十三話 ボクが小説家になったわけ
お互いの目線が絡まり合ったまま、微動だにしない。
時が止まったようだった。
ボクは思わず呼吸すら忘れサクラちゃんを見続け、そして遅まきながら、今の状況を理解した。
「サ、サクラちゃん、誤解だ!」
「……気軽に名前呼ばないでくださいます、フケツ先生」
「違う、何もしてないんだよ」
「アタシは別に彼女じゃないし、そんなに必死になって弁解しなくて良いんですよ? 先生ってモテるんですね」
うう、突き刺さる軽蔑の視線が痛い。
サクラちゃんの目は雄弁に語っている。
どうして自分のアパートじゃなくて、この部屋に女を連れ込んでるんですかって。
「いやいや、こちらボクの担当編集さん。疲れて寝てるだけだから」
「へえ、疲れるようなことをしてたんですね」
「ち、違うよ。本当、信じて」
「下の筆使いはご立派ですね」
「ど、どこでそんな言葉を……」
しっかりと説明すればきっと理解してもらえるはずなんだけど、こういうときは本当に舌が回らなくなるから困る。
頭が真っ白になって、まともな言葉が出てくれないのだ。
あたふたと手足をばたつかせながらも、必要な言葉は出てこない。
また、隣に疲れて寝ている石川さんのことを考えると、大きな声を張り上げるわけにも行かなかった。
八重さんといい、美女が眉を吊り上げると、一気に怖くなる。
やがてボクの必死の説明がどれだけ伝わったのか、サクラちゃんの目つきがふっと緩んだ。
「じゃあ信じて良いんですね? センセはアタシに嘘なんてついてないんですね?」
「うんうん、嘘じゃないよ」
「今度デートに連れて行ってくれて、ケーキ奢ってくれるんですね」
「うんうん、嘘じゃな……えっ」
「えっ、やっぱり嘘だったんですか?」
「嘘じゃないけどそんな約束いつしたっけ?」
「ついさっきしたじゃないですか。信じてもらえるためなら何だってするよって。やっぱり先生さっきまでエッチなこと」
「分かりました、連れて行きます!」
わーい、と喜んで笑うサクラちゃんの姿を見ていると、もしかしてボクはハメられたんだろうかという疑問が湧いてくる。
だが、とにかく危地を脱し、信じてもらえたという思いが強く、疑いも長続きしなかった。
もしそこまで考えての発言だとしたら、恐ろしいことだ。
ちくしょう、いつかハメてやる。
あながち否定できる材料もないんだよなあ。
なんと言っても父親があの組長のおっさんである。
この説得力。
血筋的に考えてみれば、充分にあり得るのだ。
っていうか、手を出したらそれこそボクの方が窮地に陥ってしまうな。
張りつめた緊張から解放されてへなへなと力の抜けたボクの隣に、サクラちゃんが座った。
猫のような輝きをした瞳が、ボクを上目に見上げていた。
「じゃあ、約束通りお仕事教えてくれる?」
「ああ……分かったよ」
その目は獲物を狙う狩人のものにも。
あるいは好奇心に輝くようにも。
また
ボクは嘆息した。
誰がこの状態の彼女の要求を断れるだろうか。
頷くしかなかった。
それからは言葉も少なく、仕事を再開することにした。
とはいえ、この狭い一室に美女と美少女がボクの周りでくつろいでいる状況というのは、精神的にあまりよろしくない。
リラックスしたり、あるいは集中して仕事に、というにはボクはまだ若すぎた。
どこからともなく漂ってくる甘い良い匂いに、なんだか胸が沸き立つ。
ふわふわと浮いた心を静めるようにパソコンの画面を注視するが、隣に座ってピタリと身を寄せてくるサクラちゃんの体温が二の腕に伝わると、とたんにやる気が霧散した。
むりむり、こんな状況で書けるわけがない!
そういうのは仙人か枯れた爺さんぐらいなものだ。
頭の中にあった納期という言葉を放り投げて、サクラちゃんと会話を試みることにした。
「熱心に見てるけど、サクラちゃんは小説家になりたいの?」
「別にそう言う訳じゃないけど、いろいろな仕事は知りたいかな」
「どうして?」
「大人になったときに、これがやりたいっていう仕事を見つけるため」
「……偉いんだね」
ボクが学生だったときは、そんな先のことを真剣に見据えてなかった。
毎日学校になんとなく通い、なんとなく勉強して、遊んで。
本気になって何かを追い求めたことなんてなかったし、将来を見据える目標もなかった。
ほんとうに、無駄な時間を過ごしたものだ。
小説家になって、あのときもっと国語を、社会を、あるいはもっと様々な授業を真剣に聞いていれば良かったと、何度も後悔した。
いや、授業だけじゃない。
放課後の友人との過ごし方、クラブ活動、どれも取り返しのつかない貴重な時間だった。
そんなボクと比べると、サクラちゃんは本当に偉い。
感心して言うと、サクラちゃんはゆっくりと首を横に振った。
小さな可愛らしい唇が、否定の言葉を紡いだ。
「パパが、できたら家は継がなくて良いっていうから」
「へえ、そうなんだ。じゃあお家断絶? それとも誰かが後を継ぐのかな?」
「うん、後を継ぐのは、今のままだと竜さんになるんじゃないかな。実際に今も半分ぐらい仕事任されてるみたいだし」
「あの人は適任っぽい。いつもそばにいるし」
やっぱり優秀な人なんだなあ。
でも、家業を継いでもらわないと言うのは意外だった。
あるいは、婿でも入れるのかと思っていたのだけれど。
「うちの稼業って、どうしても人様の目が厳しいから、後を継がせたくないんだって。だからって、何かしたいことがあるわけじゃないし。それに仕事を探すにも、パパはバイトとかは許してくれないんだよ、ひどくない?」
「大切にされてるんだよきっと」
「そうなのかな?」
不安そうに瞳が揺れている。
親の愛情を完全には信じきれない年頃なのだろう。
自分はとっくに卒業してしまった悩みだった。
「そうだよきっと。知り合いのお店だと問題があるかもしれないし、かといってぜんぜん知らないところに預けるのも不安なんだと思う。騙されたりするかもしれないしね」
「ママもそう言ってた……」
「そんなものさ。だれも好きで君の人生を縛りたい訳じゃない」
「センセは、なんで小説家になろうと思ったの?」
「え、ボク? ボクは成り行きかな……」
そう言うとサクラちゃんは驚いた顔をした。
だけど、すべてをなげうって、何が何でも小説家になろうってデビューした人はどれだけいるんだろうか?
大半の小説家はなりたいけどなれるか分からない。
なれたらいいな、がスタートだと思うんだけど。
最初はただ本を読むのが好きだった。
学校の行き帰り、電車に揺られながら毎日本を読んだ。
やがて、いつしか自分でも書いてみたくなった。
ただ、書くこと自体が好きだった。
できればプロで生きていきたい。
小説家として食っていきたい。
そう思って、賞に応募した。
出版ができるかどうかは分からない。
いや、むしろずっと、心のどこかでムリだと思っていた。
だから、それが本当に受かるとも思ってなかったのだ。
「へえー、それまでは何してたの?」
「大学出て、就職して。給料は少なかったけど、勤務時間が少なくってね。それで家で毎日書いてたんだ」
「すごいねえ」
感心したようにサクラちゃんは言うけれど、全然すごくない。
仕事に身が入らなくて、趣味にばっかり力を注いでいたダメ社員だった。
今なら給料をもらっておいてヒドい話だと思うけれど当時はそう思わなかったなあ。
「すごくないよ、運が良かったんだ。それにボクは受賞作家じゃないしね」
「え、受賞しなくてもいいの?」
「うん。作家は賞を貰えなくても、編集さんがこの作品良いなって思って貰えたら、出せることがあるんだ。それが今寝てる石川さんってわけ」
「じゃあ恩人みたいな?」
「そうだね。そうじゃなかったら、未だに会社員として働いていたかも。だからすごく感謝してるのは確かかな」
ある意味では運命を変えてくれた人だ。
その後もずいぶんとサポートしてくれて、本当に感謝している。
ありがとうと、声を直接伝えるのは気恥ずかしい。
だから、思いを込めて石川さんを見つめていた。
……あれ?
ふと、違和感に襲われた。
一定の呼吸を続けている石川さんの耳が赤くなっているのだ。
目をつむって、寝ているはずだというのに、耳だけが赤い。
これはもしかして、目が覚めているのかな?
「狸寝入りの盗み聞きですか。趣味が悪いですよ」
「ち、ちがっ! たまたま目が覚めたら自分の話をしてるし、起き出せなかっただけですよ!」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
慌てているから、たぶん本当だとは思う。
だけど、本心をこうして知られるのは、正直ちょっと気恥ずかしい。
また、石川さんと組長の会話を盗みぎぎしたボクがいえることではないか。
それに、もう少し虐めても良かったんだけど、そうすると今度はサクラちゃんから嫌われてしまうおそれがある。
ボクはそろそろ話を締めようと、サクラちゃんに見向いた。
「ま、ボクが小説家になったのはそう言うわけだ。理解してもらえたかな?」
「ええ、センセが社会人になってもずっと続けていたぐらいには、自分のやりたいことがハッキリしてたってことは分かったかな」
「そうだね。それは確かかも。サクラちゃんも、自分が続けたいと思ってる趣味とかあったら、それを将来の仕事にしても良いかもね」
「ありがと、ちょっと考えてみるね」
「うん、将来のことだからね、どれだけ考えても考えすぎるってこと内と思うよ。ガンバって」
応援すると、サクラちゃんは嬉しそうにして、部屋を出た。
自分のしたいことが見つかると良いなと思う。
世の中には自分のやりたいことも分からず、ぼんやりと毎日を生きている人が一杯いる。
サクラちゃんは、どうだろうか。
ボクはそこで考えるのを止めた。
彼女の心配よりは、今は自分の作品の心配が先だ。
「さて、それじゃあ後は先生と私でお仕事の相談をしましょうか」
「はい、お願いします」
早くも仕事モードに切り替わった石川さんと、相談することにした。
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