十一話 スランプ
最初は上手く行っていたんだ。
そう、最初は――。
充分に練り上げたプロットは、編集の石川さんにも好評で、完成が楽しみですねとのお墨付きをもらえた。
編集としての嗅覚に優れる石川さんの太鼓判に、ボクも安心することができた。
午前中のプロットを組み立てる時間を執筆時間へと換え、原稿と向き合う。
執筆ソフトを立ち上げて、パソコンに向かうこと数時間。
最初のうちは、すらすらと文章が出てきた。
だけど……。
ある一点から、ピタリと手が止まってしまったのだ。
書きたいという思いはある。
ネタもあり、自信もあった。
だけど、手は全く動いてくれない。
頭の中のキャラクターたちが動いてくれないのだ。
小説を書く作家には、主に二つのタイプに分かれるらしい。
理論派で、プロットの通りに書くことで問題なく進められるタイプ。
感覚派で、プロットを作っても、最終的には頭の中のキャラクターたちが動き、それを記述していくタイプ。
ある作家は、脳内に映画が流れ、その動きを文章にするだけだと言った。
ボクは明らかにそのタイプだった。
資料集などに緻密な設定を書いていなくても、実際にはキャラの一人ひとりに言語化していないイメージ像があった。
だから、頭でイメージした姿は、そのキャラクターらしい動きを見せてくれる。
こうして書けなくなった原因は、なんとなく予想がついた。
丹念な取材が裏目に出たのだ。
組長や若頭の姿を見ていると、これまで抱いていたヤクザに対するイメージがどんどんと変わっていく。
キャラクターたちの姿に確固としたイメージがとらえられなくなってしまった。
それはけっして悪いことではない。
これまで知らなかった一面を知ることで、よりキャラクターに深みや多面性を持たせることができるからだ。
だが、今だけはまずい。
キャラクターの脱構築から、再構築に至るには、ボク自身が自分の持つキャラを再度深く理解し、自分のものにする必要がある。
それにはどうしても、結構な時間がかかるのだ。
そしてその時間は、作業時間を多くすれば解決するという問題ではない。
考えて考えて、考え抜いて出てくるものでもない。
その問題に毎日取り組んでいると、ある日ふっ、と答えが分かるのだ。
お風呂に入ったアルキメデスが「エウレーカ!」と叫んだように。
ボクにいつもと同じぐらいの期間が残されていたなら、問題はなかっただろう。
ボクは充分にキャラクターが動き出せば、執筆速度はけっこう速い方だ。
毎日一万字でも書くことはできる。
文庫本一冊は出版社やレーベルによっても違うが、少なければ八万字強、多くとも一三万字ほどだ。
だから遅くとも二週間で書き終えることができる。
だが今回――ボクは三ヶ月といういつもよりも一ヶ月も短い期限を宣言していた。
書きたい。
でも書けない。
思いと反して、手がどうしても動いてくれない。
作家には避けられない苦しみがいくつかあるが、もっともツラい苦しみの一つだと思う。
一読者だったときは、この苦しみが分からなかった。
富樫仕事しろ! とか、田中はいつになったら完結するんだ! とか言ったものだ。
今は……とても言えない。
ボクはパソコンの前で座って、呆然としていた。
テキストエディタの画面がずっと変わらずに映り続けている。
途中まで無理に書いた文章を消して、ボクはジッとしていた。
そうすることしかできなかった。
コーヒーを飲み、お茶を飲み、お菓子を口にする。
頭の中でもう一度キャラクターたちを考えてみる。
その心理を、先の未来を、じっと、じっと……。
だけど、ダメだった。
分からない。
何も浮かんではこないのだ。
あるいは浮かんだネタはすぐさま自分自身の手によって否定されてしまう。
こんなものじゃダメだ。
これはボクが書きたいものじゃない。
息苦しい時間だった。
まるで溺れているかのような焦燥感が胸の内にわき上がり、占めていく。
この苦しさを正面から向き合いたくなくて、ボクはTwitterを開こうとして……ネット回線が繋がっていないことに気づいた。
アプリゲームもできない。
この部屋には、逃避することさえ許されていない。
堪えられなくなって、ボクは気晴らしに風呂に入ることにした。
田口家の近くには銭湯がある。
昔から個人で経営されてる銭湯で、名を
最近では自宅にシャワーがあったため長らく利用していなかったが、懐かしさを感じた。
古い銭湯に行ったことのない人には分からないのが、下駄箱の違いだろうか。
鍵が独特なのだ。
下の一辺の一部が切り抜かれた「木の板」が、下駄箱の鍵になっている。
なんとも安っぽい作りだが、これ一つで意外と盗難は防げる。
昔は履き物の盗難もあったらしい。
スーパー銭湯などと違い、多くの場合店の入り口から男湯と女湯が分かれている。
扉を開けてすぐ、中央にはスタッフの人が座る
少し高くなっているその席から、脱衣所と風呂場全体が眺められるようになっているのも、古い銭湯の共通規格だ。
子供のころは、この番頭の席に座りたい、と思ったものだった。
ちなみにこの番頭の仕事、実際には座っていると結構暇らしく、テレビが備え付けられていることが多い。
ボクが番頭だったらポメラでも置いて執筆するのだろうか。
幸いというべきか、銭湯にはボク以外のお客さんがいなかった。
まだ開店して数分だったことも良かったのだろう。
一番風呂は広々としていてとても気持ちがいい。
脱衣所に着いて素早く服を脱ぐと、さっそくお風呂に入ることにした。
湯をかぶり、風呂に浸かる。
「あ゛あぁあぁあ゛~~~~」
思わず声が漏れる。
久々だけど気持ちいい!
手足を存分に伸ばせるって良いなあ。
自宅の備え付けの浴槽だと小さくならないといけないけど、開放感がないんだよね。
そうしてゆっくりと湯に浸かっていると、見せに次々と来客があった。
おっ、忙しくなってきそうだなと思って入り口に目をやると――
そこには背中に彩られた数々の絵があった。
うわっ……
蛙、蛇、ナメクジの三竦み。
昇り竜。
サクラに夜叉。
背中一杯に彫られた入れ墨の数々が、これでもかと脱衣所をキャンパスに仕立て上げた。
最近では付き合いもできたわけだけれど、こうしてヤクザらしい場面を観てしまうと、どうしても足がすくんでしまう。
ガラガラと浴室への扉が開くと、構成員の人たちがボクに気づいた。
若頭の竜さんと夏男さんがその中にいた。
「先生! 先に来ていられたんですね」
「水くさいっすよ。一声かけてくれたら喜んでお供しますよ」
「あ、あはは……」
ボクはチラリと彼らの一点に視線を走らせた。
それは無意識の行動だったけれど、男は自然とアソコで戦闘力を計ってしまう生き物なのだ。
女性が左手の薬指や、あるいは首のシワに無意識に目をやってしまうような、習性だった。
竜さんのく、黒い! これまでに一体どれだけの城を攻略してきたんだ……ッ!
夏男さん、ボコボコして……え、ええ……真珠? 真珠ですか!?
なんていうか、負けた。
格が違いすぎる……。
なんだか落ち込んでしまった。
そんなボクに向けて、二人から目線を寄せられるのを感じたが、肩身が狭かった。
「
「
「え、いや良いですよぉ」
うう、どうせボクなんて……。
男としての自信を失ってしまう。
「いやいや、そんなこと言わずにぜひともっす!」
「夏、俺がやるわ」
「あ、若頭が!?」
「悪いですよ、竜さん」
遠慮するボクに、若頭は洗い場へとボクをいざない、強引なまでに椅子に座らせた。
広告主がいないのか、社名のプリントの消えかけた黄色い風呂桶に湯を満たし、タオルに泡を立てる。
竜さんがボクの背中にじっと視線を注いだ。
「なにをジッと見てるんですか?」
「失礼、先生って肌がきれいなんですね」
「肌ですか?」
「ええ。俺たちは入れ墨が少しでも綺麗な状態を保てるように、肌の手入れには気を使ってる奴が多いんですよ。保湿剤とか使ってますか?」
「いいえ、使ってませんよ」
「ほうほう……おっと、背中流しますね」
ゴシゴシと力強く背中が洗われる。
自分で洗うのとまったく違う心地よさが背中に感じる。
「しかし、入れ墨って結構気を使うところが多いんですね。たしかMRIとかも使えないんですよね」
「使う素材に銅が含まれていると、磁力で熱を持って大ヤケドしますからね。今じゃ金属を使わない墨に変わってきてるんですよ」
「ただ、ちょっと発色が悪いんすよね」
入れ墨一つと言っても、色々と奥が深いんだなあ。
僕たちは体を洗い終わって、お風呂に浸かることにした。
「これは取材の一環として知りたいんですけど」
「どうぞ、なんでしょうか?」
「入れ墨って痛いしお金もかかる訳じゃないですか。おまけに海水浴とかお風呂だって難しくなる。そこまでしてやる理由って何なんでしょう?」
「一般の方には理解されづらいですよね。まあ、分かりやすいメリットを提示しましょうか」
「お願いします」
竜さんは非常に賢い人だから、分かりやすい説明をしてくれそうで助かる。
精神論や根性論で言われても、理解しづらいからね。
「一つは相手の覚悟を試せること」
「まあ、一生残るわけですからね」
「海外の……たとえばアメリカの有名な大学の寮に入るとき、過酷な試練が与えられたり、あるいは部族で一人前と認められるためにも、試練が与えられるのは知っていますか?」
「聞いたことがあります。かなり厳しい試練で、時には重傷者や死亡者もでることがあるとか」
小説でも、一人前と認められるために試練をクリアしないといけない展開は少なくない。
だが、それと入れ墨との関係が分からない。
浸かって徐々に顔を赤くしながら、竜さんが続ける。
「実は心理学的に、こうした試練を乗り越えた上での組織っていうのは、団結力が非常に高いことが証明されているんです」
「へぇー、そうだったんですか!」
「古来から人脈の有用は知られています。が、それはSNSなどの浅い繋がりとは別次元です。我々が入れ墨を入れる、杯を交わすっていうのは、いざというときの本当の人脈を大切にしているわけですね」
「ははぁ……いやあ、勉強になりました」
いやあ、ヤクザの世界も奥が深い。
知れば知るほど、色々な謎ができて、その答えを知ると好奇心が満たされる。
これが少しでも創作の役に立ってくれると良いんだけど。
それから、彼らのお風呂はとっても長かった。
サウナで長時間汗を流し、水風呂に入る。
それを繰り返し、ようやく出る。
なんでも汗腺が入れ墨で詰まっている部分が多いから、サウナで汗腺を開いておく必要があるらしい。
まったく、大変な世界だ。
浴室から脱衣所に戻ると、彼らは急いで飲み物の販売コーナーに向かう。
やっぱりこれからビールでも飲むんだろうか。
まだお昼だけど、あまり違和感はない。
「先生、なにを飲みますか?」
「ああ。サイダーでもいただけるでしょうか」
「分かりました。夏、先生はサイダーだ」
「うっす。じゃあ若頭はいつものやつですね?」
「ああ。お前も好きなの飲めよ」
「うっす! ゴチになります!」
そう言って、夏男さんが冷蔵庫から取り出したのは、サイダーと……フルーツ牛乳とコーヒー牛乳!?
瓶に入ったそれらの牛乳の紙の蓋を慣れた手つきで開ける。
若頭は舌なめずりしそうな表情でフルーツ牛乳を手に取る。
二人は腰に手を当てぐっぐっぐっ、と勢い良く飲み干してしまった。
「くはぁあああ、これこれ!」
「美味いっすねえ!」
「先生も遠慮せず飲んでくださいよ」
「え、ええ」
入れ墨を入れたヤクザがコーヒー牛乳とフルーツ牛乳だって!?
似合わない。
ギャップがひどすぎる!
「く、あはははは!」
思わず笑ってしまう。
思わずサイダーの炭酸でむせそうになってしまった。
なんだか少しだけ距離が縮まったように感じたボクだった。
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