<ファイル21>
……鼻をすすってしまった。
いやいやだって、これは仕方ないだろー!!
「よ~しよし。ほらティッシュ」
「ち~ん……」
何と言うか、猛烈に恥ずかしくなった。
このまま消え入りたい。いっそ死にたい。
すべて忘れて田舎で牛の世話をしたい。
しかしそんな訳にも行かず。
いつもはもっと饒舌な彼女の言葉を待ちながら、私は目も合わせられず……。
「……落ち着いたか?」
「ん……」
「今日一日で、お前の表情を全部見た」
「……っ! よせよ……」
「なあ、泣くってイイよな。思いっきり泣くと、なんかスッキリする。……どうだ?」
「分かんないよ……」
ずっと彼女の腕は私の肩を抱いたままで。
その、大きすぎる胸に私の顔は半分ほども埋まったままで。
耳元に。
彼女の、深くて優しい声が。
皆を安心させるはずのこの声が……。
なぜだろう。
どうして、こんなに、今は……。
まるで走った後みたいに……。
彼女が言った。
「……嬉しかったよ」
どきん、とした。
そして。
……私の名を、呼んだ。
レガリスが、初めて私に胸の内を打ち明けてくれた……あの時。
あの時と同じように。
名前で呼ばれた。
階級でもなく。
いつものような『お前』でもなく。
名前で。
……何だこれ。
私――。
う、嬉しいのか!?
もしかして喜んでるのかこれ!?
「なあ。……怖かったろ。でも頑張ったな。……うん。伝わったよ。ちゃんと」
くっ、いつも上から見やがって!
なぜか頭に来た。
「だから、ずっとお前との日常は護る。明日からもそれは変わらない。安心していいんだ。……レガリス様は約束するぜ」
これは本当の事だろう。
こういう時のレガリスは誰よりも信用できる。
ほっとして、やっと彼女の顔を見られた。
今度は私……笑ってる。
彼女の掌の上で、ころころと転がされている感覚。
それほど悪い気はしなかった。
「ま、たまにこうして……。二人っきりで話そうや。それくらいなら構わねーだろ?」
「それはまあ、いいけど……。あんまりえっちな事は、その、アレだぞ?」
くすり、と彼女は笑った。
無邪気な笑顔だった。
「女同士ってのは、悪い事なのか?」
「いや、悪いとか……そういう事ではなくてだな。私がその、そういう事は……」
「怖い?」
「……うん」
だって、だって仕方ないだろこれは。
いや別にお前の事が怖いって訳じゃないんだ。いやまあ怖い事は怖いけどそうじゃなくて。
本能的な、何と言うかもっと深い所から来るそのアレだ。
……などと考えたけれど、結局言えなかった。
言えなかったが、彼女は分かっている様子だった。
「あたしは、好きになったもん同士がそうなるのって、凄く自然な事だと思うぜ。だって誰にも迷惑かけてねーし、今は法律だって認めてんだろ?」
「そうだけど……。いや、お前の事が嫌いな訳ではないんだ、これは本当だ。でも……」
ここで私は急に怖くなった。
性に関する怖さではなく。
私がそういう関係を拒否し続ける事で――。
レガリスに嫌われてしまう事が怖かったのだ。
ああ、私はまるで女子中学生だ。
娼婦と少女ほども開きがある。
そんな私の心の中を、レガリスはきっと見抜いているのだろう。
そして、必要ならはっきりと言葉で伝える。
見え透いた駆け引きなどはしない。
そもそも私には駆け引きなど無理だし、レガリスに至っては、その手のものは最初から目に入らないように出来ている。
そんな彼女の言葉が、この窮地を救ってくれた。
「そういう時は、これさ。……飲むだろ?」
その言葉は天上の音楽だった。
この部屋は、ただ散らかっているだけではないらしい。
ベッドに居ながら、手を伸ばせばそこに冷蔵庫。
素晴らしい。
いや、本来なら酒の持ち込みは厳禁である。
私は一応、立場上の注意はした……が。
まあ何だ。
ガソリンの備蓄なら仕方がないな。うん。
このガソリンは、どうやらワインのボトルに入っているようだ。
ちょっと確かめさせてくれ。検疫だ。
なるほど。ふむふむ。
これは――。
……おまっ、これ――。
サッシカイアじゃないか!!
「峰さんに贈ったのと同じ奴だ。なんか高そうだから、今まで飲まずに取っといたんだ。ラッパ飲みでいいか?」
「何と言う事をしてくれるんだお前は!! 無造作に冷蔵庫になど入れ……待て、何年ものだ?」
「知らねーよ。開けるぞ?」
「待て待てラベルを見せろ! ……なんと、これはっ! お前、これを一体どこで……。いや待て、言うな。聞きたくない」
「コルク抜きをなくしちまってな。ちょっと待ってろ」
彼女は毛布でボトルをくるみ、そのまま底を――。
ぎゃああ!! やめれ馬鹿者!!
あろう事か、ベッドのフレームにゴンゴンと叩き付けたのだ。
なんて事するんだ馬鹿者!!
お前それ高いんだぞ!?
「よ~し出てきた。後はこいつを……」
叩く事によってコルクが顔を出した。
キャビテーションという現象だ。
知ってはいたが……心臓に悪いわ!!
そして彼女はコルクをかじり。
なんと、歯でそれを開けてしまった。
ぱこん、と部屋に音が響いた。
ぷっ、とコルクを吹き捨てると、それがくるくると宙を舞って、くず入れの中に吸い込まれた。
「お~、珍しく開けるの成功したぜ。三回に二回は失敗するんだけど」
「失敗してたらお前の頭をキャビテーションしとるわ」
「さ、グッと行け」
「グラスは!?」
「面倒臭ぇな……。いや、あるけどさ」
言って、彼女はひょいとベッドを降りた。
反動で私の体が弾んでしまう。
ボトルを片手にぶら下げたまま、彼女が部屋の奥の棚に向かった。
芳醇なワインの香りと共に。
何だか、凄い眺めだ。
モデル顔負けの美人(ただしサイズは特上)が、雑多な部屋の中をうろうろしている。
棚の下の方を探しているので、尻をこっちに突き出している。
コンパスのように長い脚の上でゆらゆらと動くそれ。
ビデオに撮ったら相当な額を出す馬鹿が居そうだ。
「よし、お揃いのがあったぜ!」
ワイングラスを二つ手にして、彼女が戻って来た。
――ゆ、揺れてる。
そうか、レガリスもノーブラだったっけ。
ぶるんぶるん? たぽんたぽん?
上手い擬音が思い付かない。
特大のビーチボールを二つも付けて、重くないんだろうか。
私の、けっこう重さを感じるけどなあ。
彼女の指示で、ベッドに備え付けのサイドボードを出した。
折りたたみ式のテーブル。私のベッドと同じものだ。
そこにボトルとグラスを並べ、彼女がベッドに腰掛けた。
「乾杯しようぜ。二人の夜に」
「なんか引っかかるが、まあいい」
レガリスがボトルを傾ける。
澄んだその音に、熟れたブドウの香りが溶ける。
これは――良いワインだな。
年代からして若過ぎず、私のイメージよりもすっきりした印象だ。
彼女と過ごす初めての夜に、トスカーナの革命児か。
――ふふ。偶然にしては出来過ぎだ。
いやいや、初めての夜って言葉には語弊があるぞ。
そういう初めてじゃないから。
……おいおい。そんなになみなみと注ぐ奴があるか。
もう少しこの……。
まあ、いいか。レガリスだし。
それに私が相手だしな。
「――乾杯!」
二人の声に、チン、と触れ合うグラスの音。
テイスティングやら何やら、そんなものは彼女にとっては関係ないらしい。
もう飲んでるし。
私もひと口――。
……うん。
素晴らしい。
やや強めのタンニン。飲んだ後から鼻に抜ける、ミントのような爽やかなハーブ香がする。
ほど良い酸味。甘味は少なめか。
あまり肉厚な感じではなく、中々にスマートで品の良いワインだ。
欲を言えば、開蓋後にもう少しだけ、空気と馴染ませたかったが――。
まあ、難しい事はいい。
美味い酒を好きなように飲む。
この世に、これ以上の娯楽があるなら教えて欲しい。
もうじき教わりそうで怖い……。
今夜は絶対に酔わんぞ!
「……こいつぁ美味いな! 早速もう一杯」
「当たり前だ……てか早いな!」
「お前も空じゃん」
「あー……。いや、まあ美味いしな」
「遠慮すんなよ。とっとと空けちまおうや」
「そのつもりだ」
そして私たち二人は、さらに芳醇な香りに包まれて行く。
二人っきりは初めてだが、酒を飲む事だけなら、私たちは何度も繰り返して来た。
今日からも、きっと。
彼女の性遍歴を肴に、適当に相槌を打って飲む酒。
……そうだったんだな。
私は、それが楽しかったんだ。
仕方なく付き合ってやっている、と……そう思っていた。
そうではなかった。
私は好きで、彼女のくだらない話に付き合い、彼女と共にグラスを傾けて来たのだ。
それが楽しかったから。
いつの間にか、日々の暮らしに欠かせぬものになっていたのだ。
その事を、彼女に告げた。
話し始めた時には二杯目。話し終わって三杯目。
彼女は何度も頷き、時に妙な突っ込みなども入れつつ、微笑みながら聞いてくれた。
ああ、楽しいな。
楽しいよレガリス。
考えてみれば、いつも私は聞き役だった。
話すのはいつもお前で。
だから、とても新鮮だ。
こんな風に、お前は私に話し掛けていたんだな。
ただ聞いてくれるだけで、こんなに嬉しいものなんだな。
今日からは、私も話すよ。
お前に聞いて欲しいんだ。
お互い、たくさん話そうじゃないか。
なあ。レガリス。
……ああ、これで最後の一杯か。
分かっていたけど早いものだな。
グラスを口に運ぼうとすると、彼女がいたずらっぽく微笑んだ。
――なあ。こんなの知ってるか?
そう言って、私のワインを口に含み……。
私の肩を抱いて――。
うんうん、口移しだな。
その手に乗るか馬鹿者!!
「んーがっくっくん」
「知らんわ馬鹿」
そういう事で、高級なワインの最後の一口が消えたのであった。
やれやれ。
気付いたら、もう夜中を過ぎていた。
楽しいひと時も、決して永遠に続く訳ではない。
レガリスは優しく私の肩を抱き……締めようとしたからその手をつねる。
ニヤリと笑って、今度は私の頭をぽんぽんと叩く。
困った。
楽しい。
困った。
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