第46話 新たなる一歩―3


 心地の良い風が開け放した縁側から吹き込み、妖狐の柔らかな毛並みをそっと撫でて通った。

「ああ、良い風だ。これはいつの世も変わらないけど、冥界では感じられない」

 片方の膝を立ててもう片方はだらしなく投げて縁側に座った篁がうーん、と伸びをしながら言う。

「どうだい篁さん、一句浮かばねぇか?」

 言いながら歳三が篁に、筆と紙を渡す。

「トシ、久しぶりに句帳を見たいな」

「どうせまた腹を抱えて笑うんでしょう?」

「笑わない、約束する」

 拗ねたような顔をしてみせながらも、いそいそと帳面を出してくる。

 歳三と篁。

 この二人には共通点がいくつかある。

 まず、少年時代に野山を駆け巡って身体を鍛えたこと。見た目は柔和な美男子であるが結構な策士であること。そして、とても意思が強いこと。

 もう一つ、二人とも『歌』を嗜む。

 しかし、漢学者で漢詩・和歌ともにすらすら詠む『歌人』の篁と、あくまで発句が趣味である歳三、話があわないのではないかと思えるのだが、どうやら感性に近いものがあるらしい。

 時折こうしてそれぞれが思いつくままに歌語を並べ、歌を詠む。

(こうなると二人は長いんだよねぇ……)

 それをききながら、妖狐は陽だまりで丸くなって目を閉じた。

 しかし、三角の耳はひくひくと動いている。聞いていない振りをして、しっかり聞いているのが明らかだ。二人の声は、耳に心地よい。

 だが。今日は束の間の休息がすぐに終わりを告げた。慌ただしく複数の人々がやってくる気配がしたのだ。

「お客さんだね……」

 縁側の下へ隠れようとする仔狐を篁が手早く抱きかかえ、襖を適当に調節してその陰に腰を下ろす。こういうとき、屏風や御簾や几帳といったものを扱いなれている篁の行動は素早く的確だ。

「土方君、土方君! ちょっと失礼するよ!」

「これは伊東さんに三木さん、幹部がそのように血相を変えては隊士が何事かと不安に駆られます。大事であればあるほど、平常心でお願いしたいといつも申し上げているはず」

 びくっ、と鈴木三樹三郎が震えた。だが兄・甲子太郎はさすがに平然として歳三の前に座った。

「今度は何事でしょうかな?」

 歳三は、片眉を器用に跳ね上げて困惑とも呆れともつかない表情を作って客をもてなしている。だが、内心では、聞くに堪えない罵詈雑言を並べ立てているだろうことが容易に想像できる。

「今! 凄まじい叫び声がしているのを君も聞いているだろう?」

 焦れたように叫んだのは、三樹三郎だった。

「叫び声? 怪我人でも出ましたか」

「出ているよ。島田君たちの手によってね」

 重々しく頷きながら伊東が続ける。

「ここは、西本願寺の領域だ。神聖な場所だ。あのような野蛮な行為は控えた方が良いと思うんだがどうだろうか?」

 何のことだ、といった表情になった歳三が、ぽんと膝を叩いた。

「ああ、拷問のことですか。それが何か? お西さんが、捻じ込んできましたか?」

 何かじゃないよ、と喚いた三樹三郎が腰を上げた。どうやら、兄よりも弟の方が、拷問による悲鳴に耐え切れなかったらしい。

「君は、あの声を聴いても何も感じないのか?」

「まだまだ耐えますな、あの男は。もう少し拷問を強めても大丈夫でしょう」

 信じられないと喚きながら、三樹三郎が歳三に掴みかかった。だが、すぐに手を引っ込めた。引っ込めた本人が、不思議そうに己の左手を見ているのに気が付き、歳三も伊東も、つられてその手を見る。

 三樹三郎の、手の甲がみるみるうちに赤く腫れ上がっていく。

「お前、どうしたというのだ、それは!」

 驚いた伊東が弟の手を取って検分する。

「は、はあ、それが……私にもわからないのです、兄上」

「痛いのか?」

「いえ、とくには……」

「ならいいが……」

 と呟いた伊東は、改めて歳三に向き直った。

「不思議なこともあるものだ……。あー……ところで土方君。境内で連日連夜拷問を行うとは、どういうつもりなのかな? 西本願寺にご迷惑が掛かっていることを承知の上でのことだとは思うが」

「どうもこうも、これが稀に見るしぶとい男でしてね。監察の山崎がもってきた情報だ、確かなはずなんですが……」

「そうではなくて!」

「ほう、ではどこで拷問を行うおつもりなのか聞かせていただきたいですな。まさか、八木さんの家や前川さんに部屋を貸してくれとでも? ああ、見せしめに河原にでも行ってやりますか。ふむ、これは効果覿面かもしれません」

 言いながら唇の端を持ち上げてにやり、と笑ってみせる。得意満面、自信満々。それを具現したような笑みだ。

 それに激昂したのか、面を朱に染めた弟が兄の手をすり抜けて歳三に掴みかかろうとした途端。

「いたいっ!」

 今度は、見る見るうちに手の甲全体が紫色に腫れ上がった。明らかに『稲妻のような何か』が三樹三郎の手を強く打ったのだ。

 兄弟がそろって目と口を真円にした。普段はあまり似ていると思うことはない二人だが、このときばかりは、なるほど良く似ている、と誰もが思った。

「あ、兄上……」

「どうしたことだ、これは……?」

 もちろん歳三とて驚いたが、伊東兄弟のように間抜け面を晒さずに済んだのは、このような不思議な出来事に心当たりがあるからだ。

「それはまた痛そうな……」

 即座に心配そうな顔を作ってみせながら、歳三がちらりと、妙な具合に開いている襖の陰へ視線を投げた。

 篁が肩を震わせて笑い、しっかりと白銀の尻尾を掴んでいるのが見える。その尻尾が普段より膨れて見えるのは、妖狐が怒っているからだ。

「トシさんに掴みかかるなんて百年早いよっ!」

「ぷっ……くくく……静かにしないと気配に気付かれるぞ。弟はともかく兄は剣の達人だ」

 それでも、ふしゃー! と毛を逆立てて威嚇する様はまるで猫のようで、歳三の頬もふっと緩んだ。

 同時に、やたらと苛立っていた気持ちも落ち着いた。

「ここが屯所である以上、拷問もここでやるしかないでしょう。その辺りは西本願寺側ともよく話をしたはずだが、それでもまだ行き違いがあった模様。拷問や夜稽古の件を再び話し合いたいのだが……」

 一端言葉を切った歳三は眉間に皺を寄せ、人差し指と親指でぐっと瞼を押さえた。

「局長はこういうことには不向きだし、副長や組長を派遣しては失礼にあたるでしょう。ああ、サンナンさんが居てくれたら、我々の考えを良く理解して動いてくれたでしょうに……。西本願寺に負けることなく、かといって喧嘩を売るわけでもなく丸くおさめるのは、簡単なことではないですからな。本当に惜しい人を亡くしたと、つくづく思いますよ。……ああ、いけねぇなぁ。ついつい、弱音を吐いちまった。気にしないでくれるとありがたいんだが、伊東さん……」


 三日後の朝。

 先日まで西本願寺に肩入れし、何かと便宜をはかっていたと思しき伊東一派が、突然態度を変化させた。

 門主の部屋に土方副長と共に乗り込み、得意の弁舌をふるって、未だに新選組が居座ることに難色を示していた西本願寺を言い包めてしまった。

「何だ……? 伊東が土方さんのために動いた、だと? 西本願寺を裏切ったのか?」

 伊東は、弱っている土方歳三を助けて恩を売ったつもりでいる。ここで自分の力を見せておき、あわよくば副長を自分の一派に取り込もうと考えたのだ。

 だが。

「ああ? 俺が弱っただと? 西本願寺と伊東を引き裂く、伊東派を分断する作戦に決まってるだろ! ったく、篁さん、申し訳ないが手が空いているなら総司と一緒に巡察に出て頂きたい」

「はいはい、了解。行くよ、総司」

「はーい」

 総司と篁が、二人でくすくす笑ったのは言うまでもない。

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