第5話 冥界の官吏、人界で活動する―3


 篁は風と同化して町を駆け抜ける。落ちないように篁の肩にしがみつくので精一杯の妖狐だが、風に混じる血の臭いと殺気を感じ、片目をそっと開けてみた。

「ここ?」

「うん」

 篁が顔色一つ変えずに河原へと降りていく。

「新選組と浪士がこのあたりでやりあっているそうだ」

「え!」

「逃がしてしまったあれは恨みに染まった魂を持った人間が死ぬ瞬間を狙っている。このあたりで闇に溶け込んだらしい」

 こくこく、と妖狐が頷く。あの化け物に、新鮮な人間の魂を与えるわけにはいかない。

 妖狐が、ひくひくと耳を動かした。

「あ、篁、あっちだよ!」

「んー……対岸かな?」

「そうだね。だけど、橋は遠いよ」

 面倒だな、と篁が頬を掻くのと同時に、妖狐が地面へ降りた。その体がぐぐっと大きくなり、四肢には緋色の雲がまとわりついている。

「……成獣姿、久しぶりだなぁ……」

「長らく篁と共に働いたことで妖としての格が上がったみたいだよ」

 おそらく、神仙に近くなっているだろう。

「もう妖狐族で馬鹿にされることも、ないね」

「そんなことないよ。相変わらず出来の悪い末っ子だから、ぼく」

 妖狐がひゅんと尻尾を振った。それだけで周囲の小さな妖怪たちは斃されてしまう。

「篁、乗って。運ぶから」

 ひらりと篁が狐の背に乗る。気配を完全に消した狐が滑るように宙を走る。

永倉ながくらさんだ。手の怪我、大丈夫なのかな」

「ええ? あの新八しんぱちが怪我をしたの? お前と剣の腕前は互角だよね?」

「うん。池田屋のときに、左手だったかな、掌の肉が削げたとか……」

 池田屋、と聞いて篁がにやりと笑った。

「ああ、沖田総司が、知力体力精神力妖力すべてを使い果たしてぶっ倒れた、あの時か」

 妖狐は無言でぷいっと顔を背け、尻尾をぶんぶん振った。失態だったと恥じているのだ。

「ま、どれだけ疲弊しても本性を曝さなかったんだ、成長したよね。最初、人間として試衛館へ送り込まれてすぐのころは、勝ちゃんや歳に木刀で打たれただけで……」

 妖狐はますます顔を背けるが、尻尾がさらに激しく揺れる。それに気が付いた篁は袂で口許を覆うと、けらけらと笑った。

 この狐に限らず、妖狐たちは口で語るより尻尾の方が正直で、かなり表情豊かなのだ。そこがまた、面白くも可愛くもある。

「わかった、わかった。昔のことはもう言わないよ。機嫌なおせ。そろそろ決着がつくころだ」

「じゃあ地面に降りるよ」

「うん」

 篁の言葉通り、新八の低い刃が煌めいた。恐怖と憎悪に顔を歪め、恨みの言葉を吐く過激派志士の首が飛んで、ころころと転がった。その傍に、例の影も控えている。

「まずい……」

 志士の首が飛んだ瞬間に剣印抜刀した篁が駆け出しているが、影の方も動いている。突如妖気が爆発し、地面から勢いよく躍り上がった。

「禁」

 篁の一言で、地面に倒れる志士の身体と首のまわりに、目に見えない霊力の障壁が築かれた。

「ぐあぁぁ、貴様ら、邪魔をするなぁ!」

 障壁に弾き飛ばされた影が篁を睨みつけ、咆哮した。この間、要した時間は瞬き一回分程度。純然たる人間である新選組隊士も仲間の志士も、突風が吹いたとしか思わない。

「喧しい。お前に肉体や魂なぞ与えられるか! 篁、やっちゃって!」

 妖狐が喚く。

「……縛」

 だが、篁の術が跳ね返されてしまった。

「篁、ぼくのこれつかって! その方が早いよ」

 先程の黒い刃の刀を、妖狐が咥えている。それを受け取った篁は、下段に構えたまま影に斬りかかる。篁が持つだけで霊気を放ちはじめるその刃、動くだけで影の纏う妖気が浄化されていく。

「これは本来なら沖田総司の仕事だよ! 貸しだからね!」

「うん、わかってるよ。でもまだ妖力が足らないんだからしょうがないでしょ!」

「そればかりは仕方がない……。今日は俺が戦う。だから……あいつをどうにかして、この場から追い払ってくれるとありがたい」

「だよねぇ……」

 

 彼らが言う『あいつ』というのは――新選組二番隊を率いている永倉新八の事である。


 妖狐は慎重に気配を消しながら、刀をしまうことも忘れて突っ立ったままの永倉新八の元へと進んでいく。

「永倉先生?」

 無表情で虚空を睨み据えている新八を、二番隊の隊士たちが不思議そうな顔で見つめている。

「永倉先生、いったいどうなさったんですか?」

 肩をつかまれてはっと我に返った新八は、ごしごしと目をこすった。

「いまそこに……」

 十代で剣術修行のために脱藩して以来、修羅場をいくつも潜り抜けて少々のことでは動じない自信のある新八だが、流石に「なにやら得体の知れねぇもの同士の戦闘が繰り広げられていて……」とは言えなかった。

 隊士に訝しがられるか、笑い飛ばされるか。いずれにしろまともに相手にされないのが目に見えている。

「ははぁ、永倉先生、幻覚が見えたんですよ、きっと」

「幻覚ぅ?」

「お疲れなんですよ、傷にも障りますから、屯所へ帰りましょう。戻りが遅いと局長が心配しているでしょう」

「あ、ああ……そうだな。帰るか……」

 幻覚だと納得しかけ、隊士たちとともに一度は踵を返しかけた新八だが、やはり闇の中を蠢く気配がある。

「よし……」

 全ての神経を研ぎ澄ませて目を凝らすと、見慣れぬ衣を纏った男が見たこともない大きな刀を軽々と操っているのが視えてきた。

「……おめぇさん、誰だ? そこで何してやがるんだ? そっちの白いのは……犬か?」

 新八は、思わず声を掛けていた。

 これに驚いたのは、篁や妖狐よりも影――いや、既に化け物と呼んで良いほどに成長している――のほうだった。

「なに!? 永倉新八に我の姿が見えるのか!」

 化け物に名前を呼ばれた新八も驚いて目を丸くしている。

「なんだ、なんだぁ? どうなってんだ?」

「これは良い獲物だ、喰らってやろう」

 化け物は、にたりと笑いながら己の髪を引き抜き、ぱっと宙へ放り投げた。髪はたちまち蛇と化し、地に落ちるなり新八へと迫っていく。

「そうはさせないぞ……」

 妖狐族に伝わる狐火を召喚して蛇に放つが、新八に気取られないよう妖気をかなり抑制した上でのことなので、蛇の動きを完全に封じるほどの威力がない。

「うわ、な、なんだ!? ぞわぞわしやがる……」

 本能的な部分で危険を察知した新八がひょいと片足を上げた。が、蛇が見えないため、そのまますぐに足を下し地面を踏み固め、きょろきょろと辺りを見回す。

「すご……」

 妖狐の白銀の尻尾がひゅんと大きく揺れ、黒い瞳がまん丸になっている。それは化け物と戦っている篁も同じで、顔にこそ出さないものの内心舌を巻いていた。

 無理もない。

 ごくごく普通の人間であるはずの新八が、化け物の蛇を踏み潰し、けろっとしているのだから。

「おーい……妖狐、遠慮なくやっていいよ。……あいつは妖力に耐えられる」

「うん、そうみたいだね……」

 大きくため息をついた妖狐は、妖気の抑制を解除した。大きく膨れ上がった炎を立て続けに召喚し、地面でうねる蛇に叩きつける。一瞬にして蛇は灰と化す。

「うひゃ!?」

「なっ、火事!?」

 二番隊の隊士たちが、慌てふためいている。彼らにしてみれば、突然炎が上がったのだから驚くのも当然だ。

「おめぇら、落ち着け。こりゃ……大丈夫だ」

「でも、永倉先生!」

「まぁ見てろ。心配いらねぇから」

 炎と灰が消え去ったあと、新八の目には小さな白銀の狐の姿がはっきりと映った。

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