明けるまで

白川津 中々

第1話

 日が昇り沈む。

 繰り返される日常に飽きる事なく私は生きていた。息を吐き、食事を摂り、働き、眠る。時たま飲むお酒は虚無の味がした。酔って楽しいわけではないのだけれど、他にすることもなく、酔うためだけに飲み、眠る。


 私は週末。いつものバーで、いつも頼むお酒を飲んでいた。ゴールドオブモーリシャスという名前なのだが、ただ甘くて強いというだけで、そのお酒がなんという種類でどれほどの価値があるのかも知らなかったし、今も知らないでいる。店を知って以来、最初に目に付いたボトルをずっと飲んでいて、その日もよく分からずに飲み、よく分からずに酔い、そして酔うのにも飽きたらお会計を済ませて、私は帰路を歩いた。夜風が心地よく、木々のざわめきが耳を撫で、月明かりが街を照らしていた。車も通らぬ閑散とした細い道。私一人だけの足音。誰もいない夜の街はどこか神秘的で、私以外の人間が存在していないように錯覚する。それは寂しくもあり、安堵でもあった。私は意味もなく生きていて、それに対し疑問も不満も抱いていなかったのだけれど、得体の知れない何かから逃げたい衝動に駆られる事が多々あって、私は、ひたすらに、益体もなく、夜の闇に、自分の世界を投影しては、孤独の幻想に胸を震わせていたのだった。夜は、私の場所だった。私だけの場所、のはずだった。

 突然、私の場所に、私以外の異物が紛れ込んできた。ギターの音色に、男の声。私以外の人間の歌。曲は、デイドリームビリーバー……夜長に聴く歌ではなかった。酔狂だなと思う反面、何か、導かれるように私はその音に連れられて、いつもとは違う道を辿っていった。まるで笛吹き男について行く子供のように……






 寂れた街。でこぼこのアスファルトが、深く、浅く黒を彩る。道は続いていく。街灯や標識が並んでいるのを見ながら私は歩き、音の元にまで来るとそこはトンネルの入り口だった。一人の男が、ギターを弾きながら歌っていた。

 デイドリームビリーバーは最後のサビに入っていた。唸るように声は、オリジナルとは幾らか趣が違って軽薄な歌詞の一節一節が重く感じられ、そんな気もないのに聴き入ってしまっていた。私はしばし耳を傾け、曲の終わりまで付き合う事にした。男は気付いた素振りも見せず、一人……歌う……




 曲が終わると男は一息ついて置いてあった缶コーヒーを飲んだ。その姿は、今でも忘れないのだけれど、誰も聴いていないのに、まるで万雷の拍手を浴びているかのような満足気な表情を浮かべ余韻に浸っているのだった。私は、初めて会った彼が、名も知らぬ男が、私と同じように、夜の孤独を生きているように思えた。そしてそれは、ほんの気まぐれか、はたまた、酔って狂っていたのか分からなかったけれど、私は使い古したバッグから、同じく使い古した財布を取り出して男の元へと歩を進めた。視線を感じたけれど私はわざと無視をして、一万円を出して、男の前に開いて置いてあるギターケースに入れたのだった。


「歌、上手いですね」


 それだけ言って私は立ち去ろうとした。今思えば、悪趣味な真似をしたと恥じているが、その時の私は、まともな感性を失い、一時的な気まぐれに流され正常な判断ができなかったと言い訳をしておく。愚劣な優越感に愉悦に覚えるほど、私は俗悪ではないのだが、とにかく、私はお金をギターケースに放り投げ、自己陶酔のままに勝手な満足を抱いてその場を後にしようと背を向けたのだった。しかし。


「待ちなよ」


 私は幾らか歩いたところで男に呼び止められた。正直に言えば、礼を述べられるのではないかと思った。私は半ば迷惑そうに「はぁ」と、溜息のような声を出し、ありがた迷惑な謝礼を受け取る準備をした。けれど、男が私に向けた言葉は感謝ではなく、侮蔑に近いものであった。


「俺の歌にこれだけの価値はない。持って帰ってくれ」


 振り返って男の顔を見ると、私はその、軽蔑しきったような眼にたじろいでしまって、ようやく、彼を侮辱していたのだと理解し、再び彼の前まで戻ったのだけれども、頭を下げるのも何か違う気がして、黙って差し出された一万円を受け取り、バツの悪さに目を伏せていた。財布に入れ直した一枚のお札が、随分重く感じられた。最初は風に吹かれたように出て行ったのに、いざそれが手元に戻ってくると鉛のように重い。お金に執着があるわけではないけれど、私は男を侮蔑した以上に、浪費に対して罪悪感を覚えた。先まで飲んでいたバーの支払いが、後悔という重圧となって胸を抑え付け、ようやく私も冷静さを取り戻し、目の前にいるギターを掛けた男に謝罪しなければと思い至ったのだった。


「すみません。少し、お酒に酔ってしまっていました」


「かまわないさ。誰にだって、そんな日はある」


 男の微笑に私は救われた。彼の屈託のない瞳によって、私はその夜の咎が全て許されたような気がしたのだった。見ず知らずの、それも男の人に私は、救済される喜びを得た。平素ならば考えられぬ感情の起伏に戸惑いながらも、私は詩人めいた心象を見出し、自分の頰が赤く染まっていくのが分かってしまったものだから、頭の中で、「これはお酒のせいだ」と、誰にするでもない弁名をつらつらと述べていたのであったが、それを口にするわけにもいかず、とにかく、この場を取り繕う必要があると感じ、彼と話をしようと思ったのだった。


「それでも、上手いと思ったのは本当です」


「そうかい。ならよかった。コーヒー一杯くらいなら、奢られてもいいぜ」


 軽薄な台詞に粗野な言葉使いは聞き慣れないものだったけれど、男の性分なのか、蝉や鈴虫の鳴き声のように自然な聞こえ嫌な気はしなかった。


「あいにく、小銭がないんです」


「なら、また聴きに来てくれよ」


「そうですね。気が向いたら」


「なんだ。案外喰えないじゃないか」


 小気味よく続く会話を自分がしているのに驚いたと同時に、何かいけない事をしているような、不良になったような気になって、私は彼から目を背けた。人とここまで話すのは久しぶりだったし、男の人と、手と手が触れそうな距離まで近づいた事はなかったのだから、背徳的な感情を抱くのも無理はないだろう。


「さて。そろそろ帰りなよ。静かな街だが、女が一人で歩くには夜が深すぎる」


 男は私の心を察したのか、そう言って帰宅を促した。


「そうですね。また、いずれ……」


 私が別れを告げると、男はギターを一度流し返事の代わりとした。それを背にした私はとっくに酔いは醒めていたのだけれど、何かに浮かれ、何かに絆され、何かに、惹かれていたのだが、その何かに気付くのは、まだ先の事である。

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