第4話 冥界の官吏、人界で活動する―2
獲物を逃がしてしまうなど言語道断、大失敗である。慌てふためいて駆け出そうとする総司の袂を、篁は条件反射で掴んでいた。
「ちょっと待って」
「ん?」
「もう暮れているものの、道行く人が多い。俺がこの格好で走ると目立つし、総司が慌てていると、隊士を慌てさせるかもしれない」
たしかに篁は、黒いとはいえ大昔の着物を着ている。なにより今時、髷ではなく被り物をした若い男というのは珍しい。
「……それ、取れば?」
無駄だとわかっていながら、総司はそっと提案してみた。平安の時代の習慣がしっかりと身についている篁は、絶対に人前で冠や烏帽子をとろうとしない。それをとるのは「恥」であるらしいのだ。
「嫌だ」
「でもね、ここは宮中でもないんだし、徳川の世、武家の世だから、誰も貴族の作法は気にしないと思うんだけど」
「うるさいぞ! そういう問題じゃない。俺が、嫌なんだ!」
綺麗な顔で思い切り睨まれて、総司は首をすくめた。
そんな相棒にお構いなしの篁は、懐から取り出した小さな紙にふっと息を吹きかけた。
紙切れはたちまち小さな蝶の群れとなり、京の町をひらひらと飛んでいく。
「今のはなに?」
驚きました、と顔に大書した総司が篁を見る。
「陰陽師の使う術の式だよ。あれ? やって見せたこと、なかったっけ?」
「ないよ!」
「あいつの追跡を命じたから、暫くそこで待機」
篁の言う「そこ」というのは、屯所の屋根の上だったりする。総司は慌てて首を横に振った。
「いくらなんでも、建物の屋根に人が二人も座っていたら目立つでしょう」
「そうか? 上を見ながら歩く人は滅多にいないと思うけど……」
「少なくとも、巡察に出る隊士は気が付くよ」
「そうかなぁ……」
「……こっち。来て」
総司に引っ張られて壬生寺の境内に移動した篁は、適当な木に背中を預けて、懐から「符」と「数珠」を引っ張り出した。
それらをしげしげと眺めていた総司が僅かに顔をしかめた。
「うーん……神野や篁が昔から使う術は一向に気にならないけど、陰陽師の使う『陰陽術』はどうも好きになれない」
「へぇ、どうして?」
篁の問いに、総司はうーん、と首を傾げる。
「なんというか……いつまでたっても体の奥がぞわぞわする感じ。どうも、好かないなぁ……」
ははぁ、と篁は納得した。
「それはお前の本性が嫌がるんだろうね」
「そうなのかな?」
「この数珠で俺が最後につかった術は退魔調伏だった。尻尾が六つに分かれた妖狼を式に下した。……まぁ、考えようによっては、陰陽師は妖の天敵とも言えるかもしれない」
「だいたい篁、いつそんな陰陽術を身につけたのさ? 陰陽師じゃなかったよね、昔は」
「ああ、俺は霊力が桁外れなだけで陰陽師ではない。けど、人界で効率よく仕事をするために、いつだったか安倍清明に教わった。本業の陰陽師には程遠いけど、それなりに役には立つ」
見ていて気の毒なほど総司が慌てふためいた。ぴょんぴょんと飛び跳ねて間合いをとった。
「あ、あの、総司?」
「い、いやだ! 篁に使役されるのはごめんだから!」
「まてまて、俺はそんな術をお前に使うつもりはないよ」
「そんなの、わかるものか! ぼくを式に下してこき使うつもりだろう?」
「違うって、落ち着け、総司!」
触るな寄るなとぎゃあぎゃあと喚き散らす総司の声がだんだん甲高くなっていく。篁がしまった、と手で顔を覆ったが、時既に遅し。
黒い髪の中から白銀の三角の獣耳が生え、袴を突き破って白銀の尾が顔を出した。手が、足が、見る見るうちに獣のそれへと変化していく。
「総司……お前、簡単に本性に戻るなよぉ……これから奴との対決だってのに……」
地面に座り込んだ篁が、本来の姿である『白銀の妖狐』に戻ってしまった総司を抱き上げ、嘆く。
ふわふわと柔らかいその体はいつもと変わっていない。ただ、出会った当時は少年と仔狐だったが、今では青年と成獣だ。
「たっ、たかむらの、ばかぁ!」
白い獣の前足が篁の頬をぺしぺしと打つ。
「驚かせた俺が悪かった。頼むから、人型へ戻ってくれ……」
「むりだもん! 妖力が足りないもん!」
ああ失敗したなぁ、と天を仰いで嘆く篁の元へ、先ほど放った式がひとつ、帰還した。
そっと伸ばした指先に止まった蝶から報告を聞いていた篁の顔が次第に苦渋に歪んでいく。
心配そうな妖狐が、
「篁、どうしたの? 良くない報せだね?」
と声を掛ける。
「うん、ちょっと、思っていた以上にまずいことになった……」
そのまま暫く宙を睨み据えて何かを考えていた篁は、一つ頷くと白い体を己の肩にのせた。
妖狐が尻尾を篁の首に巻きつけると同時に篁が呪を唱える。風脈に乗って駆け出した。走ると言うより飛ぶに近く、通りすがりの一般人には、突風が吹いたように感じられるだろう。
「頼む、間に合ってくれっ……」
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