十二話 石川さんの励まし

 あれから一月が経った。

 まだ一月とも言えるし、もう一月とも言える。


 さて、肝心の進捗状況というと……ダメだあ。


「ああ。もうボクはダメダメだ! どどどど、どうしよう!?」


 誰にも聞く相手もいない自室。

 ボクは床でゴロゴロと転がっていた。

 じりじりとした焦燥感が尾骨から後頭骨までを駆け上っていた。

 内に迸る衝動を少しでも発散するには、こうするしかなかったのだ。


 打開策はない。

 できれば誰かと相談したいが、かといって田口家の人間と相談するのはリスクが高すぎる。

 どこからおっさんの耳に届いて、心配させてしまうか分かったものではなかった。


 生活を見てもらっている上に、あれだけ取材に協力してもらっているのだ。

 今さら逆効果でしたとは口が裂けても言えない状況だった。

 いや、心配だけならまだ挽回できる。

 だが、投資に値するリターンがないと知って、怒り出したら?

 そんな恐ろしい未来を想定すると、軽々しく相談もできなかった。


 あああああ、ヤバい。八方塞がりだよお。

 こうなったら石川さんに相談したいけど、あの人本当に忙しいんだよなあ。


「先生、大丈夫ですかー、書いてますかー?」

「石川さん!? どうしてここに?」

「どうしてもなにも、オレは編集ですから。サボってないか先生の様子を伺いにきたら問題あります?」

「いえ……ちょっと片付けるんで、待ってください」

「やっぱりサボってましたね。いけませんよお」

「そういうわけじゃないんですけど……」


 扉の前に立っていたのは編集の石川さんだった。

 今日もビシっとスーツ姿で決まっている。

 いつもはパンツスーツなのに、今日は珍しくスカートだった。


 ボクが寝転がって見上げる形になったからか、胸がドン、と突き出ていて思わず凝視してしまった。

 おまけにスカートの奥が覗けてしまい、深くが真の闇になっていた。

 とても失礼だから、すぐに目線をそらして起き上がったけど……気づかれてないよね?

 思わずドキドキしてしまったから、顔が赤くなっていないか心配だ。




 机に広げていたノートや資料を片付けて、来客用のイスを出す。

 石川さんは興味深そうに部屋を見ていた。

 前も一度作業場所として自宅に招いたことがあるけれど、この監禁部屋はその時よりも遥かに生活感の乏しい部屋だ。

 見られて恥ずかしいという感覚はなかった。


「思っていたよりも良さそうな環境ですね。安心しました」

「その節はお世話になりました。それと、ご心配をおかけしました」

「いえいえ、先生に会いに行くって口実にして、編集部も抜け出せますしね。会議のための会議なんて面倒だったから丁度よかったですよ」


 部屋に備えられていたコーヒーを淹れることにした。

 大阪は千日前にある、コーヒーの有名店『丸福』のコーヒーだ。最近では紙パックなどでスーパーで取り扱っていることも多いから、知っている人も多いかもしれない。

 これは通販で手に入るお店の豆をドリップしたものだから、もっと美味しい。

 さらにボクの間食用に用意されていた『六華亭』のお菓子マルセイユバターを手渡すと、石川さんが目を輝かせた。


「ああ、良いですねえ! 私このレーズンバターサンド好きなんですよ」

「石川さんの好みはちゃんと知ってますよ。だからこれお出ししたんですから」

「良いお婿さんになれそうですねえ」

「はは……こんな売れない作家じゃあ貰い手もありませんよ」


 ハムハムと齧る姿は、いつもの凛々しい女傑といった姿ではなく、一人の女の子のようだった。

 サクサク、という小気味のいい音とともに、バターサンドが口の中に収まっていく。


「うーん、確かにこの歓待は、うちの編集部じゃ絶対実現しませんね」

「ヒットしてもダメですか?」

「そうですね、まずは一〇〇万部売れるようになってください」

「ヒドすぎる……」

「それぐらい余裕ないんですよ、今の出版社って」


 出版全盛期の大御所作家の販売部数じゃないか。

 つまり、今の編集部ではどう足掻いてもムリだということだろう。


 近年では雑誌の販売数は落ち込み、総発行部数は伸びているが、一シリーズの販売部数は減り続けている。

 新作につぐ新作を出し、コンテンツの大量消費によってようやく息継ぎしてる状態だ。

 おまけに著作権を無視した無料マンガサイトの問題など、出版業界が抱える問題は大きい。

 それを考えると、今の環境は天国に等しかった。


「はぁ、これはもうここから抜け出せないかも……」

「そんなこと言わずに。先生なら100万部だっていつか達成できるって信じてますよ」

「ありがとうございます。あ、コーヒーどうぞ」

……………………ほんきなんだけどな

「どうかしました?」

「いえ。いい匂いですねえ、いただきます」


 丸福のコーヒーはとても苦みの強い、色の濃いローストをたっぷりとかけた豆だ。

 ミルはやや細かく砕いて、味をしっかりと出す

 コーヒーカップからはコーヒー独特の高貴な香りが馥郁ふくいくと漂っている。

 このコーヒーでケーキや洋菓子を食べると、苦みと甘みが丁度口の中で融合してとても美味しいのだ。


 石川さんは無言でコーヒーを飲み、バターサンドを齧る。

 またコーヒーを飲み、バターサンドを齧る。

 黙々とそれだけを繰り返し……やがてポツリと呟いた。


「あへぇ、幸せぇ……」

「い、石川さん?」


 ちょ、ちょっと!?

 トリップしてるんですけど!

 目がぐるぐる回ってる!


 慌てるボクを前に、ふっと石川さんの目が輝きを取り戻した。

 ピントの合った瞳がボクを眺め、口元が苦笑いに歪む。


「おっと、知らない内に夢中になってしまいました。さすがに四十八時間連続勤務後の休憩は、気が弛むとキツいものがありますね」

「そんなに働いてるんですか!? 早く休んでくださいよ!」

「あ、じゃあお言葉に甘えて少しだけ寝させてもらいます」

「あ、ちょ。石川さんそれボクのベッド……ああ、寝ちゃった」


 ふらふらとした足取りでベッドに向かうと、石川さんは体を投げ出した。

 止める暇もなかった。


 スプリングがきしみ、その体を優しく受け止めたかと思うと、もう石川さんはぐっすりと眠りに入っていた。

 大きな胸が呼吸に合わせて静かに上下している。

 タイトスカートから覗くパンストに包まれた太股がむっちりと、エロティックだった。


「石川さーん、こんなところで寝ると襲われても文句言えませんよー」

「ぐーぐー」

「おっぱい揉んでいいですかー」

「ぐーぐー」

「まいったなあ。……こんなところを誰かに見られたらどうなるか」

「せんせい…………がんばれ……」

「……もう、その相談をしようと思ったのに。起きてからちゃんと働いてもらいますからね」


 これ以上なまめかしい姿を見ていたら、いつ欲望が爆発してしまうか分かったものではない。

 ボクは決して枯れた年寄りでも、仙人でもないのだ。

 石川さんはボクに対して無防備すぎるのではないだろうか。


 掛け布団を石川さんの肩までかけて、視界を遮った。

 おだやかな寝顔はとても可愛らしかった。

 ボクはしばらく隣に座って、その寝顔を眺めていた。


「センセ、約束通り遊びに来たよー」


 サクラちゃんが部屋に入ってきた、その瞬間まで。

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