第6話

 小さな頃から街の風景が好きだった私は、母の目を盗んでは家をよく抜け出し、昇る朝陽を、沈む夕陽を、輝く星々を、厚い、あるいは、薄い雲を、花の大輪を、深まり、枯れゆく緑を、実る果実を、金色の稲穂を、そよぐ風を、川のせせらぎを、土の香りを、ひび割れたアスファルトを、寂れた街灯を、苔の生えた用水路を、そこに住む、様々な動物や虫達を、私はずっと見て生きてきた。この街は、この街の風景は、ずっと私が心に刻んでいたものだった。

 私は折り目すら付いていない、擦りたてのような資料を眺め、この街の、私が生きてきた場所の風景を思い出していた。一人だった、何もなかった私に、明媚な一角を見せてくれたのは、この街なのであった。この時、私の頭の中では小規模な爆発が連鎖していき、次第に身体全部を揺さぶるような大爆発へとなっていったのだけれど、この感覚は、今も忘れる事ができずに、時折私の中で、思い出したように火が着く事があって、おかしな笑いを上げる事がある。勿論、人のいないところでだけど……





「まぁ、気が向いたらでいいから」


 私が資料を読んだ事に満足したのか、真田さんはドラマで見られる母親のように優しく私に声をかけた。彼女は、私が一歩踏み出せたと思いそこで満足したのだろう。けれど、私はそこでは終わらなかった。お腹の中から、何かがせり上がってくるような感覚がしていた。気分が高揚していた。血が巡っていた。私は、決心を固めた。



「私、やってみます」


「……」


 真田さんは私が何を言ったのか分からなかったのか、ガラス玉のような目を開けて黙っていた。仕方なしに、私は彼女に向かってまた口を開いた。


「私、この企画書作ってみます!」


 力を込めて、私は言った。


「え、あぁ……え? 本当に!」


 真田さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。私がプレゼンをする姿など、想像もできなかったのだろう。


「はい。上手くできるかは、分かりませんが、やってみたいです」


「うん……うん! よかった! 中村さん! 私も手伝うから一緒に頑張ろ!」


 叫びに近い声を上げる真田さんの隣にいるのは少し恥ずかしかったのだけれど、手を握って私を見る彼女はとても頼り甲斐があるように感じた。


 それから私は業務の傍、企画書作りに没頭するようになった。日がな一日街の事を考え、それを書き、消して、時には真田さんに助力を請いながら、私が住んでいる、私の場所の素晴らしさと、そこで行う催しを連ねた。

 河川敷では魚釣ができ、七輪や飯盒の貸し出しをできるようにしたいと思った。桜並木にある、剥き出しのパイプや鉄線を木製のガワで覆いたいし、春には簡単な茶屋を建てたい思った。小山には動物を放し飼いにした広場と花畑を作りたいと思った。寂れた畑で農業体験ができるようになればいいと思った。地元の農家で作っている果実や野菜だけを使った食事処があればいいなと思った。空き家を改装して、人々が交流できるスペースを作りたいと思った。町中を自転車で回れるよう、レンタサイクルと専用レーンの設置したいと思った。

 私はこの街で、色々な事をしたかった。私の見た景色を、私の知っている四季彩を、多くの人にも分けたかったのだった。私は、私が育ったこの街が、きっと好きだったのだろう。好きだった。と、断定できない理由は、未だ私が好きという感情を理解できていないからなのだけれど、少なくとも、この、沸々とした感情が今でも途切れていないのは、紛れもない事実なのであった。


 さて、残業を許されていた私は遅くまで残っていた。夜毎に資料の作製に勤しみ、帰ってからは本を読み、食事もろくにせず、ひたすらに、コンペに向かっていた。いたのだけれど、ふと、緊張の糸が切れたのか、私は空腹を覚えた。何かを食べたいと思ったのは久しぶりで、存外悪い気はしなかったけれど、そのままいるのは耐え難く、苦痛だった。辿り着いたのは、彼と行った、ファミリーレストランだった。そして、そこにいたのは……



「おや、しばらくじゃないか」


 ギターを持った、彼だった。私は控えめに「どうも」と会釈をしたのだけれど、どこかよそよそしく、ぎこちなくなってしまっていた。


「最近来てくれないかは、飽きられたのかと思ったよ」


「そんな事、ないですよ」


 後ろめたさからか彼の笑顔が痛かった。責められているような気がしたのは、私が狭量だったからだろう。けれで、その反面で彼との再会を喜んでいる私がいた。朧げながら、やっと掴んだ目標を彼に話したかった。


「あの、よければ、一緒にご飯、食べませんか?」


「いいのかい? 今日は奢れないぜ?」


 彼の冗談に私は笑顔を返した。普段は、笑ってみても上手くできているのか分からないのだけれど、その時ばかりは、ちゃんと、柔らかな表情ができたと実感できた。


「いい顔するようになったじゃないか」


「はい。おかげさまで」


 私達は二人でファミリーレストランに入った。案内されたテーブルは以前に来た場所と同じだった。けれど、私が頼んだ料理はあの日とは違って、大きなハンバーグを注文した。それを見て彼はまた笑った。私は、それが嬉しかった。それは彼が、初めてできた、友達だったから……

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