第2話

 翌日。少し寝不足気味な上にお酒も残っていたので体調は良くなかったけれど、それでも何とか職場にやってこれたのは、陽に照らされ煌めく朝露と、花弁を膨らませた馬酔木あせびに魅せられたからで、決して、責任や義務といった煩わしい社会性によって動かされたわけではなかった。

 私は仕事に対し、一切の価値を見出していなかった。お金がなければ生きていけないと人は言うけれど、山に籠り、草木を愛で、虫や動物と共存する事がどうして不可能だと思うのか疑問だった。人は社会に毒され原始を拒絶しているけれど、人が求める快楽は生物の根源へと繋がっているわけであり、食事も睡眠も性交も、全ては即物的な、極めて単純な、野生的な喜びで、文明信仰とは矛盾した性質を持っている。つまるところ、仕事というのは原始的な喜びの為の文明的行為であるのだと私は信じてはばからなかったのだった。けれど、そんな事を誰彼に話したところで 「あらそう」と、呆れだか無関心だか分からない返事しかされないだろうし、そもそも私には話す相手がいなかった。私は今日まで他人と距離を置いていてきた。何かの気まぐれに声を掛けてくる人もいたけれど、それはほんの一時的なもので、例えるなら、旅先の料理屋で同席した程度の関係であった。それだから私置物のように生きていたし、それが楽だったのだけど、それを許してくれない人間が一人いた。その人は、毎朝一番に私に挨拶をしてくるのだった。


「中村さん。おはよう」


「おはようございます。真田さん」


 真田さんは上司だからか何かと気を使ってくれるのだけど、中年特有のお節介がありがた迷惑であり、私は人並み以上にそれを煩わしく感じていた。


「顔色悪いけど大丈夫?」


「はい。ただの寝不足です」


「そう。ならいいけど。あまり無理しちゃ駄目だよ」


「はい。気を付けます」


 彼女との話しは、途中、溜息を吐くのを我慢しなければならなかった。意味のない会話は不愉快で、時間の無駄でしかなく、興味のない音楽を聴いているのと同じであり、嫌悪感すら抱きかねないほどの苦痛だった。

 私はその時、ならば昨日の男との話しには何か意味があったのだろうか。と、いう疑問がチラと頭を過ぎっただけれど、考える暇を与えない真田さんの声に相槌を打つのに精一杯で、私は瞬間的に昨夜の出来事について考える事をやめてしまった。希釈された薄い会話はさらに続いていったが、私はもはや、彼女から逃げる事を諦め、仕事までの朝いっぱいを不愉快と戦う時間としたのだった。


「それと、今度の親睦会だけれど……」


「不参加でお願いします」


「たまには顔を出したらいいんじゃない?」


「いいえ、騒がしいのは、苦手ですから」


 私はそう言い終えると、次に真田さんの口から出てくる言葉が分かった。


「……貴女がそれでいいならいいけど」


 彼女は話しの終わりに、ちっともよくなさそうな顔をして決まってそう言うのだった。始業を知らせるアラームが鳴り、私はPCに向かって、他人の企画書や会報の添削を行う。それは毎日行われる作業であり、退屈な作業だったのだけれど、それまで私は、そんな機械仕掛けのような毎日に、何の疑問も、悩みも抱いていなかった……






 夜道はやはり寂寞に包まれていた。深い闇に、淡い街灯が点在していた。日付が変わる少し前に退社した私は重い身体を引きずるようにして歩いていた。とっくにお酒は抜けていたけれど、どうにもフラとし足元はおぼつかない。歳と共に疲れに対して弱くなっていく。老いているわけではないが、決して若いわけでもない私は、実も花も残せないまま地に落ちようとしていると、ふと考え、どうして急にそんな焦燥が心を撫ぜたのか分からないまま、あの路上ミュージシャンがいた場所に向かっていた。ギターが弦が鳴っていないのは途中から気付いていて、ひょっとしたら彼はいないんじゃないかと不思議にそわりとしながらトンネルの入り口まで来てみると、既に今日の演奏を終えたのか、男はギターを終い始めていたのであった。


「こんばんは。もう、終演ですか?」


 我なら気障ったらしい挨拶をしたなと思った。恥を隠す為の恥をかいた。人とまともに話すのに、道化にならねばいけないのかと思うと、少し惨めな気持ちになる。

 けれど、彼の方は気にもしていない風に「そうだな」と、軽く息を吐き、終いかけたギターを再び肩から掛けた。


「もう一曲やるのも、悪くない」


 男はそう言って、ゆっくりと音色を奏で始めた。曲はブルース・スプリングスティーンのザ・リバー……昨日に引き続き、軽薄というか、俗っぽい歌だったけれど、私が彼の演奏と歌声に聴き入ってしまっていたのは、元より音楽をあまり聴かないせいか、生の歌声に感動したからか、はたまた、親の趣味で流れていた曲だったからか……ともかく、彼の演奏は、妙に耳障りが良く感じられた。


「中々上手いもんだろう」


 曲が終わり缶コーヒーを一口飲んだ彼は、曇りない笑顔を浮かべそう言った。トンネル内の薄い橙色の光が写す、ミュージシャン然とした立ち姿が、CDのジャケットのように思え、また随分絵になるものだと思ったけれど、同時にその絵は、歌う曲と同じく時代錯誤な気がして、なぜだか分からないのだけど、とても切なく、悲壮な印象を受けたのだった。


「あの、千円なら大丈夫ですか?」


 私は堪らず、小銭の有無も確認しないまま千円札を出した。喪失感に似たような感情だったのだけれど、何を喪ったわけでも、また失ったわけでもないのに、なぜそんな気持ちになったのか分からなかった。


「少し多いが……そうだな。もしよければ、食事に付き合ってくれないか? 貰い過ぎた分を奢らせて欲しい。まぁ、ファミレスだがね」


 日付はとうに変わっていたし、仕事もあった。けれど、私は彼に付き合うことにした。道すがら襲われても(私が男の劣情を刺激するかは置いておいて)かまわなかった。別に好き嫌いではなく、どうでもよかったというか、単に、私は彼がどのような行動を取るか興味があったのだと思う。それでも、彼は性欲や恋愛とは無縁だと、そうあって欲しいと願っていたのは認めざるを得ない。私は、まともに話した事もない彼に対して信頼を寄せていたのをここに告白する。それはまるで、生娘のように愚かで単純な発想だったけれど、私は彼の誠実さを知ったような気になっていた。


 夜は深かった。私は「是非とも」と頭を下げ、彼についていった。乾いたアスファルトを踏む二人分の足音は、私が知らない音色を奏でていた。

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