第3話 目星

「こいつはひでぇ」

 誰かが呟いた。

 早朝、浅草からほど近くにある呉服商、坂屋弥五郎宅に押し込み強盗が入ったとの報をうけた南町奉行所は、すぐに与力同心を派遣した。その中に、南町奉行所同心の鞍家新右衛門小典と与力の黒葛太郎右衛門桃鳥も含まれていた。

「……なんとも言葉が出ませんね」

 小典は言葉の中に悲痛さが滲んでしまうのを自覚していた。

 表の店の部分は、さほど荒らされてはいなかったが、奥に行くにつれて、濃密な血の臭いが充満していた。

 店と中座敷をわける、板敷きの上には、うつ伏せのまま息絶えている若い男の遺体が二体あった。乾いていない血がその板敷きからいまだに垂れて血だまりを大きくしていた。服装から、手代かなにかであろう。すぐ奧の座敷には、男女の遺体が八体。後ろ手に縛られて猿ぐつわをされたまま、喉を斬られていた。下働きの女衆と奉公人たちだろう。八人分の血を吸った畳は、すでにどす黒い色に変色している。左側の障子は内側から蹴破られ、枠ごと折れて無残な姿をさらしていた。廊下を挟んで、雨戸も一部分も壊され、外の寒冷な空気が無情の風のごとく吹き込んでいた。

 廊下の奥には、奥座敷、つまりこの店の主一家の寝室があるはずだが、このぶんでは、望みは薄いだろう。奥に調べに入った、別の同心が、戻ってきて首を振った。

 小典は、深いため息をついた。

「桃鳥様?」

 先ほどまで、横にいたはずであった。この部屋にある、一番、小さな体の遺体を屈んでじっと見ていたはずだ。

「小典」

 桃鳥の声が聞こえた。外からだ。

 部屋を横切り、壊れた雨戸から外を眺める。

「そこにも……」

 懐手をした桃鳥のそばに遺体が二体あった。ひとつは、小さな女の子だ。着物からこの家の嬢ちゃんである可能性が高い。すでに桃鳥によって仰向けにされて瞳も閉じられていた。やりきれない思いを抑えて、小典は屈むとそっと拝んだ。そして、もうひとつは、大人の男だ。手に刀を握っている。腰に脇差しもある。浪人風の身なりだ。

 小典は、桃鳥のそばまでいく。拝んでから浪人風の男をよく見てみる。

「この男は、用心棒かなにかですかね?」

 桃鳥は頷いた。

「強盗の一味ではなさそうね。左手をごらん」

 桃鳥に促されて、浪人の左手を見る。着物が切り裂かれて、いくつかの刀傷があった。

「これは」

「おそらく、後ろに倒れているお嬢さんをかばおうとしていたのでしょう」

 小典の脳裏に左手を大きく広げて、曲者たちから嬢ちゃんをかばう男の姿が想像出来た。

「だけど、致命傷はこの真っ向からの一撃」

 桃鳥は、そう言うと右側を横にして息絶えている男を仰向けにした。

 左半身、頬から股間までざっくりと斬られている。白い骨と肉、そして臓物まで見えている。小典は、顔を背けたい衝動を必死に押さえた。仕事ながら、何度見ても慣れない。ふう、と息を吐き、下っ腹に力を入れる。心の中で、己を叱咤し、再度、傷口を見る。

 切り口から、かなりの手練れだということは分かる。見事な一太刀だ。

「かなりの手練れね」

 桃鳥も同じ思いであったようだ。

「桃鳥様。この傷は」

 小典が示したのは、浪人の右下腹部、臍のあたりから股関節の辺りまで斬られていた。こちらも、真っ向に斬られている。しかし、斬られている箇所は短く、いくぶん浅いような気がした。

 桃鳥の双眸がスッと細められた。何かを考えているようだ。

「何か気になることが?」

「これだけの太刀を繰り出すことができる手練。しかし、右側の傷は、下腹部だけしか斬られていない」

 桃鳥は、独り言のように呟いた。

 小典は意味がわからず、桃鳥の役者のような整った横顔を問いかけるように眺めた。

「全滅のようだな」

 二人の後ろから野太い声がした。

「これは北矢様」

 小典も桃鳥も頭を垂れた。

 指揮棒を手に立っていたのは、北矢勘解由左衛門髙彰きたやかげゆざえもんたかあきらだ。南町奉行所の筆頭与力である。今のお奉行である重藤様で仕えて三代になる。人格技量ともに筆頭与力として問題ない人物だ。評判の悪かった先代、先々代のお奉行がなんとか奉行所の体裁を保っていられたのもこの北矢勘解由左衛門が居たから、とはもっぱらの噂だ。しかし、普段は、どちらかと言えば影が薄い。ついたあだ名は〝後ろの正面どの〟だ。もちろん童たちの遊び、かごめかごめから取ったものだ。普段は見えないが、必ず後ろに控えて見ているのは北矢勘解由左衛門である、ということらしい。

 中肉中背、陣笠から覗く、やや彫りの深い顔立ちから瞳が光って見えた。怒りなのか哀しみなのか、あるいはその両方なのか、常日頃、柔和な表情が多い北矢が見せた表情にこの事件の悲惨さが映って見えるような気がした。

 傍らに転がる年端もない嬢ちゃんの遺体のそばに屈むと拝んだ。

「むごいことを」

 そう言うとグッと頬に力を入れた。

「そちらの男は」

 北矢の問いかけに桃鳥が答える。

「おそらくは、この店の雇った用心棒かと」

「この太刀筋、かなりの手練れだな」

 拝んでから遺体の傷口を見るなりそう言った。

「坂屋はそこそこ流行っている店であったそうだ。急激に売り上げを伸ばしていたことで、商売敵も多かったみたいだ」

「だから用心棒を雇っていたと」

 桃鳥の言葉に北矢は頷く。

「まだ調べている最中だが、主の坂屋弥五郎は、あこぎな商売をいとわない人物であったとの話しだ」

「では、恨みの線もある、とお考えで」

「あくまで可能性のひとつとしてな」

 北矢は重々しく頷いた。

「鞍家どのはどう思われる」

 控えていた小典に北矢は話を向けた。

 北矢勘解由左衛門は、身分差がある下の者にも必ずどのを付けて話しかける。上の者に対する態度と変わらない。これが、三代にわたり筆頭与力を任されている所以のひとつであろうと思えた。

「は。恐れながら、恨みの線ならば、相当に深き恨みだと思われます。さすれば、自ずから犯人の目星はつきやすいかと」

 一家のみならず奉公人たちはもとより女衆まで皆殺しである。生半可な恨みではないはずだ。

 小典の答えに、北矢は頷いた。

「そうだな。恨みの線ならばな」

 そう答えた北矢自身が、その考えを否定しているように聞こえた。



 何も進展のないまま、一月後

 本所深川の廻船問屋、巻川屋佐平治宅に押し込み強盗が入ったとの報が南町奉行所に届けられた。


 南町奉行所の大広間に集まった与力同心を前に、上座に一人座している筆頭与力の北矢勘解由左衛門は、常とは違い、眉間に一筋の深い皺が刻まれていた。両の瞳は閉じられている。

「……以上が近隣の者達からの聞き込みです」

 深川の廻船問屋界隈に聞き込みに出ていた同心が報告を終えた。

「……」

 報告を聞き終えても北矢勘解由左衛門の瞳は開かなかった。

 誰も物音ひとつたてない。緊迫した空気が広間を覆っている。

 巻川屋佐平治宅に押し入った強盗事件から、すでに三日たっていた。お奉行である重藤様の下知で、緊急以外、全ての与力同心は、この坂屋弥五郎宅の事件と巻川屋佐平治宅の事件に動員されていた。もちろん、小典と桃鳥もその中に含まれていた。

「もう少し、有益な情報はないのか」

 沈黙を破り、苛立つようにそう言ったのは、与力である山野彦次郎兼為やまのひこじろうかねためである。

 常に顔色が悪く、やや黒い肌にどっしりとした獅子鼻が特徴的だ。三十代であるが鬢に白いものが混じっている。口だけは年々、皮肉や小言が多くなっていっているように思える。

「すでに、浅草の坂屋弥五郎宅の事件からは、一月以上も経ているというのに、下手人捕縛はおろか、有益な情報すら掴めていない。その上、今度は、本所深川の巻川屋佐平治宅に同じような押し込み強盗が入って主一家を含む奉公人一同十八人が皆殺し。巷では、南町奉行所の責を問う声もちらほらあがっていると聞くぞ。このままでは、誰かしら腹を切ることに……」

「山野どの」

 たしなめるような声が山野の言葉を遮った。

「滅多なことを言うものではない」

 ジロリと山野を睨んだのは、古株の与力、浜永孫三郎金宗はまながまごさぶろうきんむねであった。

 面長で頬骨が高く出っ張っている。口も目も大きい。壮年であるが、山野とは異なり鬢も眉も黒々としている。

「まだ検分は道半ば、それを巷の町人風情の噂話に影響されて、オロオロしたとあっては、それこそ南町奉行所与力の名折れ。ここは、どっしりと腰をすえて調べるのが肝要と心得るが」

 恐れ入ったという風に頷いたのは、山野彦次郎だけであった。

「だが、このまま日だけが過ぎていけば、山野どのの言う通り、町人風情の噂話とはいえ、お上も無視できなくなることは必定」

 そこまで言うとチラリと北矢勘解由左衛門を見た。まだ両の眼は閉じられている。浜永は、鼻で笑うように小さく息を吐くと、

にその責が及ばぬように我らは、懸命に勤めるのみ」

 お奉行や北矢どの、の部分だけことさら強調していたように感じたのは、小典だけではないだろう。これでは、今回の責が全てお奉行と北矢にあると暗にほのめかしているみたいだ。

「さぁ。誰ぞ、何か名案はないのか」

 浜永の問いかけに、大広間に集まった与力同心たちは、互いの顔を見るだけでだれも声を上げようとはしなかった。

「恐れながら」

 どこか面白がっているような、それでいて良く通る声が広間に響いた。皆の視線がいっせいに動く。広間の一番後ろにいた人物。周りの男たちより頭ひとつ分だけ高い。

「桃鳥様」

 小典は思わず声を上げた。

 黒羽織を緩く羽織っているため、裏地の極彩色の鳥たちと桃の刺繍がチラリと見えている。その様が武張った男たちの中にあって、妙に色気がある。絵になる、とはこういったことを言うのだろうと小典は感心してしまった。

「黒葛か……」

 あからさまに嫌な顔をして浜永は小さくうめいた。

「申してみよ」

「恐れながら」

 桃鳥は、真っ直ぐに北矢勘解由左衛門だけをみていた。

 浜永の顔が怒りで歪む。

 桃鳥の視線に気がついてか、北矢の眼が開いた。

 北矢が頷く。

「これだけの事件、しかも皆殺しなどという悪逆非道な仕打ち、蔵の金銀もあらかた持ち去られており、用心棒がいた坂屋弥五郎宅では、用心棒のほうが殺害されました」

 巻川屋佐平治宅では、用心棒こそいなかったが、荒っぽい奉公人を幾人か抱えていたらしいことは近隣の聞き込みで判明していた。彼らも含めて皆殺しをされていた。

「深川の廻船問屋、巻川屋佐平治宅も同じように皆殺し。蔵の金銀も持ち去られていました。奉行所の与力同心をはじめ、配下の目明かし以下、あらゆる手立てを駆使しても、今のところ下手人の心当たりはおろか、噂話さえ浮かんできていません。しかし、このふたつの事件には共通することがあります」

「共通すること?」

 北矢が聞いた。

「共通することだと。たった今、己自身で言ったではないか、皆殺しと金銀を持ち去られたことだと」

 どこか小馬鹿にするように口を挟んだのは、山野彦次郎であった。

「それは、ふたつの店は近隣の評判は良くないが、店の売り上げが急速に伸びているということです」

 山野の横やりを無視して、桃鳥は話した。

 桃鳥の話しをふん、と馬鹿にしたように鼻で笑ったのは、浜永孫三郎であった。

 桃鳥の指摘に北矢勘解由左衛門は考えるように顎に手を置いた。

「確かに、両方の店ともに近隣や仲間内からの評判は良くはないな」

 坂屋弥五郎のほうは、陰で天罰などと言う輩もいるぐらい嫌われていたことはとうに調べがついていた。

「しかし、商家などは、儲かれば嫌われるというのは、どこも同じではないのか」

 確かにそうだ。武士でも出世すれば妬みや僻みは日常的に出てくる。だが、坂屋と巻川屋の評判は、やはり常識的に嫌われているという範疇を逸脱しているように思えた。

「では、黒葛どのは、犯人たちがわざと嫌われている店を狙っていた、といいたいのか」

 北矢の言葉に桃鳥は頷いた。

「犯人たちは、嫌われていればいるほど好都合だったでしょう。しかも、急激に店が大きくなっている最中であればなおいい」

「犯人たちの逃げる刻が稼げるから。そして金もある」

 小典が呟いた答えに、桃鳥は頷いた。

「そう。加えて嫌われていればそれだけ容疑者が多い。そして容疑者が多ければ多いほど、詮議に時間がかかる。つまりは、逃げる刻を稼げるのよ」

 もしそうだとすれば、小典たちはまんまと犯人たちの術中にはまってしまっていることになる。

「では、恨みの線ではなくて、その筋の者たちだと」

 桃鳥は頷く。

「しかし、多くの目明かし以下、狗どもも動いているが、これほど大胆なことを成し遂げる一味は心当たりがないと言っておるが」

 誰かの声が上がった。

 全ての与力同心には、公的に認められている目明かし、つまり岡っ引き以外にも、狗、もしくは放免の者と呼ばれている奉行所に協力する元犯罪者が多くいる。彼らの情報網は、それぞれ独自に裏社会に通じていて、何かあれば、有益な情報をあげてくれているのだ。しかし、今回は、それがない。

「それについては、おいおい分かることだと思うわ。わたしの考えでは、おそらく、、と思っていたほうがいいかもしれない」

 桃鳥の答えに広間にいる多くの者達が互いの顔を見合わせたり、耳打ちし合ったりしている。

「は。何を血迷ったことを言うかと思えば、今まで存在していなかった一味?幽霊か何かが現れて人殺しをして金を盗んだとでもいうのか」

 山野彦次郎が口を曲げていった。

 失笑が広間にも広がる。しかし、桃鳥は意に返さない。

「それともうひとつ。抵抗した者は同じ技にて斬り殺されているわ。おそらく二刀を使う手練れの者が一味の中にいる」

 小典の脳裏に、坂屋弥五郎宅で見た浪人の遺体が甦る。左側の傷は、頬から股間までかなりの深さの傷だ。右は、臍から股間の辺りにやや浅めの傷。巻川屋佐平治宅でも幾人か同じ傷の遺体があったとは聞いていた。

「二刀を使う者か……」

 北矢は唸るように言った。

「はい。しからば、我らがするとこは、評判の悪い、しかし、売り上げが伸びているお店を割り出し、警備することと、岡っ引き以下に二刀を使う者で心当たり、おそらく元武家の者を調べ上げることだと存じます」

 桃鳥の提案に北矢が考えていた時間は短かった。

「評判が悪く、売り上げがある店と元武家の者で二刀を使う者……よし。では、皆のもの聞いたであろう」

「北矢様、ほんとうに黒葛どのの確証もない意見を真に受けるおつもりなのですか」

 異を唱えたのは、山野彦次郎であった。

「山野どの」

 浜永がたしなめた。

「確証がなくても指揮は北矢様にある。つまりは失敗したらその責も負う、ということなのだ」

 わざとだろう。声高に言った。

 北矢は頷いた。

「浜永どのの言う通り。全ての責はこの北矢勘解由左衛門にある」

 静かにそう言うと改めて皆の顔を眺めた。

「皆、黒葛どのの言う通り、評判の良くないが売り上げが伸びている店と二刀を使う手練れを早急に調べてくれ」

「は」

 捜査方針が決まれば、それに向かって動けば良い。どこか晴れやかな顔して、広間にいる者は、いっせいに頭を垂れた。山野と浜永を除いて。



 



 



 



 

 





 

 









 



 







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