方だ。だが、この酒は飲んでみたかった。

「それは、は、話しのついでに呑んでみたかったです」

 我ながら駄々っ子みたいな物言いだなと急に恥ずかしくなった。

 桃鳥は、ふふん、といつものように笑い、では今度、届けてあげるわと優しく言った。

 なぜか一層気恥ずかしい気持ちになった。

 ふと、小典の目の端で、何かがキラリと光った。

「小典」

 先ほどとは打って変わって緊迫した桃鳥の声色が飛んだ。視線を天井に向けると、天井の木目に四角い白光が素早く動いていた。

 小典と桃鳥は、外側を見る障子に寄る。白光はそこから差し込んでいた。外を見る小典の眼に何かが反射した。まぶしさに目がくらむ。顔をずらして外を再度眺めると大きな風呂敷包みを肩から下ろした行商人風の男が肩を揉むようにして、懐に手を入れていた。白光の元はそこからだ。小さな鏡か何かを反射させているようだ。

「岩松屋に滑り込ませた間者です。何かあったみたいですね」

 小典が固唾を飲んで見守っていると、別の町人風の男がそすぐそばを通り過ぎた。ぶつかりそうなほど近かった。ぶつかる直前で回避して、お互い会釈をして別れた。行商人風の男も町人風の男も別の方向へ歩いて行った。小典の視界から、男二人は消えた。おそらく、町人風の男が彼らにしか分からない符牒を使って、伝言を聞き、別の場所にいる者にその内容を伝えるのだろう。

 ほどなく、小典たちがいる部屋の外に気配がした。

「旦那」

 聞き覚えがある声だ。

「卯之介か?」

 障子が少しだけ開いた。卯之介が隙間から顔を見せた。

「へぇ。岩松屋に入っている者からの伝言があります」

「お主の手の者だったのか」

 卯之介は頷いた。

 岡っ引き以下、狗と呼ばれる放免の者達も北矢勘解由左衛門の下知でいっせいに動いていた。誰が、どの邸宅を見張るのか否かは、北矢勘解由左衛門の自らの判断で腕っこきだけが集められていたと聞いていた。小典と桃鳥はじめ、与力同心たちも知らなかった。どうやらその中に、卯之介も含まれていたらしい。

「不審な者が二度、店の周りを回っていたようです」

「尾けていったのか」

「へぇ。子分が後を尾けましたが、まかれたようです」

「まかれたのか」

 信じられなかった。卯之介の子分たちが尾行をまかれたのを今まで聞いたことはなかったからだ。

「かなりのくせ者であったとのことでした」

 そうだろうと、小典は頷いた。

「それと、おそらく、町人ではないと申しておりました」

「町人ではない?」

「へぇ。おそらくはお武家様。しかも、特殊な業を身につけてなさるお方だと」

「特殊な業……」

「深追いしなくて正解だったようね」

 口を挟んだのは、桃鳥であった。

「卯之介、至急、他の店の間者たちにつなぎをつけなさい。絶対に深追いをしてはいけないと。それから北矢様にも連絡を」

 意味が分からず唖然とする小典に向かって、桃鳥は、立ち上がって言った。

「小典、いくわよ。今晩中に奴等は必ず現れるわ」

「ど、どこへいくのですか」

 慌てて立ち上がる小典の質問に

「決まっているじゃない。岩松屋によ。相手はすでにわたしたちがいることを知っているわ」

 と笑顔で言った。


 拍子木の音がよく聞こえる。町内を回る火の用心の声が遅れて聞こえた。他は何も聞こえない。野良犬の遠吠えも赤子の夜鳴きの声も物音ひとつ聞こえない。誰もがひっそりと息を潜めているように感じた。

 吐く息が白い。空気が澄んで痛いくらいだ。だが、小典は、寒さは感じなかった。むしろ、じっとりと汗ばんでいた。心の蔵の鼓動が若干早く感じる。この鼓動は、これから始まるであろう、捕り物を想像して、というだけではないことは己自身が一番知っていた。しかし今はそこは見ないようにしていた。

「旦那、これを」

 突如、小典の後ろにいる卯之介から小さな布を渡された。じんわりと温かい。

温石おんじゃくか。ありがたい」

 温石とは、文字通り温めた石を真綿や布で包んで懐や腹に入れ暖を取るのだ。寒さは感じなくとも、手や足がかじかんで、いざという時に後れを取ることになってはいけない。小典は、ひとしきり、渡された温石を手で包み込んで暖を取ってから、懐にしまった。

 時折、月明かりが広い庭を薄く照らし出す。青白く見える庭は、不気味であるがどこか儚げに見える。

 庭には三人いた。小典と目明かしの卯之介、それから、もうひとり、卯之介の子分である捨松だ。小典たちは、岩松屋宗兵衛宅の中座敷と奥座敷とを分けるところ、庭全体が見渡せる物陰に潜んでいた。

 建物内部からは、人の気配はしない。すでに、岩松屋宗兵衛一家と多くの奉公人たちは避難させている。中にいるのは、桃鳥はじめ精鋭の奉行所の役人だけだ。

 昼間、卯之介に各店に潜ませた間者から、くせ者が出没したかを確認した桃鳥は、今夜、下手人が出没する可能性が高いことを告げると、筆頭与力である北矢勘解由左衛門の命で、岩松屋宗兵衛宅の指揮を任されたのであった。同じく曲者が出た、下谷近くにある鐘田屋豊兵衛宅は、北矢勘解由左衛門が直々に指揮に向かった。

 小典は、卯之介らとともに庭の一帯を任された。

「卯之介、ほんとうに今晩、曲者が現れると思うか」

 不安を誤魔化すために卯之介に聞いた。

「へぇ。あっしには分かりませんが黒葛の旦那が来ると仰るなら」

 卯之介の答えに小典は頷いた。

 桃鳥は、素早く筆頭与力である北矢勘解由左衛門に連絡をし、作戦も立てた。それを全面的に採用した北矢勘解由左衛門の度量も見事と言うほかはない、と小典は内心思っていた。

「捨、どうだ」

 卯之介が後ろに声をかけた。

 捨、こと捨松は、身じろぎもせずに顔を前面に向けている。濃い闇の中では、捨松の表情は見えない。だが、少し顔をかしげたような気がした。

「人が……」

 捨松の言葉の意味を理解出来ぬうちに、小典の首筋をチリリと何かが刺激した。

「旦那!」

 卯之介の緊迫した声と同時に小典の視界を風圧とともに暗闇が覆った。そして金属同士を打ちつける音が、二度鳴った。

「ほう。これは面白い得物を使う」

 どこからか、低い声が聞こえた。からかうような声色も含んでいた。

 状況を理解出来ない小典の襟首を何者かが、ぐいと奧へと引っ張った。庭からは完全に死角に当たるところまで引きずられた。

「失礼しやす、旦那」

 卯之介の声だ。一時的に息が詰まったおかげで意識がはっきりした。

「いや。こちらこそ助かった。すまん」

 敵からの攻撃であった。あのまま先ほどの場所へいれば、命までは取られないとはいえ、負傷はしていたであろう。

「敵は、ひとりか?おとりなのか?」

 小典が聞いた声はひとりであったはずだ。庭を見ようと身を少し乗り出す。

「捨松?!」

 捨松と呼ばれた男が、悠然と庭に立っていた。これから命のやり取りをするようには到底思えないほど無防備に見える。まるで、月夜をめでるために庭に立っているように思えた。

 小典が加勢しようと死角から出ようと試みる。グッと押さえたのは、卯之介の力強い腕であった。

「捨松は、男です。心配はいりません」

 いいながら、卯之介は音もなく移動する。ちょうど、庭からの死角になるぎりぎりのところまで行く。

「あっしも捨松に加勢します。旦那は、れいのモノを」

 卯之介が言った。

 小典は頷いた。

 卯之介は、飛礫の名手だ。桃鳥をして、卯之介の腕前は、飛礫だけで一流派を興すに値すると言っていたほどだ。小典は、飛び道具は不得手だ。ここは、卯之介に任すのが適任だ。

 懐に手を入れた小典は、中指ほどの筒を取り出す。隠れ笛と呼ばれる呼子だ。熟練になると笛同士で複雑な会話もできる。

 小典は、口に含んで吹いた。静かで擦れた音が広がる。空耳かと思えるほど微かな音だ。これが隠れ笛の所以なのだ。

 これで、中にいる桃鳥はじめ仲間たちに知らせることができたであろう。意識を庭の方へむかわせる。

 金属の音が三度鳴った。捨松の顔前で火花が一瞬見えた。激しく金属同士がぶつかり合う。

 卯之介の腕が動いた。必殺の飛礫が飛んだ。

 しかし、卯之介の気配が揺れた。動揺する卯之介も珍しい。

「ヒヒヒ」

 小典はそれが笑い声だと気づくのに数拍ようした。

「ヒヒヒヒ」

 甲高い、ひとを嫌な気にさせる笑い声だ。

 小典も用心しつつ、卯之介の隣に行く。

 目を凝らすと、前方、べったりとした闇の中に人影がゆっくりと現れた。

「これは、来た甲斐があったといもの」

 編み笠を目深にかぶった浪人風の男だ。青白い月に照らし出されて口元だけは見えた。

 男の口元がぐい、と持ち上がってボロボロの歯が見えた。

 男が嗤ったのであった。

「鉄扇に飛礫か」

 笑いを含んだ声だ。しかしすぐに、

「ほう。これはこれは」

 とまごう事なき感嘆の声色に変わった。

「我が手裏剣を防いだ鉄扇使いは、

 男の言葉に小典が驚いた。捨松とは今日はじめて会った。暗がりで捨松の顔は見えなかった。先ほどの卯之介の言葉――、とはそう言うことだったのかと得心した。そして、あの目の前で感じた風圧は、鉄扇を広げたさいのものであったのだ。

「目の見えぬ者が我が手裏剣を二度も防いだのか」

 ゆるりと男が歩を進めた。無造作に見えて、一分の隙もない。

 わずかに男の体が揺れた。

「あっ」

 思わず小典は声を出した。男の体に黒い何かが生えたように見えた。飛礫だ。卯之介の飛礫には細工がされている。卯之介の投てきした飛礫が見事に男の体に刺さったのだ。

「ヒヒヒヒ」

 男の歩みは止まらない。

 また揺れた。飛礫の数が増える。

「ヒヒヒヒヒ」

 男の嗤いも歩も止まらない。

「馬鹿な……」

 卯之介がおののくように小さく言った。

 男の体には、五個以上の飛礫が突き刺さっている。にもかかわらず苦痛の色さえ見せない。

「お主の飛礫も見事だ」

 チラリと卯之介の方を見た。歩は止まらない。もう少しで、立っている捨松の一足一刀の間に入る。なんの構えもない捨松の手には太い鉄扇が畳まれたままだ。

 男の歩が止まる。

 ちょうど、間合いに入るか否かのきわだ。

「少しは楽しませてもらえそうだ」

 男の嗤いが広がる。

 盛大な火花が見えた。遅れて金属がこすれる音が響いた。

 動いた。

 二人同時だ。

 捨松が下がる。男が追う。

 火花が闇夜に花開く。胸。腰。頭頂部。

 それらは、激しく武器同士が衝突しておこる火花だと気がついた。

 卯之介も小典も動けなかった。

 男の間合いのつめかたがそうさせていた。

 捨松は、瞬く間に庭の塀まで追い詰められた。

 捨松が攻勢に出る体勢よりもなんとか避けている体勢が多くなっている。劣勢は火を見るより明らかだ。

 このままでは、捨松が斬られる、そう思った刹那、

 二人の間を影が横切った。男が一気に一足飛びに後ろへと下がる。

「ふふん」

 場違いな笑い声が夜風に乗って聞こえてきた。

「桃鳥様!」

 桃鳥がいつの間にか捨松の前に立っていた。思わず叫んだ小典に桃鳥は小さくうなずいた。視線を男に転ずる。

「こんどはわたしが相手をするわ」

 桃鳥の右手には、すでに脇差しが抜かれていた。そして、左手は、太刀の柄に手をかけている。

 何気なく立っているようで、その実、一分の隙もないことは小典にもわかった。

 完全に男の剣気が捨松から外れた。卯之介が動いた。捨松のそばへ行く。屏にもたれかかっていた捨松を支える。着物がボロボロであった。男の斬撃のなした業であった。身体は斬られてはいないようであった。

「神妙に致せ!」

 突如、大声とともに提灯の燈が庭を明るく照らし出した。大勢の足音とともに抜刀した与力同心たちがぐるりと男を囲んだ。

「ほほう。これはまた面白い」

 男は、桃鳥だけを見ていた。興味は、桃鳥だけにあるらしい。己が取り囲まれていることは、まるでどうでもいいような話しっぷりだ。

「脇差し……富田流か?」

 富田流は、越前の朝倉家に仕えていた富田五郎左衛門入道勢源とだごろうざえもんにゅうどうせいげんが編み出した技を加賀の前田家に仕えた甥である富田越後守重政とだえちごのかみしげまさが受け継ぎ、その技が精妙なるを持って〝名人越後〟と呼ばれ世に知られた流派である。とくに小太刀の術に特徴があるといわれている。

「ふふん。どうかしら」

 桃鳥も世間話でもしているかのような言い方だ。

「先ほどの技、あれも富田流の技なのか?」

 男が聞いた。

「教えるとおもう?」

 桃鳥が答えた。

「それはそうだ」

 不気味な嗤いの形に口が開いた。

「無駄なお喋りはそこまでだ!」

 周りを取り囲んでいる男の中から怒鳴り声がした。

 いっせいに輪が狭まる。

「どうやら邪魔者が多くなってきたようだ。名残惜しいがそろそろいとまをしようか」

 男は、興味なさそうな素振りで言った。

「暇だと?この包囲から逃れられるとでも思うたか」

 嘲笑をこめて誰かが言った。

「ヒヒヒ」

「な、何が可笑しい!」

「ヒヒヒヒヒ」

「ひ、引っ立てい!」

 いっせいに囲んでいた男たちが動いた――はずであった、が誰も動かなかった。否、動けなかったのだ。

 驚いて目を大きく見開いている与力同心たちは、一体、何が起こったのか理解できない様子であった。

 小典も同じであった。意識ははっきりとしているのに体だけ夢の中にいるみたいな不思議な感覚で、四肢に力がまったく入らない。瞳だけは動かせる。見ると、桃鳥も卯之介も捨松も同じであるらしい。

「ヒヒヒヒヒヒ」

浪人風の男は、ひとしきり嗤うと悠々と後ろに下がった。ゆっくりと庭の闇に溶け込む間、桃鳥のほうへ顔を向けた。

「桃鳥と言ったな。覚えておこう」

それきり、男の気配は露のごとく消え去った。

小典の耳の中に男の笑い声が残す妙な余韻がいつまでも残っていた。

 








 






 


 




 


 


 

 

 







 







 


 


 






 

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