08 流れ落ちる涙にすら溶けて

「どうして……?」


戸惑ったような声が背後から聞こえてきた。

首を声の主の方に捻って見やる。

そこに居たのはいとしい貴方。

貴方の顔はとても苦しそうに歪んでいて、私は駆け寄りたいのを必死で抑えた。


「どうして城を出たの。あの女が私を助けた姫だと言ったからか」


貴方を助けたと名乗りを挙げた隣国の姫君。

けれどその前に貴方が私のことを『自分を助けた姫だ』と公言してくださっていたから大した騒ぎにはならなかった。

……ならなかった、けれど。


思い出したんです。

私はどう頑張っても、人間の貴方の側は似合わないのだと。


「お前も分かっているんだろう?私はお前だけを愛していると」


はい。はい。

貴方が毎日のように言ってくださるから。

貴方の想いは疑いようもないくらい痛いほど感じています。分かっています。


けれど所詮、私は海に生きるモノ。

貴方と同じ姿になりたくて、貴方に一目だけでも会いたくて。

私は『ソレ』が禁忌と知りながら声と引き換えに足を手に入れ、貴方に会いに来たんです。


例え満月の晩までの儚い逢瀬と知りながら。

泡となり海へ還ると言われても。


本当に。

ただただ会いたかったんです。


誰に馬鹿にされても、貴方に一目会えたのなら泡になっても良いとすら思うほど。

たった一度出会った貴方に、私は惹かれてしまったのです。


けれど貴方は気付いてくれた。

そうして愛してくれたから。

きっと欲が出てしまったの。


「何か……何でも良い。お前が私の元に居てくれるなら何だってする!だから……行くな」


貴方の声はとても悲しみに満ちていて。

情けなく下がった眉に泣きそうになってしまう。


けれど名乗り出た隣国のお姫様はこの国と同盟を組んでいたのだと知りました。

無下に帰すわけには、としばらくの間滞在することになったお姫様。

貴方のお父上はそのお姫様と貴方の婚姻を望みました。

例え貴方が拒否を示しても、きっとそれは覆されたりはしないのでしょう。

所詮は人外と人間。相容れることはないのです。


そして。……そして何より。

並び合った貴方とお姫様の姿はとてもお似合いで、


『私はもう、貴方の側には居られません』


声を対価にしてしまったから貴方にこの言葉は届かない。

けれどそれで良かったと今なら思う。

貴方の側に立てるお姫様に抱いてしまった嫉妬。

それを貴方に知られずに済んだのだから。

貴方が美しいと。

好きだと言ってくれた私のままで居られたのだから。


「行くなっ!?」


引き留める言葉を無視して、まだ歩き慣れていない二本の足でよろけながら走り出す。

着いた先は海を見下ろす事が出来る崖の上。

頭上には黄金に輝く満月。

追い掛けてきた貴方はいとも簡単に私の腕を捕えてしまったけれど、


「……っ!?」


驚愕の視線と交ざり合い、私は口角を上げた。


貴方と私が想い合ったって。

私が足を手に入れたって。

私は人魚で、人間には決してなれない。

海で暮らし海の中のことしか知らずに生き、高々数週間を陸の世界で過ごしたところで。

人魚の私には貴方と結ばれる未来は永遠に来ないのだ。


それでも笑顔を覚えていて欲しい。

ちゃんと笑えているかは分からないけれど。

最期まで笑っていたいから。



**



泡となっていく愛しい人魚の身体。

掴んだ筈の腕は、柔らかな肌の感触はない。

確かに掴めて居るのは彼女の変わらない儚く美しい微笑みだけ。


いとおしくて堪らない私の人魚姫。

どうしてお前は泡になっている?


船から投げ出された私を救ってくれたのは海に住む美しい人魚だった。

その人魚がたった一瞬見せた儚い微笑み。

それが酷く印象的で忘れられずに彼女が連れてきてくれた岩場に幾日も足を運んだ。

そうしている内にある日現れた人の姿を取った女。

すぐにあの時の人魚だと気がついた。


その時に決めたのだ。

私は二度と彼女を手放さないように、私の妻にしようと。


すべて上手くいっていた。

父上だって美しい人魚を歓迎していた。

なのに隣国との繋がりを更に強固にしたがった父上の元に、愚かな女が現れてしまったせいで父上はその姫と私を、私の意思など無く婚約させてしまったのだ。


どこでそれを知ったのか彼女はいつもの儚い笑みに僅かな諦めの色を滲ませるようになった。

そうして私の元に訪れてから初めて距離を置くようになってしまった。

焦った私は何度も何度も父上に嘆願した。


『私の妻はひとりだけです!』


その声は……誰にも、いとしい人魚にさえ届かなかった。




海を照らす満月の晩。

泡となりゆくのはいとしい人魚。

行くな!行かないでくれ!

幾ら叫んでも風は無情に人魚を拐う。

これ以上飛んで行ってしまわない様に、手のひらに残った僅かな泡を抱き締めてただ静かに、岩場にうずくまった。



暗い海が誘うように私を見やる。

私は風に拐われていく人魚の欠片を追うように海を見やり――濡れた顔で笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る