十五話 先生、進捗どうですか?
「先生、進捗どうですか?」
ついに来た、来てしまった。
できれば組長のおっさんとは、まだ会いたくなかった。
進度で言えば、今が一番進んでない状態だ。
なんといっても、これまで書いた作品を全部破棄して、一から作り直し始めたところなのだ。
ようやく脱出口が見えた状態だから、ボクの中では一歩前進したと言えば、そうだ。
それはゼロではない。すでに何歩か目に見えない所で進んでいるのだ。
だが、現物が出来ているかと言えば、白紙状態だ。
それをおっさんに言って、はたして通用するだろうか?
……通用しないだろう。
口でなんと言っても、現物がなければ信用されない。
頭の中にはもういくつか出来ていると言って、誰が信じてくれるだろうか?
となると、では製作途中のファイルを見せるのか?
いや、それもプロとしてできればやりたくない。
一体どういう答えが一番望ましいか。
そんなことを、この一瞬で考えていた。
「けっこう難産でしたが、ようやく問題点が見つかりました」
「そうですか。先生が最高傑作に挑戦されているそうですから、最初からスムーズに行かないのもおかしいことではないですな」
「そうですね。ただ、それを自分の口から言うのはなにか違うと思うので、言いません。逃げ口上になってしまいそうです」
「ほうほう、なるほど責任感がある。それでこそ川辺先生です!」
嬉しそうにおっさんは笑っているけれど、こっちはずっとギリギリの状況だった。
胃の辺りが重くキリキリと痛みだし、手先が冷たくなっている。
正直、今すぐ逃げ出したいけど、許してくれるだろうか?
いや、ダメだな。
それこそ最悪、部屋を施錠され、監禁される恐れもある。
今のところしっかりと創作と向き合っているから、自由に外出できる状況だ。
この状況を壊したくない。
なによりも、ボクがこの愛嬌のあるおっさんの信頼を裏切りたくなかった。
「途中経過を見せていただくことは可能ですか?」
「え、いやあ。それは……」
ダメダメダメ!
真っ白ですから! そんなの見せられるわけがない!
なんとかして断らなくっちゃ。
どうしたら違和感なく、説得力に満ちて、かつおっさんの機嫌を損ねずに断れるだろうか。
頭の中が猛烈な速度で回転する。
多分、人生でも一二を争うほどの思考の冴えわたりだったと思う。
「少しでも早く読みたい、という田口さんの気持ちは分かります。でも、ボクのプロ意識として、そんな未完成なものはお見せできません。それに、プロットであったり、飛び飛びの作品を読まれてしまうと、全体の構想がバレてしまうことにも繋がりかねません。どうか素晴らしい作品になると思うので、完成品までお待ちください」
はたして――。
はたして、田口のおっさんはこの言葉を信じてくれるだろうか。
頼む。どうか引いてくれ。
何が何でも読んでみたい、などと突っぱねないでくれ。
そんなことをされたら、ボクはもう逃げるしかなくなる。
ボクの祈りは通じたのだろうか。
田口の組長はにこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「おおっ、それは失礼しました。たしかに無茶な提案だったようですな。先生がそう仰るなら、この田口吾郎、いつまでもお待ちしますぞ!」
「ご理解いただけて助かります」
おっさんは、一応はボクの言葉を信じてくれたようだった。
がっはっは、と豪快に笑いながらも、その目は冷静にボクの反応の確かめている。
一体どこまで分かっているのだろうか。
あるいは、ボクの苦悩の全ても分かっているかも知れない。
このおっさんは間違いなく、ボクの熱烈なファンだが、油断ならない人物だ。
これまでのやりとりでそれは嫌というほど分かっている。
あんなのぞき穴を作っているような人間だ。
ボクの部屋に盗聴器や監視カメラがあってもおかしくはないのだ。
あらためてボクは、締め切りの存在を再確認した。
なんとしても、なんとしても締め切りを守って、かつ最高の作品を出さなくてはならない。
なあに、問題解決の突破口は見えたんだ。
あとは徹底的に考え抜いて、最高のプロットをもう一度石川さんに提出するだけだ。
まずは一歩進んだのだ。
もう一歩、さらに一歩。なんとかゴールまで、確実に進んでいけばいい。
「ああ、ところで田口さん、ちょっと相談があるんですけど」
「なんでしょうか。この田口、先生の相談でしたら何でもノリますぞ」
「いえ、大したことじゃないんですけどね。っていうか、創作と関係ないかもしれませんし」
「全然構いませんとも。これでも人より人生経験は豊富ですから、大抵の悩みにはお答えできますよ。税金の誤魔化し方ですかな?」
「違いますよ! ちゃんと支払ってます!」
「では死体の見つからない処理とか?」
「誰も殺してません!」
「まさか惚れた女性を旦那と別れさせて無理やり手籠めにする方法とか。いやあ先生も奥手なように見えてやりますなあ」
「ち、が、い、ま、す」
「冗談ですよ」
「ええ、分かってました。分かってましたが……反応に疲れます」
「まあ、そんな相談内容に比べたら、大抵の悩みは大したことはないでしょう? さあ、話してみてください」
さんざんボクをからかった後、このおっさんは急に真面目な顔になってくるから困る。
大声を出してはぁはぁと息を切らしていたボクだったが、呼吸を整えると、勢いを込めて悩みを打ち明けた。
「正直なことを話すと、ボク、あまり女性の扱いが得意じゃないんですよ」
「ほう、そうでしたか。その割には……」
「何かありましたか?」
「いえ、何でもありません。こちらの話です。それで? 続きをどうぞ」
一体何を口ごもったのだろうか。
おっさんの反応はどうにも気になったが、続きを促されているうちに、ボクはその疑問を忘れてしまった。
「それで編集の石川さんにまで、女性心理について分かってないと指摘されてしまいましてね」
「ほうほう。私が先生の作品を見る限り、そこまでひどくないと言うか、
「それじゃダメみたいです」
「ふむ、もう一段上の表現を求めているということでしょうか。まあ、優れた作品は人物もよく練り込まれているものですから、そういう事もあるかもしれませんな」
そうなんだろうか?
そうかもしれない。
ボクとしては、組長のおっさんの目を疑うつもりはなかった。
このおっさんは間違いなく頭が切れるし、本もよく読むほうだろう。
ボクの作品を擦り切れるぐらい繰り返し読んでくれているから、ボクの作品に対して浅読みしているという心配もない。
となると、やっぱり問題は、ボクの技量がただただ低いというだけではなく、石川さんの要求水準がより高いのだ。
そして、それはボクならばできるはずだ、という信頼の裏返しでもある。
そうなると、ボクとしても、一人のプロとして応えないわけにはいかないのだ。
プライドの問題がある。
「それで、ボクとしては女性経験を増やすためにはどうしたら良いのかをお聞きしたくて」
「ほうほう、ちなみに編集さんはどのように?」
「いえ、それがボクが夜のお店でも行ったらいいのか、と聞くと大変機嫌を損ねてしまいましてね」
「ふわっはっはっは! 先生、それはどう考えても悪手ですぞ!」
そういうと、おっさんは爆笑した。
それはもう、びっくりするぐらいの笑い方だった。
あんまり失礼な態度ではないかと腹が立ったが、ボクは微妙な立場だ。
教えを請いたいし、同時にパトロンでもある。
結局強くは言えず、笑いが収まるのを不快に思いながら待つしかなかった。
おっさんはまだ笑いが止まらず苦しそうにしていたが、それでも息も絶え絶えに笑ったことを謝罪した。
「失礼……くふふ……ぐふっ……! いや、先生もまだまだお若いですな」
「ボクが未熟なのは知っています」
「いや、分かっておりません。そもそも、なぜ編集さんが怒ったか、ちゃんと分かっていますか?」
「いえ……実は分かってません」
「そうでしょうとも」
どうやらこのおっさんにはお見通しらしい。すごい。ボクには全然わからない。
一体何が石川さんの逆鱗に触れてしまったんだろうか。
よろしい、とおっさんはうなずいた。
そして、ボクに遊びに行くように指示した。
やっぱりボクの考えが正しいんじゃ……?
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