第7話

 ハンバーグが来るまでに、私は彼にコンペの事について話した。彼は「よかったじゃないか」と笑い、喜んでくれた。


「実は、俺もオーディションを受けるんだよ」


 そう言った彼の顔は少し照れくさそうで、らしくもなく、しおらしかったのだけど、その誇らし気な表情に憂いはなく、ただ、夢に向う人間の輝きを垣間見る事ができるのであった。




「俺も、この街が好きなんだ」


 一足早く運ばれてきたドリアをスプーンで掬いながら彼はそう言った。


「あんたと違って、自然が好きなわけじゃないんだけどな。なんとなく、生まれ育ったこの街を離れられない」


「なんとなく、分かります」


「そうだろう? 特別何かあるわけじゃないんだが、これまで見てきた景色や音が、俺は好きなんだ。こればっかりは、どうにもならないな。中学で音楽に出逢ってから、歌手になって、いつかはアメリカやイギリスで公演したいと今でも思っているんだが、本当の俺の居場所は、ここしかない気がするんだよ」


 一片ではあったけれど、初めて彼の想いを聞いて私は新鮮な気持ちとなった。今までは他人の思考に興味を持てず、そういった話を無遠慮に聞かせてくる人間を嫌悪していたのだけれど、彼は違って、発せられる言葉の一つ一つが物語のように紡がれ、私の耳を捉えて離さなかった。


「俺は、どうにも普通の生活に適応できなくてね。高校も辞めて、ギター弾きながらふらふらしているんだ。いつまでもこんな生活が続くわけじゃないんだが、どうにも、夢を諦められない」


 少し目を伏せ、影の射した笑顔を見せた彼に私は困惑した。夢にすがるしかないというのは絶望的な希望だと、この時の私は知りもしなかった。けれど、だからこそ言えた言葉があった。だからこそ、私は、掛け値無しに、彼を激励する事ができたのだった。


「素敵じゃないですか。私は、貴方に、夢を叶えてほしいです」


 それは本心だった。私は、彼が望んだ道を歩んでほしいとねがった。それは、裏を返せば、自分の努力を否定されたくないが為に言ったものだと思われるかもしれない。けれど、それでも私は口に出したかった。彼を、夢を、目標を肯定する言葉を発したかった。


「……ありがとな」


 はにかみながら、彼は、私の目を見てそう言った。普段見せる余裕は鳴りを潜めていたけれど、私は、その時見せた、遠慮がちな微笑こそ、彼が持つ、本来の性質な気がした……








 プレゼンの当日は梅雨の谷間。シルクのような雲が点在する晴天だった。

 桜はとうに散り、長く続いていた雨の残り香が陽に照らされて、街は水と緑の匂いに満ちていた。私は出勤の途中、そんな空気を吸い込みながら緊張を解そうと試みていたのだけれど、やればやるほど肩に力が入ってしまって、溜息ばかりが出てしまうのである。ちくと気を抜くと、後悔しているような一文が頭の中でリフレインし滅入ってしまう。けれど、それまでの過程と、夢を追う彼を想うと、自然と、前に進みたいと思った。それは勇気というには些か大袈裟なのだけど、憂鬱を払う心の起爆剤となっているのは確かで、私の惰弱な精神を抑えるのに充分な効果があったのだった。


「おはようございます」


 出社して、私は自分から真田さんに挨拶をした。プレゼン用の企画書を作成するようになってから、自然とそうするようになっていて、それは、特別彼女を敬おうと思っていたわけではなく、いつの間にか、自然にそうなっていたのだった。


「おはよう。今日が本番だよ。頑張ろうね」


「はい。ありがとうございます」


 真田さんにはプレゼンの補助をしてもらう事になっていた。いつもの、眩い笑顔が心強かった。


「最終調整しといたから見直しといて。後、極力カンペは使わないように。プレゼンは、目でやるものだからね」


 人の目を見て話すのが苦手な私は、真田さんのアドバイスを実行できるか不安になったのだけれど、毒食らわば皿までの精神で覚悟を決めた。プレゼンの時間は午後一番から。一分一秒が長く、恐ろしく感じた。けれど、私は逃げようなどとは思わなかった。


 一時間。二時間と過ぎ、いつの間にやらお昼の休憩となり、それも、いつの間にやら終わってしまった。昼食は、喉を通らなかった。普通の人ならこんなに緊張なんてしないだろうなと思うと恥ずかしく惨めに思ったけれど、私は私でしかないと自身に言い聞かせて深呼吸をしてから、コンペ会場である会議室へと向かった。



「大丈夫だよ。リラックスしなよ」


 前を歩く真田さんの励ましに「はい」と、蚊の消え入りそうな声で返事をした。それは私自身も声を出したか出していないか分からないくらいの、まるで吐息のような声だった。


 私は恐れていた。人の目が怖かった。注目されるのが嫌だった。けれど、けれど、私は、前に進んだ。自分から、進みたいと思った。この日まで努力してきた事を無駄にしたくなかった。私の気持ちが形となった企画書を、見て欲しかった。


 真田さんがノックをして会議室の扉を開ける。いつもは軽く、簡単に開いていたはずなのに、妙に重々しく、ゆっくり動いていくように見えた。部屋の中には、名前しか知らなかった上役の人間が数人……心なしか重圧を掛けられている気持ちになり、喉が乾いていく。昼食を抜いたのに、胃の中のものを吐きそうになった。身体が震え、泣き出しそうになった。

 怖かった。怖かった。怖かった! けれど、私は逃げなかった! 

 この日の為にやってきた。逃げられるはずもなく、また、逃げたくもなかった。

 挨拶を済ませ、PCの電源を付け、資料を配り、プロジェクターで説明し、質問に答えた。上手くできた箇所は皆無だった。何度も吃り、間違え、笑われては顔を赤らめた。有り体にいえば。プレゼンは失敗であった。


 全てが終わると、真田さんは笑顔で「よくできました」と、まるで子供を褒めるように私の頭を撫でた。それが、どんな叱責よりも辛く、どんな励ましよりも、優しく感じられた。私は涙を必死で堪え、ただ、真田さんに謝る事しかできなかった。


 悔しかった。


 もっと上手くできたとはずだった。もっと上手く伝わるはずだった。あの企画書を生かせなかったのは私だった。腹の奥底から、マグマのように吹き出す忿怒は、自分に向けられたものだった。けれどその反面、心の中は妙にスッキリして、客観的に評価を下せる自分がいた。


「今回は仕方がない。次は、もう少し頑張ろう」


 私らしからぬ、前向きな言葉が頭の中で流れた。私は、コンペが終わればきっと精魂尽き果て、翌日からはまた無気力な生活に戻るだろうと勝手に思っていたのだけれど、「次」などという単語が出て来るあたり、まだ頑張りが足りないのだろうと、頑張りたいのだと確信した。

 何もかもが新鮮で、輝いていて、眩しかった。私は、その光に包まれて、ようやく、自分の人生がスタートしたような気がした。私はその日、言いようのない自失感と充実感に溢れ、そして、幸福を得たのだった。

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