第4話

 やや寝不足気味に出社した私は、ペットボトルの水を含み、乾いた舌を潤した。

 始業前の社内は所々で他愛ない会話がなされており、微かな笑い声が耳に入ってくる。彼が言うところの、生きている人間の生活が、私のすぐ近くで営まれているのだった。


 私はこれまで目立つ事なく過ごしていて、それは勿論、会社でも例外ではなかった。そのおかげで、物笑いの種になるくらいの事はあったがこれといった面倒に晒される事はなく、敵も味方もできない、影の世界の住人のようであって、それが心地よかったのだけれど、そんな私の平穏を揺るがす存在が会社にはいるのだった。


「おはよう中村さん。眠そうだけれど、大丈夫?」


 真田さんは、いつものように、朝から下品とも思える笑顔で声を掛けてきた。この人だけは、私を影の世界から出そうとしてくるのだった。彼女の事は嫌いではないのだけれど、やはり話を人と話すのは苦手だし、声を発するのは面倒だった。なるべく避けてはいたけど、それでも真田さんは執拗に近付いてくるので、私は彼女の一方的な交友を持て余していたのだった。


「大丈夫です。昨夜、少し夜更かしをしただけなので」


 欠伸を噛み殺しながらそう答えると、真田さんは捲し立てるように口を開いて訳の分からない話をするのだった。その大半は私には必要ないもので、聞いているだけでより眠気を強く促し、閉じようとする目を必死で食い止めていた。


「そういえば中村さん。今度、新しい案件の企画コンペがあるんだけれど……」


 真田さんを嫌ってはいなかったけれど、こんな話をされるのは堪らなかった。企画のコンペなんて、絶対に参加しないと分かるはずなのに、どうしてわざわざそんな情報をわたしに持ってくるのか……不特定多数の前でプレゼンをするだなんて、考えただけでゾッとしない話であった。


「興味ないです」


「まぁ、資料置いとくから、読んでみてよ」


「……多分、読まないですよ」


「そんな事言うもんじゃないよ。置いておくから、後で読んでおいて。それと、親睦会の話なんだけど……」


 それから色々話をした後、真田さんはいつものように、「貴女がいいのならいいのだけど」と言って去っていった。朝の時間いっぱいを使っての辻説法は、業務に差し支えが出るくらいに私に睡眠の欲望を与えたのだった……






 足は自然とトンネルへと向かっていた。無意識だったのが、自分でも驚いた。私の生活において彼の歌が特別響いた訳でもないのだが、なぜだか彼を、彼の人生を求めていた。

 誰かと話をしたいと思ったのは初めてだった。それは、例えば恋という感情だったのだろうか。いや、違う。昔に恋人というものはいたが、その関係は恋愛の真似事で、ただたまに会って、一緒にお茶を飲んで無益な会話をしていただけだった。彼から「君の考えが分からない」と別れを告げられた時、私には悲しみも怒りも湧かず、他人事のように、自分に恋は無理だろうと納得するばかりだった。ギターを弾く彼にも、やはり焦がれるような想いを……小説に書いてあるような胸の高鳴りを感じる事はなかったけれど、私の中で、彼の存在が特別なものとなっていたのは、まぎれもない真実であり、また、不思議であった。


 けれど、彼はいなかった。したくもない真田さんとの会話はあったのに、珍しく話したいと思った人とは会えないというのは因果的な神秘を一瞬感じたのだけど、すぐに「馬鹿らしい」と自嘲し、トンネルに背を向けた。お酒を飲んでもいいかなと考えたのだけれどそんな気分にはなれず、そもそもそれほど好きな訳でもない事を思い出し、おとなしく帰路に着いたのだった。

 それからというもの、彼はすっかりと姿を消してしまった。彼がいたトンネルは寂寞が居座ってしんと静まり、歩く足音さえ嫌味のように大きく響かせるのだった。トンネルに足を運んでは、彼がいない、壁だけを見る日々……私は毎日、何だか情けないような気持ちになりながら帰った。その際、彼が最後に歌っていた、ザ・リバーをふいに思い出し、口ずさんでいた事を今でも覚えている。






 彼が戻ってきたのはそれから二週間空いた頃だった。時期は春。朝夜問わず舞う桜花に人々が酔いしれる季節。私は相変わらずトンネル通いをしていたのだけれど、それは道中の見事な桜並木が目的でもあった。風に揺らされ、零れ落ちた花弁が運ばれていく様は雅で、つい見惚れ惚けてしまう。私は桜を前にして、非現実的な夢想していた。私の身体が、花弁となって崩れ落ち、どこかへ飛んで行く、そんな、柄にもない、ロマンある夢想を……

 ギターの音が聞こえてきたのは、まさにそんな時だった。気付いた私はヒールを履いている事も忘れ駆けた。トンネルでは彼がイエスタデイを歌っていた。安堵したのもつかの間、私は異変に気付く、灯に照らされた彼の顔には、傷と痣ができていた。


「久しぶり」


 彼は私を見つけて、変わらぬ声でそう言った。よく見ると、ギターも変わっている。


「その顔は何があったんですか」


 早口になっていたのが自分でも分かった。息がしにくくて、肩を上下させていた。私は彼を心配していたのだった。誰かに心を掻き乱されるのはこれが初めてだったのだけれど、私はそんな事を気にする余裕もなく、ただ、高波のように押し寄せる感情をぶつける事しかできなかった。


「何、昼に別の場所で弾いていたら、チンピラに因縁を付けられただけだ。この通り、手は守った。ギターは壊されたがね」


 あっけらかんと笑う彼を見て、私の目からは雫が零れ落ちたのだけれど、それも、初めての経験だった。


「おいおい。困るよ」


「私も困ります」


 支離滅裂な返しに、彼は呆れたような顔をしていた。けれども、私にとっては、本当にどうしたらいいのか分からない心境であったのだから、仕方がないし、許して欲しいと思う。


「あんた、妙な奴だな」


「貴方の方が変ですよ」


「そうかい?」


「そうです」


「そうか。そうかもしれないな」


 おかしな会話が続く。どうしたらいいのか。何がしたいのか。私は自分を見失い、あたふたとしているだけだった。けれど、依然として心がざわついているのは確かで、落ち着きがなかった私は、そのざわつきに任せて、一つ質問をしてみたのだった。


「貴方は、どんな風に生きてきたのですか?」


 彼からしたらあまりに唐突な疑問だったと思う。それは私が気になっていた事ではあるけれど、平素の私であれば、間違いなく躊躇し、喉の奥へしまい込むような言葉で、こうして思い返してみると、今更ながら恥をかいたなと、頰が赤らんでいくのが分かる。けれど、彼は笑いもせず、大きく唸った後に、しっかりとした口調で答えてくれたのだった。


「普通さ。普通に産まれて、普通に育って、普通に生きてきた。」


「……私も、普通に生きてきたつもりでした。けど、貴方とまるで違うから、最近、私の人生って、何なのかなって……」


「俺もあんたも、普通だよ」


「普通なら、なぜ貴方のように生きられないのでしょうか。私は、貴方に生きていないと言われて、ずっと悩んでいました。貴方の言うように、退屈で、つまらなくて、それさえ分からなくて、貴方と話して、やっと分かって……! でも、私は貴方のようになれなくて……教えてください。私は、どうしたらいいんですか!」


 大きな声を出したのはそれが初めてだった。情けない話、私は、彼に救済を求めていた。私の人生とは何なのか。答えて欲しいと、助けて欲しいと、ひたすら、会って間もない人間に訴えたのだった。それがどれだけ恥知らずか、どれだけ厚かましいか。分かっていたはずなのなは、私は私を止める事ができなかった。愛想をつかされても仕方のない事をしたと思う。けれど、彼は真面目な顔をして、私に向かって言ったのだ。


「簡単さ。何かやってみなよ。なんでもいい。本当に、ちょっとした事でもいいから、自分が興味を持った事に挑戦すればいいのさ」


 言い終わった彼は笑顔となり、私の肩を軽く叩いて「あんたなら大丈夫さ」と、無責任な台詞を吐いたのだけれど、私は、その一言に、彼の笑顔に、生きる道が指し示されているような気がした。

 風に吹かれ、桜の花弁が舞い込んできた。私は、その花弁が私で、風が彼だと思った。花弁は、どこへでも行きそうな気がした。

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