<ファイル20>

 彼女はそこに私を座らせてくれた。

 無造作だけど、怪我が痛まない程度に優しく。

 マットレスが私の体重を支える。

 もちろん軍の支給品だから、私のベッドと基本的には同じである。


 されど、ここは世界で一つの場所なのだ。

 彼女が本当に安らげる場所。

 そこに今、私がいる。


 「あー、何だ。汚ねぇ部屋だろ。……がっかりさせちまったか?」


 私はかぶりを振った。そんな事ない。

 普段のお前が見られたよ。

 私が想像していた通りの部屋だ、だから妙に安心した。

 そう伝えた。

 彼女が笑って隣に腰を下ろす。

 ベッドが大きく凹み、そちらに引き寄せられてしまう。


 そのまま肩を抱かれた。

 いやいや、ちょっと待て。

 待てと言うのに、この……。

 色々と文句を言おうとしたが、その前に彼女が顎で壁を指した。


 「見えるか? 写真……」


 そちらを見れば、今と全く同じ状況の写真がある。

 初めて一緒に撮った写真だ。

 私の肩に回そうとする彼女の手を、私が掴んで苦笑いしている。

 彼女は例のいたずらっぽい笑みを浮かべて、残りの手でVサインをしている。

 軍部の士官が被写体であるにしては、何とも奇妙な写真に見える。


 「お前と撮った写真はいくつかあるけど、あれが一番気に入ってる。だから真ん中に貼ってんだ」


 「まったく、酷い出会いだったよ……」


 「今はもう、すっかり綺麗になったな。安心したよ」


 「綺麗になった? 何だそれは」


 彼女は私を見て、風のように微笑んだ。


 「ステラが持ってってくれたんだよ。……お前はもう、死神に振られちまったって事さ」


 思い出した。

 初めてレガリスと出会った時の事だ。

 彼女は私の目を見て――。

 『魅入られてる』と言ったのだった。


 彼女にだけ分かる不思議な感覚、なのだろうか。

 ともかく、私の生き甲斐は。

 いや……、生き甲斐だと思い込んでいたものは。

 この国のために戦って、そして尊敬する父のように、この国の土になりたいと願うその想いは。

 なぜだろう。その志が消えた訳ではないのに。

 今は――。

 そう。


 生きたい。

 生きて、次の朝を迎えたい。

 この夜を奪われたくない。

 本気で本当に、そう思っている。


 ステラが……。

 あの子が、私を救ってくれた。

 私を、私の心を助けてくれたんだ。

 私を開放したのは戦いじゃなかった。


 レガリス。お前の言う通りだったよ。

 ステラ。ありがとう。


 「ただ、死神って奴ぁ執念深いんだ。一度惚れた相手には何度でもアタックして来るぜ? だからしっかりこう言うんだ、『あたしには心に決めた相手が居ます』ってな」


 「それが何でお前なんだよ」


 「死神よりも強ェから」


 そして、頭にキスをされた。

 ……もう、こいつは本当に。

 これくらいなら、まあ、いいか。


 『まあいいか』などと思ってしまった自分に軽く驚愕したが、一方で私は、レガリスがモテる理由がはっきりと分かった。

 安心するのだ。心から。

 美人だとか、胸が大きいとか、そうした事は理由のごく一部に過ぎない。

 今私の隣に居るのは、その気になれば虎にもなれる人間だ。

 でもそれは、「虎になれる人間」であり、決して「人間に化けた虎」ではないのだ。

 この違いは大きい。


 私が望んで扉を開けない限り、この虎は押し入ろうとはしないだろう。

 相当激しくノックするだろうが、押し入ったりは決してしない。……はずだ。

 昔の私なら、こんな考えは「騙されやすい女の特徴」だと一笑に付したろう。

 だがこの虎は、ここが軍であり、私が上官だというのを承知していて、その先の未来を読む事が出来る。

 だから大丈夫なのだ。


 もし危なくなったら?

 その時はこうだ。

 「待て」「伏せ」「チンチン」。

 チンチンはないか。


 つい吹き出してしまった。

 なんたる不覚。

 二十数年生きて来て、自分の下品な冗談で笑ったのはこれが初めてだ。

 もちろん白状させられた。

 そして二人して笑った。


 だから、私も正直になろうと思う。

 お前の気持ちに応えるために。


 深呼吸して。


 私は……。


 あああ駄目だ怖い。


 言わなければならないのに言葉が出ない。

 どうしてこんな気持ちになるのか。

 答えは分かっているのに、いざ言おうとすると言葉に出来ない。

 こんな気持ちは今まで一度も……。


 あああ。困った。どうしよう。


 ……レガリスが笑っている。

 優しい笑顔だ。

 吸い込まれそうな瞳の奥に、私の顔が映っている。

 一瞬、この胸の怖さを忘れてしまうほど――綺麗。


 私が言葉を発する前に、その美しい唇が動いた。


 「……飲むか?」


 そして、ベッド脇の小さな冷蔵庫を指さした。


 ああ、酒があるのか――。

 途端に、胸の奥で渦巻く霧がすっと晴れるのを感じた。

 私たちの夜に欠かせないもの。

 それさえあれば怖くない……。


 いやいやいや、それじゃ駄目だ私!


 私はサッと立ち上がり――。痛ッ!?


 「おいおい、何やってんだよ」


 「いたたた……。レガリス!!」


 「はいっ!?」


 「私はおまっ……! おおお前がっ、あー……。だーっ、もう馬鹿!! この馬鹿者ーっ!!」


 叫んでいた。

 告げるつもりの言葉とは大幅に違う内容だった。


 「だから駄目なんだよ女同士じゃ!! 駄目なのに何だお前は!! 困るんだよそーいうのはっ!!」


 彼女が目をまん丸くしている。

 私はもう自分で何を叫んでいるのか分からない。


 「あの……。迷惑だったか……?」


 「ぜんぜん迷惑じゃないっ!!」


 何言ってんだ私はーっ!!


 「馬鹿かお前は!! この馬鹿!! 私なんか口説いてどーするんだ!! 他にいい女なんかいくらでも居るじゃないか!!」


 誰か止めてーっ!!


 「お前がそんなに言うから私はこんなに困っちゃうじゃないかっ!! お前色んな男とヤッてるじゃないかっ!! だけど私は処女なんだよーっ!!」


 泣きそうだあぁ!!


 「どうしたらいいんだよぉーっ!! もーっ!!」


 泣いていた。

 何だかまったく分からないけど泣いていた。

 ボロボロ泣いた。


 急に爆発した私を何も言わず見つめていた彼女は。

 ただ、そっと手を差し伸べて。

 長いその指で、私の涙を静かに拭って。

 優しく、抱きしめてくれた。


 この世のものとは思えないほど柔らかく、優しく、温かいそれに包まれて。

 私は泣いた。

 こんな事は初めてだった。

 髪を、撫でてくれた。

 何も言わなかった。


 家族を失って、今。

 この世のどこよりも安心できる場所を、私はこの日、再び見付けたのだった。


 ……………………。 


 … … ど う だ 。


 は っ き り 書 い て や っ た ぞ 。


 あーもう、これで勝利は私のものだな!

 文句は言わさんぞ。

 記載時間は気にするな。ちょっとコンソールを拭いていたのだ。

 髪の毛を搔きむしってたら流血してな。いや大した事はない。

 少し頭がズキズキするが、続けよう。

 例の酒を飲む所からだな!


 あ~……。そうか……。

 まだ、書いてない事が、その、まあ……あったか。

 そうだな……。


 いや書くよ、書けばいいんだろ!?

 まったく。

 これ以上出血したら死んでしまうぞ。

 絶対に私、負けないからな?


 はいはい。しました。

 しましたよ。

 ……きす、を。


 だ~~~~~っっ!!


 <新規・入力OK>


 おお、さすがは最新型だ。起動が早いぞ。

 こいつを借りられなければ危うく終了する所だった。

 しかし、思考記録のコンソールは脆弱だな。あれしきで粉々になるとは。

 今度の奴は大丈夫だ。なにせ戦闘機用だからな。


 杖を突きつつ、そっと病室を抜け出して。

 こいつを装備課まで借りに行った時の、神田橋の愕然とした顔は。

 まるでゾンビを見るようだったな……。

 先にシャワーでも浴びるべきだった。

 まあ、過ぎた事は仕方がない。


 もし、これも駄目になったら……。

 同じ言い訳は通用せんな……。


 いやいや、今は始末書の事など思うまい。

 続きだ続き。

 その前に深呼吸を……。

 そのその前に、準備体操など……。


 ……どれくらい泣いていたかは分からない。

 時間にすれば数分か、もしかしたら数十秒の事だろう。

 その間、レガリスはずっと黙っていた。

 ただ黙って、私の髪を撫で続けてくれた。


 私の心は千々に乱れ、闇に翻弄される小鳥のように行き場を失っていた。

 時間も、空間もなかった。

 あるのはただ、柔らかな胸の温かさと、その奥で密やかに鳴り続ける遠い鼓動。

 それだけだった。


 その音の……。懐かしさ、か。

 それに気付いた頃に、私は言った。


 「……ごめん……」


 もっと色々言う事があるはずなのに、私の口から出たのはその一言だけだった。

 レガリスは。

 彼女は――。

 そんな私の頬にそっと手を寄せ、何も言わず。

 私の心をゆっくりと、彼女の許へ引き戻してくれた。


 柔らかなブロンドの髪が揺れる。

 彼女自身はこんなに大きくて力強いのに、どこまでも繊細な、それ。

 女の私でも羨ましいと思う。

 私のこの黒髪は、彼女に……どう映っているのだろう。


 涙のフィルターを通してさえ、美しい彼女の瞳がそこにあった。

 目を逸らせない。

 視線が、絡み合って。

 そして……。


 私は。

 みずから目を閉じた。


 数秒――。


 ほんの一瞬だけ。

 ――唇が、重ねられた。


 ………………。


 生涯、二度目の……。キス。

 初めての時のように、不意を突かれてのものではない。

 はっきりと認識していた。

 私は、彼女を。

 その唇を。

 自分から、受け入れたのだった。


 待った待った待った待った。

 短絡的に考えてはいけないのだ。

 キスしたからその先までOKとか、そういう意味でのアレではないのだ。

 私は、その何だ。

 さっき爆発してしまった際、言葉に出来なかった様々な想いが、たった一つのこの行為によって――。

 すべてが伝わった。……のだった。


 だから合理的なのだこれは。

 それで説明が付くのだこれは。

 第一キスなんか親しい家族間でもするじゃないか私の家族はしなかったけど!!

 だから。

 だからその――。


 そして、次に瞳を開いた時に――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る