三話 夢から覚めて

 見慣れた天井が視界に入ってきた。

 いつの間にやら帰宅し、眠っていたらしい。

 吐き出す息の酒臭いこと。

 だが、楽しい酒、上質な酒というのは、意外と後に尾をひかないものだ。

 不思議なぐらい頭はスッとしていた。


 しわくちゃになったシャツからは甘ったるい香水の香りがした。

 昨日はとてもいい匂いに思えたのに。

 顔をしかめながら洗濯かごに放り込む。


 ほとんど空っぽの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、のどを潤す。

 二日酔いこそなかったとはいえ、飲んだ水が全身に行き渡るようだ。

 ゾンビみたいな動きしかできない体をむち打って、何とかシャワーだけ浴びる。

 熱い湯に打たれていると、生き返った! そんな感じがする。


 昨日は楽しかった。

 組長のおっさんはボクにクラブに連れて行ってくれたわけだけれど、ママの絵理さんさんは、もうビックリするぐらいの美人だった。

 そのほかにもクラブのお姉さんたちはボクをとても歓迎してくれて……酒池肉林ってのは昨晩のことを言うのだろう。


 ああ、楽しかったなあ。

 昨日のひとときが余りにも楽しいだけに、宴の終わった今は、なんだか余計に普段の生活が物寂しく思える。


 ボクの家は1DKで築二〇年。家賃は月六万円。

 古くて、ちょっぴり日当たりが悪くて、なんだかかび臭い気がする、少しだけ狭くて部屋数が少ないアパート。

 つまり、あまり快適とはいえない環境だ。

 唯一の利点は家から徒歩三〇秒の距離にコンビニがあることだろうか。


 年季の入ったテーブルの上には、一世代前のデスクトップパソコンの画面が一台。

 本棚にはこれまでの著作や好きな小説、ジャンルを選ばない資料が所狭しと並んでいる。

 本棚に収まりきらない本は、本棚の上に山と積まれている。

 そろそろ片づけようと思っているのに、いっこうに減ってくれない。

 他の家具と言えば雑多なものを押し込むカラーボックスが一つと、洋ダンスが一つだけ。


 それがボクの家のすべてだ。



 テーブルの上をよく見ると、昨日の帰りにお土産としてもらった焼おにぎりが乗っていた。ご丁寧にペットボトルのお茶もついている。

 至れり尽くせりの接待だったなあ。

 電子レンジで暖めて食べる焼おにぎりは、表面に塗られた醤油と、少し堅めのご飯が絶妙にマッチしていた。


 食べ過ぎの見過ぎた翌日だけに、それほど食欲はなかったが、焼おにぎりから漂ってくる香ばしい香りは、なけなしの食欲を刺激した。

 おにぎりをほおばりながら、同じくテーブルの上に置かれていた名刺を確認する。

 驚くべきことに、というべきだろうか。

 組長のおっさんも、若頭の竜さんも、名刺上はヤクザではなかった。

 ヤクザではなかったのだ。


 とある企業の社長と幹部というのが表向きの肩書きである。

 遵法精神に富んでいる、というのはこのあたりも一緒なのだろうか。

 まあ、非合法なことで稼いでいる人に奢ってもらうよりもよほど気分がよいので、気にしないことにした。


 昨日にたまっていた、Twitterのコメントリプライの返信を終えて、そういえばボクを監視しているフォロワーはどれだろうか、ということが気になった。

 フォロワー一覧から順番に見ていくと、まさにこれだ、というアカウントを発見した。


 田口吾郎。

 本名そのままで登録しているのかよ!

 ただ職業が娯楽業と動画配信業になっていたあたりが、なんだか上手な誤魔化し方だよな、と感心してしまう。


 普通の経営者で、まさかヤクザとは思わなかったのでスルーしてしまった。

 でも今ならカラクリが分かる。

 これ、たぶんパチンコとAVってことでしょう?




 パソコンを立ち上げてメールをチェックすると、編集の石川さんから一通、続刊のスケジュールチェックについて問い合わせが入っていた。

 出版前の予約状況と、直近の売り上げから、続刊を出せることが決まったらしい。

 本当に、良かった。


 いつも本を出せた後は、この売り上げがどうなったかが気になって仕方がない。

 そのストレスから逃れるため、普段よりも遊んだり、飲み食いに走るといった現実逃避をする作家も少なくない。


 きっとボクがヤクザとご飯を一緒にするなんていつもなら考えられないような行動に出たのも、そのあたりが関係していると思う。

 言い訳ではなく本当に、情緒不安定になる作家が多いのだ。

 提案されたスケジュールは、いつもとそう大差がなかったから、ボクはそのままでお願いしますと返信を出した。


 さて、ご馳走になったからには、お礼の電話の一本も入れなくてはならないだろう。

 さすがに奢ってもらって、そのまま連絡もしないと言うのは礼儀に反する。

 本心では、できればこのまま遠くから見守っていてください、と思っていてもだ。


 名刺にかかれた番号に電話をかけると、なんと三コールもしないうちに繋がった。


「もしもし、田口さんのお電話でしょうか。私川辺誠と申しますが」

「おお、先生ですか!」


 声優でもイケメンボイスで生きていけそうな、女だったら声を聞くだけで昇天しそうなバリトンボイス。

 電話越しでも、おっさんの声は綺麗だった。


「昨日はご馳走様でした。正直、初めての方と一緒に食事に行って楽しめないんじゃないかと思っていたんですが、最高の食事、最高のお酒で、とても楽しめました。生まれて初めての経験ばかりでした」

「はっはっは。それは良かったですわ! 先生さえ良ければ、いつでもまた行きましょう」


 おっさんはとても嬉しそうに、また誘ってくれる。

 ぐらりと心が動くのは、美味しい思いをするからだけではない。

 このちょっぴりどころか、かなり危なそうなおっさんが、ボクに対してはまるで子供のように純粋に楽しんでいるように見えて仕方がないからだ。


 嘘偽りなく、まっすぐに好意を向けられると、どうしても弱い。

 誰だって慕ってくれる人を嫌いにはなれないと思うんだ。

 だからボクは、判断を保留した。

 行くとは約束できない。でも、断ることもしない。

 玉虫色の回答に気を悪くした様子もなく、おっさんが続ける。


「まだお休みされてるかと思ってご連絡を控えておったんですが、実は先生に用件があったんですわ」

「な、なんでしょうか?」

「昨日の店に先生が手帳を忘れられたということで、うちに預かっとります」


 あ、と声が挙がった。

 ボクは小説家として、いつも手帳を持ち歩いている。

 なにかネタを思いついたり、記憶に留めておきたいことがあったら、手帳にサッと書き込むのだ。


 小説を書いていてネタに困ったときは、その手帳をじっと見つめていたら、不思議と良いアイデアが浮かんでくる、一番のメシのタネだ。

 普段は絶対に落とさないように鞄の奥にに入れているのだが、昨日はよっぽど酔っぱらっていたらしい。


「それと、うちの家内に先生のことを自慢したら、どうしても自分もサインが欲しいと言って聞かんのです。もし良かったら、手帳を取りに来られるついでに、どうか骨を折ってもらえませんか

?」

「そういうことでしたら、少しも構いませんよ。私もご馳走になっていて、心苦しく思っていたところですし」

「おお、そうですか。では私の家まで迎えの車を出そうと思いますが、いつ頃がよろしいですか?」


 なんて迂闊だったのだろう。

 できればお礼だけ伝えてそのまま距離を取るつもりが、手帳を盾にされては断れない。

 ボクはしばらく考えて、明日の昼過ぎであればと答えた。

 今日一日は遊び疲れた体を休ませてあげたかった。

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