第14話 多忙過ぎる狩人たち―1
「……こら」
闇に溶ける墨染の衣を纏った男が、静かに声を掛けた。闇の一角がびくりと震える。
「まてまて、そこのお前だ。川も渡らず、こんなところで何をしている?」
この場合の川、と言うのは鴨川でも多摩川でもなく、三途の川のことである。
闇が何かを訴えるかのように震える。
「何? 川を渡る舟が転覆した拍子に人界に放りだされた? どこへ良いかわからず困っているから助けてくれ、だと?」
青年、小野篁の端麗な顔が思いきり歪められた。三途の川の周辺には人界へ繋がる道はない。
「おかしな話だぞ、これは……」
人界と冥界を行き来する方法は、三つある。
一つ目は、手続きを踏んで正式な門を潜る。これが一般的に行われる方法である。
二つ目は、自分の妖力や霊力でその場に道を開く。これは地獄から逃げ出す悪党が最もよく使う手段である。
そして三つ目、篁が井戸を通じて往来しているように特殊な場所に特殊な通路を開く。二つ目と三つ目はかなりの妖力なり霊力なりを必要とするため、一定以上の『大物』でないと難しい。
篁は目の前でぷるぷる震えている小鬼を見つめた。体の色は緑、大きな頭に小さな手足。目玉が一つで角も一本。いたって非力な小鬼だ。
「お前に道を開く力があるとは思えないな」
小鬼はぶるりと震えながら言った。気が付いたら飛ばされていたのです、怖いよう助けて下さいよう、と。
「ちっ……誰かが三途の川のほとりに穴を開けたな……」
迷惑なことを、と吐き捨てた篁の顔は険しい。とりあえずこの小鬼を冥途の役所へ連れていって、そこで事情聴取だ。
(同じ鬼の剛奇に頼むか……)
いつもなら幼馴染の春少将こと藤原春明に頼むのだが、彼は今、新選組の屯所へ「出張」してきている。
手先の器用な彼は、二、三日前に篁が壊した建物の修理をする総司の手伝いをしてくれているのだ。
「はー、修繕を一時中止して冥途へ戻ってくれとは言えない……」
総司には、副長・土方歳三が張り付いて修繕の進み具合を監視している。一日も休むことは許されない。
やはり、剛奇の手を借りるのが最も良いだろう。
「よし、ついてこい。冥途へ送り届けてやる。俺の友達の赤い小鬼を手配するから、奴の指示に従ってくれ」
小さな穢れのない小鬼など、異形たちにとって極上の餌だ。喜び勇んで篁の側に駆け寄った緑の小鬼は、しかしぎょっとして飛び上がった。
「ああ、大丈夫だ。悪さできないよう、呪縛がかけてある」
篁の後ろ、数歩遅れてぞろぞろと妖がついている。彼らは、今宵捕縛された妖怪たちだ。
彼らは冥界での裁判中に集団脱走したものらしく、閻魔王から手配書が回って来ていた。それを巡察中の総司が発見し篁に伝え、篁が捕縛に走った。
彼らの妖気は抑制されているが、見るだけでおぞましい。蛙に似た妖怪が長い舌を伸ばし、毛むくじゃらの巨大蟹は大きな爪を振りかざし、かわるがわる小鬼をからかった。
「お前らなぁ……」
震え上がった小鬼は篁の足から背中を駆け上がり、ついに頭の上に乗ってしまった。
歯の根もあわぬほどに震える小鬼を無理矢理引き摺り下ろすほど篁は非情ではない。囃し立てる妖どもを、太刀をちらつかせて黙らせながら歩くことにした。
それにしても近頃は妖や異形の数がぐっと増えた。篁が毎日疲れ果てる程に狩っても、狩ったそばから沸いてくる。糧となる恨みや怨念がこれだけ充満していれば無理からぬことではあるが、些か多すぎる。
相棒の妖狐がいれば狩りの効率も上がるし調査を命じることも出来るが、彼は新選組のことにかかりきりで夜の活動にまで手が回らない。
「自邸でゆっくり休みたい……」
冥土の一角に与えられた屋敷は、生前篁が暮らしていた小野邸とそっくり同じである。ただ一つ違うのは、そこに最愛の妻がいるということだ。人界では一緒になれなかったが――。
(
「ああ、つっかれた……」
吐息と共に漏らした篁の小さな呟きを聞けたのは、小鬼だけだった。
篁が冥府と人界の往復で疲労している頃、総司は総司で忙しく駆け回っていた。
早朝、屯所周辺を見回り、夜の間に集まった妖たちを成敗する。その後、起き出した隊士たちに稽古をつけるうちに、午の刻になる。
巡察や要人警護、局長・副長のお供をして一日が過ぎ、酉の刻あたりから再び隊士と稽古し、陽がとっぷり暮れてから再び巡察に出る。
「ああもう、本当に忙しい! 体がもう一つ欲しい」
総司の嘆きを聞いたのは、通りがかった永倉新八だった。新八は真顔でこう言った。
「お前がもう一人増えるだなんて、考えただけで震えがくる。冗談でも言ってくれるな」
「永倉さん……ひどい……」
すたすたと歩き去る新八の背中に向かって、総司がべーっと舌をだした。
さまざまな用事の合間を縫って、臥せったままの平助と、なんとなく体調がすっきりしない新八の看病をするのも総司の役割だ。
「おい総司。一つ聞くが、新八の怪我は物の怪の類につけられたものだろう。違うか?」
巡察の報告のため副長室を訪れた総司に、歳三が疑問を投げ掛けた。問いかけてはいるが、歳三は確信を持っているのだろう。
「どうしてそう思うんです?」
「あの傷は普通の刀傷じゃねぇ。獣につけられた傷だ。新八は傷の治りが早い質だ。長引くのはおかしい。それに……」
それまで机に向かっていた歳三が筆を置き、総司に向き直った。
「お前が、見たことねぇ薬湯を煎じるわ、せっせと世話をするわ、冥途の妖怪絡みとしか思えねぇ」
総司は盛大にため息をついた。歳三たちは、先日の雷微と妖たちによる屯所襲撃を知らないし、これからも伝えるつもりはない。なので、朝帰りをした新八と総司が池田屋の残党による屯所襲撃を防いだことになっている。
この、総司が即席で作り上げた妙な話を信じる、信じないは個人の勝手、だが正面切って物言いする蛮勇の者はいない。
「あーあ、土方さんは騙されてくれないんですねぇ」
「当たり前だ」
「仰る通り、妖と戦った傷ですよ。永倉さん、膨大な量の妖怪相手に、一歩も引かなかったんですよ!」
すごいでしょう、と総司が得意げに言う。
「まてよ、新八はお前たちの仲間じゃねぇのか?」
「永倉さんは純然たる人間です。冥途の役人でもありません」
歳三の形のよい眉がぴくんと跳ね上がった。ではなぜ、と勝ち気な瞳が問う。
「どうやら生まれながらに異形が見えるみたいですね。剣術の修行にはげんだことにより、見る力が増大した。その力に惹かれた悪しき者が、永倉さんを食べようと襲撃した」
歳三が、明らかにぎょっとして腰を浮かせた。
「おい、新八をあのままにしておいていいのか? また襲われるんじゃねぇか?」
「そうなんです……。しかも永倉さんは、己を守る術を持っていないから……」
下唇をくっと噛んで俯いた総司と腕を組んで沈黙してしまった歳三の隣に、黒い衣を纏った長身の男が顕現した。
「わ、篁!」
篁は呆気に取られた歳三を見るなり、顔を輝かせた。
「トシ、立派になったなぁ」
「……え?」
「そうかそうか。総司をよろしく頼むぞ」
ぽんぽん、と肩を叩かれ、さしもの歳三も眼が点になっている。
「あ、あの、俺はどこかで……」
「昼間こうやって会うのは初めてだが、昔一度会ってるんだ。それに、総司を迎えに来る俺を見ているだろう?」
「それはそうですが……」
なにやら話し込みだした昼の上司と夜の上司の傍で、総司は戦々恐々としていた。
別にこれといった悪事を働いたわけでも、任務の手を抜いたわけでもないが、どうも居心地が悪い。喩えるなら、内弟子として住み込んでいる試衛館に、総司の姉がやってきて、師匠と話しているのを傍で聞いている心境に近い。
「あ、あの……永倉さんの薬の時間なので……」
部屋から逃げ出そうとした総司の言葉で、篁が小さくそうだった、と呟いた。
「閻魔王から預かってきた。新八の武具だってさ」
篁が宙に翳した右の掌に、黒塗りの鞘に収まった刀が出現した。
「俺の刀と同じで、昼は銀刃、夜は黒刃だ。切り替えは持ち主の意思一つ。それから、この鍔には護身の術が施してあるんだそうだ。これがあれば、雷微の雷撃からも、多少は身を守れる」
過保護なことだ、と篁は呟くが、内心安堵しているのが明らかだ。
妖怪どもから己を守る術を持たない新八の身を一番案じているのは、篁かもしれないと、総司は思っている。
篁は、くるりと歳三に向き直った。
「新八はこれからも、危険に晒されることになる。今回のことも、防ぎきれなかった俺や冥界にも責がある。許してくれ」
頭を下げた篁に、歳三も礼を返した。
「総司と新八を、よろしく頼む」
顔を上げた篁は、二言三言、歳三と会話した後、慌しく冥界へと帰っていった。
新八と平助を見舞う暇すらなく――。
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