九話 快適な執筆環境の始まりと、終わりの始まり

 ボクの入居作業は瞬く間に終わった。

 もとより必要な物の少ない生活であるし、アパートを今すぐ引き払うわけでもない。

 どうしても新住居に移動させたい物もあまりなく、執筆する上で必要なデータも、外付けハードディスク一台で終わってしまった。

 最近のものは容量が大きくて助かる。

 ちなみにこれも、おっさんが経費で出してくれた。


 もしもの時のためのバックアップには、グーグルドライブやDropboxなど、クラウド上にも保存しているから、絶対に必要な資料やテキストファイルが散逸するという心配もない。

 創作する上で必要な紙媒体の資料は、追々アパートまで取りに来るとしよう。


 趣味にして唯一の脚であるクロスバイクを荷台に乗せると、ボクは田口一家の館に移り住むことになった。

 ちなみに今回引っ越し作業を手伝ってくれたのは、パンチパーマの夏男さんだ。

 若頭の竜さんの子飼いの一人だという。


 身長は一八〇センチ。体重は八五キロ。

 四角顔でいつも細い目がニコニコと笑っていて、ゴツゴツした二四金のブレスレットと指輪をしている。

 なんていうか、見た目で分かるザ・ヤクザという人だ。

 テキ屋として活躍していて、縁日や祭りの屋台を主な仕事にしているんだそうだ。

 大きなお祭りでいつもある、一番大きな宴会場みたいな屋台を探せば、ほとんどのケースで田口組が場所を取り仕切っているらしい。


 この夏さん、ボクにはすごく低姿勢で、なんだか恐縮してしまうぐらいだった。

 ボクも最初は遠慮してもらわなくて良いといったのだが、


「親父と若頭が丁重に扱うような方を、どうしてオレがいい加減に相手をできますか。ぶっ飛ばされます」


 と真っ青な顔で言われては、こちらとしてもそれ以上言えることはなかった。

 ホワイトヤクザではなかったのか。

 じつはブラックなのか。

 やっぱり法の目をかい潜る、あわせてグレーヤクザなのか――!?



 ●○●○●○●○



 さて、ボクの田口家での一日を紹介しておこう。

 ボクは専業作家にしては朝が早い方だ。


 毎日七時前に携帯のアラームで目が覚める。

 顔を洗うでもなく、ベッドから出たらすぐさまウォーキングシューズを履いて、散歩に出る。

 時間を置くと運動したくなくなるからだ。


 一日座って執筆している作家は、運動不足に陥りやすい。

 だから専業作家として生きていくと決めたとき、親切な先輩の忠告を聞いて、ウォーキングの習慣をつけた。

 以前はアパートから近くの公園まで歩き、帰りにコンビニでパンを買うのが恒例だったが、今では朝食が用意されている。

 時間にして三〇分ほど、少し早めのペースで歩き続ける。


「「「先生、おはようございます!」」」


 散歩から帰ると、家の周りを夏男さんたちが掃除をしていた。

 自分たちの広い敷地の前だけではなく、周辺までゴミ拾いをしているらしい。

 聞けば何十年と続く習慣だそうだ。

 地元住人の理解が大切、というのが田口組の教えらしい。


 次々に元気の良い挨拶をされるのも、毎日続けば少しは慣れる。

 ボクも挨拶を交わしながら、家に入った。

 それから顔を洗ったり、シャワーを浴びて朝食を取る。




 ボクの食事は田口一家と一緒に取ることになった。

 ヤクザの家も、サラリーマンの家も、普通に食事をとるのは変わらない。

 食べる内容が変わるのは、職業の違いと言うよりも、調理する人の技量と好みの差だろう。


 田口家の朝は和食で始まる。

 長らく菓子パンや食パンばかりだったボクには嬉しい変化だ。


 テーブルを囲んで、おっさんが正面、左右にサクラちゃん、八重さんが座っている。

 食事前だからか、おっさんが新聞を流し読みしていた。

 金持ちは新聞を複数取るっていうのは本当なんだな。

 おっさんが新聞の記事を読んで、渋い顔をした。


「また最近はおやじ狩りが流行っておるそうですな。誘拐事件が起きたり、まったく物騒で恐ろしい世の中ですわ……」

「パパも狙われちゃうんじゃない?」

「うん、私は大人しい性格をしているからな。充分にあり得る話だ」


 ないない、どこが大人しい性格だ!

 ……とは言わないでおくのが優しさだろうか。

 サクラちゃんにとっては、普通の父親なのかもしれないし。


 でも、ボクがおやじ狩りをするならおっさんを狙うことだけは絶対にない。

 顔つきが怖いのもあるけど、なにより風格が違うんだよなあ。


「まったく、警察にはしっかりと仕事をして欲しいもんですわ。何のために税金を払ってるんだか」

「ほら、サクラ早く食べないと遅刻しますよ」

「あ、いっけない。ママお醤油取って」

「はいはい。こぼさないようにね」


 八重さんに促されて、サクラちゃんが食事を始める。

 つやつやでほかほかの白米に、パリパリの海苔。

 卵焼きに焼きシシャモにわかめのお味噌汁。


 長らく食べていなかった和食はとても美味しい。

 美人な上に料理もできるなんて、八重さんは奥さんとして完璧だね。

 美味い美味いと、自然と声が出てしまう。


「センセ、卵焼きの味はどう?」

「とっても美味しいよ。毎朝食べたいぐらい。八重さんは料理上手ですよね」

「うふふ、ありがとうございます」

「そっか……エヘヘ」


 料理を褒められた八重さんも、そしてなぜかサクラちゃんも笑顔になった。

 二人して目配せをしているのは、いったい何を企んでいるのだろうか。

 ボクにはよく分からなかった。


「センセ、私学校行ってくるね」

「気をつけてね」

「大丈夫だよ。帰ってきたらまたお仕事について教えてね」


 弁当箱を持ってサクラちゃんが慌ただしく駆けていく。

 サクラちゃんはかなり遠い進学校まで車で通っているらしい。

 だから、朝はボクよりもかなり早起きだ。

 ボクはゆっくりと食事をとりながら、その背中を見送った。


「田口さんはこれからどうされるんですか?」

「私はひとまず出社ですな。これでも社長ですから。先生は午前中は執筆ですか?」

「続巻の案を考えます」

「おおっ! どんな話になるのか……前回は愛人の妙が借金漬けにされたところでしたなあ……楽しみですぞぉおおっ!」


 突然興奮して叫びだしたおっさんにボクがびっくりしていると、八重さんが軽く袖を引いてたしなめていた。

 それでも興奮冷めやらぬのか、おっさんがボクに前のめりになってくる。

 ボクは思わず一歩退いてしまう迫力だった。


「先生、なにとぞ、なにとぞ執筆の方よろしくお願いしますよ」

「ははは……期待を裏切らないようにがんばります」


 おっさんが目をキラキラと輝かせながら、ボクの手を取ってぶんぶんと上下に振った。


 ……怖い。

 このおっさん過剰な期待しすぎじゃないか?

 もちろんボクも全力を尽くすけれど、だからといって傑作の確約はできない。

 これでおっさんの満足いく作品が作れなかったら、どうなってしまうのだろうか。

 ボクは追い立てられるように自室に戻った。



 ●○●○●○●○



 食事を終えると、一度午前中に仕事をする。

 午前中はできるだけ設定を考える。

 あるいは話の構造を考えたり、キャラクターを練ったり。

 どちらかと言えば頭をよく使う作業をすることにしている。


 前日に書いた文章を見直し、訂正するのもこの時間帯の仕事だ。

 これはボクの持論だけど、朝の頭のクリアな時間帯こそ、クリエイティブな仕事をした方が良いと思っている。

 脳は寝起きが一番元気で、夜になるにつれて後はどんどん疲れていくらしい。


 午後からは文章を書くのだけど、その時間帯は思い浮かんだ文章をひたすら打ち込むだけで、負荷としてはずいぶんと軽い作業になる。

 こんなことを言うと、文章を書くのに頭を使わなくて良いのかと聞かれることもままあるけれど……。

 面白さのコアな部分は、じつは設定や構成に拠るところも大きいので、あまり影響はない、というのがボクの考えだ。


 前作の続きということで、主人公や脇を固める人物はおおよそ出そろっている。

 世界観の構築も多くは考える必要はない。

 新しい対立組織の構想と、その組織に所属する強い敵を考えるのが今日の課題だった。


 これもまたボクの持論だが、敵は強くて手強くて厄介で、どこまでも格好良いキャラが良い。

 力だけ強いゲスよりも、一本芯の通ったキャラが好きだ。

 ボクの想像する、こんな人物がいたら格好良くて、男惚れしそうだなあ……というキャラを、いつも登場させるようにしてる。

 そんなキャラが敵対するから、自然と主人公も追いつめられるという寸法だ。


 午前中はマインドマップやアイデアプロセッサーと呼ばれる、アイデア出しのソフトを使って、みっちりと脳に汗をかいた。

 ふふふ、これなら良い作品が書けそうだ。



 ……このときのボクは、不用意にもそんな油断をする余裕すらあったのだった。

 後々に苦難が待ち受けるとも知らず……。

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