第5話

 彼と話して、何かしなければならないと思った。

 とはいえ私は何をしたいかてんで分からなかったものだから、何をしたらいいのか大いに頭を悩ませていた。やりたくない事をやったとしても、それでは今まで変わらない。やらされてるだけだ。言い訳がましくなるけれど、私は昔から自発的に動く事がなく、遊びでさえ、お手玉とか、あやとりとか、積木とか、親の気にいるものばかりをやっていた。本も読めと言われて、有名どころはだいたい読んだのだけれど、それらが響く事は一向になく、漱石も芥川も、「馬鹿な人」という印象しか持てず、「どうだった?」と母に聞かれては答えに難儀していたのだった。

 留学に行った時もそうだった。向こうでできた知り合いにカントリーミュージックやクラシックロックを勧められてイベントなどにも顔を出してみたのだけど、ちっとも良いとは思えず、結局日本と変わらない日常を過ごし、果たして留学した意味があったのだろうかと、帰国してからよく考えていたくらいである。


 私はいったい何がやりたいのだろう。何がしたいのだろう。


 考えれば考える程に頭の中が散らかって、整理しようのない自己嫌悪に陥ってしまう。そうやって考えていく内に、私は彼の顔を直視できなくなり、やがて、彼の元へ行けなくなってしまっていた。好きな事を好きなようにやっている彼が、眩しく思えた。彼のことを考えると、何だか惨めな気持ちになり、心臓が締め付けられて潰れそうになる……私は、彼と自分を比較して、勝手に劣等感を抱いしまうようになって、次第に夜も、彼と私がいた世界も居心地が悪くなっていた。部屋でも会社でも、溜息の回数が増えていく。真田さんは、それを目ざとく見つけ、いちいち私に「幸せが逃げるよ」とご忠告くださり、益々私は苛々として、鬱屈した精神を育んでいったのだった。仕事は手に付かず、簡単な失態を晒す事が度々あって、それもまた、私に芽生えた、些細な自尊心を傷つけいった。


 何もできない。


 事ある毎にそんな声が頭の中で聞こえる気がして、酷く鬱屈としてしまう。その時の私は気が狂ったようにハウツー本や自己啓発本を読んでいたのだが、変化もせず興味も持てず、無用の本の山を積み上げ、それを見てはやはり溜息を吐いていた。段々と部屋の面積を圧迫する本に部屋を追いやられていく。会社にも部屋も、私の居場所がなくなっていくような気がしたのだけれど、元よりそんなものはなかった事を思い出し、涙が出た。そんな時は決まって、一時間程歩いて小山に登っていた。春風が止み、梅雨へ入ろうとする間。植物は恵みの雨を今か今かと待ち構え、若々しい葉を広げようと音もなく根を伸ばしていた。新緑が騒ぎ、虫や動物達が活気付く自然の一画は、命そのものを肯定してくれているようで、私は、その場所だけでは、全てを忘れる事ができるのだった。


 とはいっても、やはり現実は依然現実であり、黙っていても時は経過する。部屋には帰らなければならないし、会社には行かなければならない。いっそ、あの小山で生活してやろうともチラと考えたのだけれど、国有地に勝手に住み着くのは問題があるだろうと思い留まり諦めたのだった。山や海をどうこうする権利を、どうして人間が持っているのか甚だ疑問なのだけれど、人間として生まれた以上は、人間の敷いたルールを守らなければならない。難儀なものだ。私は人里へと降りると、呪詛を噛み締めながらいつも通りに出社して、無感動な仕事に従事しなくてはならなかった。


「おはよう中村さん」


 真田さんはやはり無意味に覇気があった。


「おはようございます」


 私はおざなりに挨拶を返し、目の前のPCに向かって仕事をしているふりをした。彼女と話す余裕などなかった。私は、自分と向き合う時間が欲しかった。恥を忍んで述べるのならば、いっそ休みを取って当てのない旅にでも出ようかとも考えていた。虚ろな学生がよくやる自分探しの旅というやつだ。それは私の中で、まったく意義のない、時間の無駄ともいえるような愚かな行為なのだけれど、悩むばかりで、未だ道を見出せずにいた私は、半ば現実から逃避したいという欲望も湧き、どこか彼方へと消えてしまいたいと考えていたのである。けれど、そんな気持ちを微塵も知らない、というより、理解できないであろう真田さんは、一瞥もしない私に対し無遠慮に口を開き続けるのであった。


「最近、元気ないみたいだけど大丈夫?」


 実際に塞ぎ込んではいるのだけれど、私はつい、「貴女が元気なだけですよ」などと憎まれ口を叩いてしまった。仮にも上司であるのに、我ながら軽率な発言だった。けれど、真田さんは気にもしないで、「元気じゃない私は私じゃないからね」などと笑っていたのだった。


「人生なんてのは何をしても過ぎていくんだから、笑ってないと損だよ」


 社内であるにも関わらず、真田さんは豪快に笑った。周りから「またか」といわんばかりの冷視線と苦笑いを、私まで受け恥ずかしかったのだけれど、真田さんの、屈託のない笑顔を見ている内に自然と羞恥の心は消えてしまい、誇らしさではないけれど、何故だか胸を張れるような気がしたのだった。


「確かに、そうかもしれませんね……」


「そう! そうだよ! 人生笑顔と挑戦が大事なんだよ!」


 声を張り上げて力説する様にはさすがに少し呆れてしまったが、私は真田さんに幾らか気持ちが救われたのだった。おかしなものだ。かつての私なら、絶対に絆されず、感化されず、「そうですか」の一言で終わらせていただろうけれど……きっとこの変化はギターを弾く彼との会話の中で、私の価値観が次第に軟化し、融解して、新たな形態を取ったからなのだろう。私は、この時初めて、他人の中に光る、命の輝きのようなものを見る事ができたのであった。


「あぁ、それと、例のコンペ、資料見てくれた?」


 とはいっても、こちらの事情をまるで無視して話を進める悪癖には閉口せざるを得ないわけで、私は、彼女に対して抱いた羨望が少しばかり色褪せていくのを感じた。けれど、目を輝かせる真田さんを無碍にするのも忍びなく、仕方なしに、「とりあえず今、確認します」と、ホッチキスでまとめられた、ろくに目も通さずにしまった資料をファイルから取り出して、どれどれと文字を追うのであった。その資料には。


自然と美をリンクした私の町づくり。


 と、いうテーマが記載されているのだった。その時、私の胸は、ほんの僅かだけれど、確実に、心の音を響かせていた。私の探していたものの片鱗が、ようやく見つかったような気がしたのだった。

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