一章
第3話 冥界の官吏、人界で活動する―1
逢う魔が時――。
どこぞの藩の京屋敷の近くで、黒い影がひっきりなしに蠢いている。
それが視える通行人など皆無だが、影の方も、生きている人に興味はないらしい。ぞわり、ぞわりと不規則に動くそれは、時に人の形になるもののすぐに形が崩れてしまう。
妖力が安定しないため、一定の形が保てないのだろう。だが丸くなろうが、人型であろうが、澱んだ瘴気を撒き散らしていることに変わりはなく、また、その屋敷から離れることもない。
「俺の……俺の体……かえせ……」
どこに口があるのか判然としないが、若い男の声が吐き出される。
「首……首がほしい……いやだ、ゆるさねぇ……そうだ、お前も道連れにしてやろう……」
しゃがれた声は次第に「呪いの言葉」を紡ぎだす。その禍々しさに、小さく非力な雑鬼たちが逃げ出していく。影はそれを逃さず、手……いや、紐のような触手をしなやかに伸ばして鬼を絡め取り、ずるずると引き寄せた。鬼たちが、恐怖できーきー喚く。
「お前の……大事なものを……削り取ってやろう……」
顔らしき部分の、口らしき裂け目が、にたり、と横に開いた。
「力が足りない……。いや、これを食らえば……」
目、らしきものが横へ動いた。そこには、触手に絡め取られて震えている雑鬼たちがいる。彼らを無造作に口へ放り込み、あっという間に噛み砕く。
「不味い……。まだまだ、足らぬ。これではここに張られた結界を破るだけで一日が終わってしまうぞ……」
今宵は新月。
かの屋敷に張り巡らされた「守護の結界」が少々力を弱める、唯一の日だ。今日を逃せば、これから一月待たねばならない。
「今宵こそ、あの男の息の根を止めてくれる!」
雑鬼を喰らって妖力を得た影の咆哮は、恨みを抱いたまま人界を彷徨っている「恨鬼」や「幽鬼」たちを引き寄せることにした。その方が、効率よく妖力を高められる。
それらを喰らいながら、ぞろぞろと京の都を移動する。
「ここだ……」
それが立ち止まったのは、壬生村だった。ここには、新選組の屯所がある。
「ほほう……」
壬生村には、無数の妖がいる。その数は尋常ではない。それらを片っ端から貪りつくす。ばりり、べちゃり、と、嫌な音が周囲に響く。
最初は「人らしい姿」を維持できなかった影だが、はっきりとした人型を取り始めるのにそれほどの時間は必要なかった。
「げふぅ……」
「満腹かい?」
「……なんだ?」
「まったく近頃の人界の生き物ときたらこれだけ凄まじい妖気にまったく気が付かないとはね。鍛え直した方が良いと思うんだよね……って、もう先に行ったのか、あいつは。相変わらず、気が早いというか好戦的というか……」
どこからか、若い男の声がした。死霊を食べていた影が顔を上げたと同時に、銀色の刃が目の前に迫っていた。
咄嗟に腕を掲げて額から喉、いわゆる急所を守ったのは人間だったころに身につけた武術の名残だ。しかし今の自分は、刀で斬られても死なないのだとすぐに思い直す。
食べかけの死霊を放り出し、大きく間合いをとりながら周囲の気配を読む。
「げふぅ……敵は二人……」
「あれぇ、やっぱり普通の刀じゃ、斬れないか……」
先ほどの銀の刀を肩に担いだ男が道の真ん中で仁王立ちになっている。これといった特徴のない羽織と袴に月代。大小二本の刀を差した侍だ。
「当たり前だよ。漆黒で、しかも半分崩れた人間がいてたまるか」
その武家の背後に、もう一人、背の高い男がいる。こちらは墨染めの狩衣に指貫袴、腰には飾太刀。明らかに今生きている人間ではない。
「……誰だ、お前らは」
「うわ、喋った! いやだなぁ、瘴気? 妖気? とにかく嫌なものが撒き散らされて気持ちが悪い」
武家がぶんぶんと手を振り、ばたばたと足踏みをする。まるで童子のようなその仕草に、もう一人の男が苦笑を零しつつ、拍手を打った。
「なに!?」
影は、思わず飛び上がった。清冽な霊力が迸り、壬生村に蓄積された邪気をたちまち浄化していく。
その凄まじさは、これまでに遭遇した陰陽師や術者のそれとは比較にならない。
「ふふん、驚いたか? そうだろうとも。この男は、小野篁だぞ!」
「あのねぇ……上司をこいつ呼ばわりするとは……。それはまぁ置いておくとして。影よ、お前はこいつを知っていると思うんだけど?」
影の目が、じろりと侍に据えられた。
「ふん、壬生浪士組副長助勤……いや、今は新選組一番隊組長と言ったか……沖田総司」
忘れるものか。否、己の息の根を止めた男だ、忘れたくても忘れられないと言ったほうが正しい。
「ふふ、よく覚えていたね」
「幹部どもがこぞって可愛がっているお前を喰らってやろうと、待ち構えていたところよ。のこのこと出て来るとは、探す手間が省けた」
影が、どろどろとした触手をのばし、総司と篁を絡めとろうとする。それを無造作に払う総司の顔が嫌悪に歪んだ。
「うへぇ……こういうの嫌いだな……」
にかぁ、と裂けた大口を開いた影が、一瞬動きを止めた。
「……お前ら、人ではないな?」
「人、だよ」
すかさず総司が答えるが、違う、と影が応じる。
「隊に居た頃は気が付かなかったが、沖田、お前からは妖の気配がする。小野篁とやら、お前は……」
「そうだよ。俺の本職は、閻魔王庁の役人だよ。総司は長年、俺の部下というか相棒だ」
「閻魔王……? 冥界か!」
冥府の役人がこんなところで何をしているのか、と、影が大真面目に問う。傷つけてよいものなのかどうか、食べて良いのかどうか、図りかねているのだ。
「閻魔王庁から逃げ出したり三途の川を渡るのを嫌がったり、地獄から逃げ出した馬鹿が山のようにいるんだってさ。人に害をなす前に全てを狩れと閻魔王直々の命令書を持って、篁がやってきたんだ。もちろん、そのお手伝いをしてるのさ」
総司が朗らかに言いながら跳躍する。
例の銀の刃を
「ちぃっ」
飛び退いて体勢を立て直した総司が、鋭く舌打ちをする。この男は普段は飄々として屈託がないくせに、ひとたび剣を取れば人が変わるのだ。
鬼、冷酷、無情。
これらは副長・土方歳三を装飾する言葉として定着しているのだが、敵と対峙した沖田総司にこそふさわしいと、影は思っている。それもこれも、本性が人ではないと解った今、十分納得できる話ではあるが。
「そっちから来ないのなら、遠慮なくこっちから仕掛けるぞ!」
「ちぃっ!」
今、この剣術馬鹿の相手をするのは、得策ではない。影は、すばやく周囲を見回した。幸い、奴らの仲間はいないようである。
逃げるなら、今である。
「総司、総司。その刀じゃ奴は斬れないって」
壁にもたれて、おいでおいで、と暢気に手招きする篁のそばに跳ねるようにして総司が行く。総司の刀に篁が掌を翳すと、みるみる刀身が変化した。刃が黒になり幅も広い、文字通り『大きな刀』へと変を変えた。
「昼間新選組として活動するときは、銀色。妖怪を狩るときは、闇色。わかった?」
「わかった……」
といいつつもその刀の大きさに唖然としているのが解り、篁は思わず笑った。
「さしもの天才剣士どのも、この大きすぎる刀は扱えないのかな?」
篁の悪戯っぽい口調に、情けなさそうに歪んでいた総司の顔がきりりと引き締まった。
「ふざけるな。ぼくに扱えない刀はない!」
闇色の刃を担ぐようにして構えた総司だが、きょろきょろと辺りを見回した。
「篁! さっきの奴がいない!」
「な、なんだとぉ!?」
形勢不利と見てとった影は、すたこらと逃げ出したらしかった。
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