<ファイル23>

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  「あなたは じぶんを、 みっともなくて みすぼらしいと いったけれど。」


  にじいろインコが いいました。 


  「わたしは そんなこと おもわないわ。」

  「だって あなたは、 とても ゆうきが あって かしこいから。」

  「だれよりも すてきで すばらしい。」


  そして にじいろインコは、 じぶんの からだから、

  きれいな はねを ぬいて、 まっくろカラスに あげました。


  「あなたの くれた くろい はね、 とっても すてき。」

  「でも そのままでは、 あなたはきっと かぜを ひいてしまうわ。」

  「だから かわりに、 わたしの はねを あげる。」


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 ――すべてを、話した。

 長い長い時間がかかった。

 その理由は話の長さではなく、主に唇に出来た傷のせいである。

 今、傷は応急キットで塞がれている。例の体に無害な瞬間接着剤だ。

 いずれ何針か縫う事になるかもしれない。

 割れたグラスも交換した。

 まあ、それはともかく。


 「いやあ、たまげたぜ。あん時のお姫様がなあ……」


 レガリスが、漂白剤の匂いをさせながら言った。

 シーツを血だらけにしてしまったので、ひとまず丸めて浸け置きをしたのだ。

 よって今はベッドを降り、床に直接腰を下ろしている。

 ここは軍であり、部屋の主は軍曹である。

 緊急時の対応という点では申し分のない備品がある。


 「私は……。いや、あれがお前だったとは……」


 私が答える。傷のせいで「私」が「わらひ」になってしまうが、読みにくくて仕方ないので思考記録に訂正させる。

 そして過去に想いを馳せる。

 あの時の少年が――少年にしか見えなかった子が、今、隣に座っている。


 「……見せてやるよ」


 そう言って彼女は立った。

 そして、雑多な段ボール箱の群れから、例の……『厳重に封印された箱』を持ち出した。

 ああ、そうか――。

 開けられる前に中身が分かった。


 ナイフが滑り、封印の紐を断ち切って行く。

 その中には、少女の頃に見たものが。

 夢の中で、そして空戦のさなかに光の中で見たものが入っていた。

 野球のボールだ。


 薄汚れた白いボール。

 手に取ってみれば、ほんの微かに。

 水色の染料の跡が残っていた。

 ――鮮明に……。思い出した……。


 「ありがとう」と言われた時の、彼の顔を憶えている。

 小さな痩せた体。

 不釣り合いに大きなグローブ。

 そして、真夏の太陽のような笑顔。

 ドレスが汚れるのも気にせず、小道に座って彼の姿を追った……。


 そう。私は二度と『彼』には出逢えなかった。

 その訳は……。

 『彼』ではなかった、から。


 「……その下。開けてみろよ」


 言われて気付いた。箱の中にまだ何かある。

 大きくて平たい、紙袋に包まれた――。


 「そうか、片手じゃ無理だよな。あたしが開けてやるよ」


 言って、レガリスが袋の中から取り出したものは。

 ……一冊の絵本だ。

 色あせて、ページの端がめくれているけれど。

 忘れもしない、あの『まっくろカラスとにじいろインコ』だった。


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  まっくろカラスは、 おもいました。


  ああ、 かみさま。

  ぼくを まっくろくろの まっくろカラスに してくれて

  ありがとう ございます。


  みっともなくて みすぼらしい まっくろカラスの ぼく。

  そんな ぼくだから こそ、 にじいろインコを

  たすけることが できました。


― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


 ……空になったグラスを置く。

 最後のページを二人で閉じる。


 母が読んでくれた本。

 自分で読めるようになってからは、毎日のように寝る前に読んでいた、この本。

 二十年ぶりに目にした美麗なイラスト。

 あの頃のまま、ここにあった。


 そうだ。私は――まっくろカラスのようになりたい、と思っていた。

 危険を顧みず、身を挺して大切なものを護れる存在に。

 今、真夏の太陽の下で見たみすぼらしいまっくろカラスは、本当に大切なものを護れるまでに成長していた……。

 私のすぐ近くで。


 私は、まっくろカラスになれただろうか。

 お前のまっくろカラスに。

 お前は私を、にじいろインコだと言った。

 そうじゃないんだ。私は――。


 「やっと。……逢えたな」


 彼女が言った。

 その長い指が、私の唇に触れる。

 応急キットの跡を撫で……。

 掌が、私の頬を包んだ。


 また、瞳を……。

 閉じて、しま、う……。


 吐息を感じる。

 柔らかい絹で撫でられるような、その感覚。

 互いの唇が重ねられ――。


 れぇっ!?


 ……舌!?


 舌っ、ひたがはいっれ来る!?

 はむむ……! ろ、ろうしよう!?


 彼女の熱い舌が私の唇を舐め、優しくそれを割り……固く噛み締めた私の歯をまさぐる。

 びくん、と体が跳ねる。

 優しいけれど、しっかりとした彼女の腕が私を抱き――。支えてくれる。

 何かが体を駆け上がる。

 熱い、炎のようなそれが脳髄を焼き尽くす。


 噛み締めた歯が切ない抵抗をしている。

 もう、決壊してしまう。

 そうすれば楽になる。この幸せに、快楽に身をゆだねられる。

 けれど体は言う事を聞かず、固く緊張したままどうする事も出来ない。

 震える、体。

 彼女の腕は私の背中を抱きながら――。


 指を、這わす。


 びくん。


 突然の感覚に目を見開く。

 その時――。歯が。

 熱い舌で優しく舐め上げられる事に必死の抵抗を続ける噛み合わせた歯が、薄く開いた。

 互いの舌先が、触れ合った。

 彼女は。

 無理やり舌をねじ込むような事はしなかった。

 あくまで優しく、けれど丹念に、私の城壁の鍵を私から開けさせたのだった。


 熱い舌が入って来る。

 怖い。けれど、受け入れたい。

 舌先だけ違う生き物のようなそれが、私の舌をそろり、と舐め上げる。

 吸われている。優しく。

 どうすればいいのか分からない。

 けれど、この熱い舌にすべてを任せればいいのだと、知っている。


 自然に、口が開いてしまう。

 おずおずと舌を差し出す。

 彼女の長い舌がそれを受け入れ、包み込む。

 絡み合う互いの、舌。

 早鐘のような鼓動の狭間に、淫靡な湿った音がした。


 ちゅる……。


 あっ……。

 は、……恥ずかしい。

 音……。してる……。


 すべての感覚が彼女の舌に弄ばれている。

 焼けるような、圧倒的な波。

 私の意識は嵐に翻弄される木の葉のように、その感覚に飲み込まれる。


 快楽。

 これは今まで一度も経験した事のない感覚。

 ほとんど物理的な力を持って私の頭の中をぐちゃぐちゃにする。


 もう――いい。

 溺れたい。

 いっそ溺れてしまいたい。


 私の体の中に灯った小さな火が、めらめらと燃える炎になって私の体を炙り始める。

 彼女の舌が、私の舌の付け根から舌先に向かってぬるりと舐め上げる時。

 声にならない声を上げた。

 ひと息ごとに、理性のベールがゆっくりと剥がされて行く。

 激情の嵐の海で、私が掴まっている一本の細い枝。

 『恥じらい』という名前の枝を、必死に引き寄せる。


 ああ……手を離してしまいたい。

 それなのに、私はそれを放せないでいる。

 怖い。

 でも……。


 優しく舌を絡める合間に、不意に強く吸われる。

 吐息が熱い。

 彼女の舌が、私の歯の裏側を……。ゆっくりと舐めて行く。

 一本一本、数えるように。

 舌先が歯肉に触れるたびに、私の感覚のボルテージを上げられてしまう。

 抵抗できない。

 何も考えられない。

 最後まで舐め上げられた時、熱いものが私の口から溢れ、つつ、と垂れた。


 限界だった。

 理性ではなく反射で――。


 突き飛ばしていた。

 いや、腕を突き出して……。

 自分が転がっていた。

 左肩に激痛が奔った。


 「――ッッ!!」


 とっさに、彼女の腕が私を支える。

 霞のかかった頭の中で、私は……。

 何か、とんでもない事をしてしまった恐怖感と。

 身を焦がすような羞恥心と。

 彼女に対する、言葉では言い表せない様々な想いが濁流のように渦巻いていた。


 それでも。

 それでも彼女は何も言わなかった。

 謝る事も、慰める事も、気を逸らす事も、その場を誤魔化す事もしなかった。

 ただ私を支え、怪我をした左肩を慈しむように包んでくれていた。


 深呼吸を、した。

 感情が爆発して、泣き喚いてしまった先ほどの自分を思い出した。

 口元を拭い、グラスを手に取る。

 空になったそれを、彼女を見ずに差し出した。


 くすり、と笑う気配があった。

 ボトルが傾けられ、微かな音と共に私のグラスが満たされる。

 それを一気にあおって、言った。


 「……このスケベ」


 ここでやっと彼女を見られた。

 せっかくなので、精一杯睨み付けてやる。

 彼女は例の聖母のような微笑から、いたずらを見付けられた子供のような顔になり――ぽりぽりと頭を掻いた。


 「ごめん……」


 そして、付け加えた。


 「……大好き」


 ああ、そんな事は知っている。知っているんだよ。

 デカいくせに照れるな馬鹿者。

 漂白剤の匂いで酒が台無しだ。

 デカ女。

 ビッチ。

 …………。


 ちなみに、新しい思考記録の強度は満点だった。


 私は彼女からボトルを奪い、彼女のグラスに返杯をした。

 ついでに自分のグラスにも注いだ。

 三度目の乾杯をして、舌に残る甘い痺れを……喉の奥に押し流した。


 「そういうのは、あんまり駄目だ……。くっ付くのは、まあ、許可する」


 「うん……。めっちゃ濡れた」


 「別に訊いとらんわ……」


 そして、先ほどよりもややぎこちなく、私たちは体を寄せ合った。

 絵本とはだいぶ違うな……。

 彼女の大きな腕の中で、ぼんやりと私は思った。


 キス。

 きす。

 kiss。


 本当のキスは、あんなに凄いのか……。

 何も考えられないほどに。

 白い炎で脳を焼かれる――そんな感じだった。

 今は何か、体がふわふわ浮いているような感覚。

 幽体離脱して、上から自分を見下ろしているような感じだ。


 彼女が言った。

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