第3話

 ファミリーレストランという場所には来たことがなかった。親とはあまり外食をせず、したとしてもお酒が飲めるお店ばかりだったし、私自身も食に頓着がないせいか、空腹になったらパンやおにぎりを齧る程度で終わらせていたのでお店を利用するのは稀だった。だから、男に「好きなものを頼んでくれ」と言われても、メニューを見るだけで混乱してしまい、結局コーヒーとほうれん草のソテーという、何ともナンセンスな注文をした。男はそれを見て笑ったのだけれど、「そんなやつもいるか」と、水を一口飲んで、頬杖をついて窓の外の夜を眺めているのだった。明るい場所で見る彼の顔は、どこか厭世的な感じがして、儚げに見えた。


「夜は好きなんだが、ここから見ると、何だか違う世界を眺めているようで、現実味がないな」


 頬杖をつきながら彼はそんな事を言った。


「そうですね。私も、こういったところは初めて来ましたので、なんだか、変な感じがします」


 24時間灯っている光は私にとっては縁のないものであり、自分がその中にいるのは、彼の言葉通りまるで別世界のような、不思議な感覚だった。陽の光以上に眩しく感じられる室内灯は寒々しく、ラミネートで加工されたメニューは冷たくて、給仕の対応は空々しい。それらが私から現実味を奪い、悪夢的な空虚を与える。その瞬間に私の意識はなかった。知らない世界で、空想的な無を見ていた。側から見ればまるで白痴のようだっただろう。


「あんた、冷めた目してるな」


 そんなものだから、男にそう言われた時、私は、自分の態度が大変な失礼なものであったと恥じたのだった。


「すみません……慣れてなくて……」



「そうじゃない。あんた、会った時から退屈そうな顔してるから、生きてて楽しいのかと疑問に思ったんだよ」


 男の言葉には一切の遠慮がなく、普通なら怒ってもいいような暴言だったのだろうけれど、私は殊更気に留めることなく、「よく分かりますね」と返した。事実に対し目くじらを立てる必要もない。よく「本当の事を言われるのが一番癪に障る」というが、それは、欲深で、身の丈に合わぬ欲望を持ち、願い叶わぬ事が許せない、いってみれば、自分を受け入れられない人間に限る話だと私は思う。ないものを羨み、妬む心があるから腹が立つのであって、自分自身を知り、その中で得られるものを模索すれば、自ずと苛むコンプレックスから解放されると私は信じている。人生とは与えられたカードでやりくりするしかないのだ。もっとも、当時の私は得る事自体を諦めていたわけだから、あまり偉そうに言えないのだが。


 そんな私の気のない返事に男は驚いたような顔をした後、軽く歯を見せたのだった。


「怒らないんだな」


「怒らせたかったんですか?」


「そういうわけじゃないんだが……そうだな……ミュージシャンの端くれとして、あんたを生き返らせたいという気持ちはある。感情の起伏は、死んだ人間にはないからな」


「私は生きているんですが……」


「いいや。それはただ死んでいないだけだ。賭けてもいいが、あんたは、今まで人や物を好きになった事もないし、夢や目標もないはずだ」


 断言する男の目線は真っ直ぐ私を見て離さなかった。ここまで力強く、初対面といっても差し支えない人間の半生を断定できるものかと感心してしまう程であった。けれど、彼の言う事はやはり事実であって、私の人生には一片の感情もなく、生きていようが死んでいようが変わらないものだった。私は親の教育に逆らわず、教師の言い付けを守り、上司に与えられた仕事をするだけで、自ら考える事なく、誰かに言われるがまま生きてきた。自分で何かをやりたいとは思えなかったし、できるとも思えなかった。そもそも私は、何かをやる。という事を知らずに生きてきたのだ。恐らく、これまでに誰かが死ねと命令したならば、私は「分かりました」と言って首を括っていただろう。私は生に、命に希薄であった。生きている意味など考えた事もなかった。私は、ずっと、生きるという事を知らずに生きてきたのであった。


 私はじっと男の目を見た。彼もまた、私を見ていた。一つ疑問が浮かんだ。疑問というより単なる好奇心で、果たしてそれは、聞いていい事なのかどうか迷ったのだけれど、私は、胸の奥に芽生えた初めての衝動に抗う事ができず、そっと、控えめに、彼に向かって口を開いたのだった。


「貴方は、生きているんですか? これまで、生きていらっしゃったんですか?」


 不躾な質問だったと思う。けれど、私はどうしても、彼の命は、彼の人生において輝いていたのかと聞かずにはいられなかったのだ。


「……偉そうな事言っておいて悪いが、実はよく分からなんのだ。自分の事は。ただ……」


「ただ……?」


「歌っている間は、幸福だ」


 男の顔は、透き通るように純粋だった。嘘偽りは、きっとないだろう。私は彼が、本当に、心の底から歌が好きなのだと確信し、羨ましく、また、不思議に思った。彼の人生と私の人生との違いは、いったい何であろうかと。同じ人間であるのに、どうしてこうも違うのかと。私は彼の人生を想像し、同時に私の人生を振り返り、間違い探しのようにその相違点を探してみた。育った環境。摂ってきた食事。読んだ本。周りの人々……一つ一つ、考えながら、異なる点を見つけようと頭を捻ってみたけれど、私には、男の人生を思い描く想像力が欠如しており、結局、相違点はおろか、探す対象すら形作る事ができなかった。


「私は、何が幸福なんでしょうか」


 間の抜けた事を聞いた。そんな事、彼が知るはずがないのに。


「そんなものは、人に聞くものじゃないだろうが、一表現者としては、俺の歌を聴いている時と思ってもらいたいね」


 彼の皮肉に私は愛想笑いも出来ず目を伏せていた。それから運ばれてきた料理を……私はソテーとコーヒーを、男はサラダを空け、しばらく無言となっていた。だけど、彼はどうか知らないが、私は気まずさなどは覚えず、というより、そんな事を考える暇なく、ただひたすらに、自分の中での幸福や夢などを考え、あれがそうじゃないか。いや、違う。などと、描いては消しを繰り返していたのだった。その内に私は、すっかりと一人考えてしまい彼の存在を忘れてしまっていた。


「そろそろ、行くかね」


 どれほど時間が経過したか分からなかったけれど、彼の一言で我に帰った私は「すみません」と詫びを入れ、共に深夜のファミリーレストランを後にした。彼が「また」と言って、夜に消えていくのを、私はずっと見ながら、やはりまた、一人考えてしまうのであった。夜は、再び私一人の世界となった。

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