<ファイル18>

 そんな状況で、私は。

 一体どういう訳か、白く透き通った一匹の魚を夢想した。

 暗い闇の底にいる魚の事を。

 ……どうしてこんな事を考えているんだ?

 それは分からないけれど。


 深海に生まれた魚は、その一生において。

 ただの一度でも、朝の明るい光に触れる事はあるのだろうか。

 風の奏でる歌声は。星々のきらめきは。

 そうした事を何も知らないまま、その生涯を終えて行くのだろうか。


 それを悲しいとは、たぶん……思えないだろう。

 悲しいと思うのは、光を知る者がそれを外側から見ているからだ。 

 魚にとって幸せなのは、美味しい餌があり、誰にも襲われず、そして子孫を残す事。

 それ以外は皆関係がない。

 魚に星のきらめきを伝えられたとしても、魚にとっては意味のない事なのだろう。


 だが、実際に「行ける」となれば――。

 星々の輝きに触れられるなら。

 風の歌声を間近で聴けるなら。

 朝の明るい日差しの中を、精一杯泳げるならば。

 魚は。

 彼女の手を……取るのだろうか?


 そしてもし、その手を取ってしまえば……。

 二度と海には戻れない、としたら?


 今はまだ答えが出せない。

 ただ、私には分かっていた。

 どれだけ時が過ぎようと、たとえ何年かかっても。

 彼女は、ここにいる。

 いつでもその手を差し出してくれる。

 私が彼女にそうするように。


 だから話した。

 二人で、色々な事を話した。

 夜という深海に、星のきらめきで彩りを付けた。

 そして最後に。

 ステラの話を……した。


 共に過ごした日々。

 短かったけれど、充実した毎日の事。

 作戦室で、レガリスに襲われるステラ。

 初めての実戦で――、自分から名乗りを上げたあの夜。

 そう。あの夜の事を。


 「あいつは、さ。ステラは……。きっと、何があってもお前と一緒に飛んでいたよ」


 「――――」


 「何があっても機内に残ったさ。お前と一緒にな」


 …………。

 そう。恐らくは。

 私には分かっていた。

 それが、あの子の望みだったから。


 「それと……さ。ステラの事で、涙を流したお前を……。あたしが、支えてやりたくなった」


 「…………」


 「あたしたち、みんな。心の暖かい人に護られてるんだな……。そう思ったよ」


 ……思ってもみなかった、言葉。

 軍人として、その生涯を捧げる覚悟をして。

 常に完璧であろうとした、私。


 部下を率いる立場になっても、その想いは変わらない。

 けれど、人としての尊厳だけは……失いたくない。


 悲しい事には涙を流し、亡き人を想い。

 そんな普通の事すら出来なくなった人たちを、私は何人も見てきた。

 戦争が心をすり減らし、やがて本当の「道具」になってしまう……。

 そんな事が許せなかった。


 上官である前に、エースである前に。

 人間でありたいと、心のどこかで思っていた。

 だから私は。

 自分の事を道具と言った彼女を、否定したのだろう。


 そうだったんだな、レガリス。

 私がお前を見ていたように、お前も私を見ていてくれた。

 それが――今は嬉しい。

 だから言った。


 「孤独だと思う事が、すでに思い上がりなんだな」


 彼女は黙って頷く。


 「その事が分かって良かった。礼を言うぞ、レガリス。……近い近い、別にお返しはいいから!」


 彼女は笑って遠ざかる。

 その長い脚を無造作に組み、ふと壁を見上げた。壁の時計は静かに時を刻んでいる。

 消灯時間から、およそ一時間。

 薄闇の中で、私たちの時間がほどけて行く。


 お前にとっても、長い一日だったろう。

 私は大丈夫だ。

 だって、この夜はもう……孤独ではない。

 一人じゃないから。


 思えば私は、「普通の会話」というのが苦手なのだろう。

 一対一で話す時は、その多くが上官と部下での間の事。すなわち情報の伝達が主目的だった。

 そしてここは軍部であり、つまるところ男社会である。

 同じ階級の者は皆男性だ。

 私の部隊は女性の割合がかなり高いが、そのすべては部下である。

 その上、軍人として爪の先まで規律に染まったこの私だ。

 打ち解けた、個人的な話など、ずいぶんとした憶えがない。


 例外はレガリスだ。

 彼女だけが、私の見えない城壁を軽々と越えて来る。

 だからこそ私は。

 この閉じた男社会で、孤独を感じずに生きていられるのかもしれない。


 彼女が探して来てくれた、花の束を見やる。

 うちの若い連中にほとんど落とされたと言っていたが――。ふふっ、彼女らしいな。

 もし逆の立場なら、そうだな。

 さすがに花壇は荒らせない、か。


 ……レガリス。お前は凄い奴だよ。

 もしかしたら、私は。

 お前が好き勝手にやって、また私が雷を落として。

 そんな生活を、ずっと続けて行きたいのかもしれないな。


 そんな事を考えていると。

 突如彼女は立ち上がり――凄い迫力だ(特に胸)――、ニヤリと笑った。

 実に下品な笑い方だ。

 こういう時の彼女を私は良く知っている。……くそ、花瓶まで遠いな。

 アルミ製の杖をしっかりと握った所で彼女が言った。


 「よし。出るぞ」


 「出る!?」


 「お姫様。これより夜のデートと参りましょう」


 「はぁ? デートぉ!?」


 「この牢屋を抜け出して、わが城へ案内いたしとうございます」


 「馬鹿お前、何言ってるんだ! 私は怪我人だぞ!?」


 「重々承知の上。……ここじゃ誰かに聞かれちまうからさ。軍規にうるさい大尉どのが、消灯時間過ぎても喋ってたら体裁が悪いじゃねーか」


 「うっ……」


 「看護師だって巡回に来る。そうなる前に、お前を連れ出す」


 「勝手に消えたら大問題だろうが!!」


 「ひとまず一筆書いておこうか。先の戦闘による重要な会合とか何とか。……大丈夫、お前は大尉だ。どうせ誰も確かめやしないさ」


 「軍務規定違反だぞ!? こら聞け、ああもう書いてる!?」


 「……サインしとけ」


 「仕事早いな!!」


 「軍のいい所は、誰が何をやってるか、すべては誰にも分からないって所さ。……さあ行こうぜ。星空の下へ」


 「わた私ほら、ああ脚を怪我して……」


 「そんなもの、この王子の手に掛かれば!」


 ……ひょい、と持ち上げられた。

 あああ何するんだこの馬鹿者!!

 ちょっと待ったおいこら聞け!!

 分かった! 分かったから聞け!!


 「意外と軽いな。ちゃんと食ってるか?」


 「放っとけ! せっ、せめて医者に一言くらい……」


 「これから脱走するってのに、わざわざ看守に知らせるバカがどこに居るんだよ。……姫、ご安心めされよ。白馬の王子がきっとお護りする」


 「白馬どこ!?」


 「この王子は馬より強いのさ」


 言うが早いか、彼女は私を抱き上げたまま。

 私のウエストバッグとアルミの杖を片手に取って。

 くるりと振り向き、サッとカーテンを開けた。

 ……ちょっと待ってここ二階!!


 「いやあ、いい月だぜ」


 「何でドア開けて出ない!!」


 「すぐそこ、ナースセンターじゃん。それにこっちの方が気分が乗るだろ?」


 「気分で死んでたまるか!!」


 「まっくろカラスは、にじいろインコを助け出すんだぜ?」


 「待った待ったやめて降参! はい降参! 降参した!!」


 「勇気一つを友にして!」


 「それ最後死ぬから! ほんとやめて頼むお願いちょっとちょっと待っ――」


 窓が開けられ。

 ひんやりとした夜気が私の頬をくすぐる間もなく――。

 彼女は。

 私の体を抱いたまま。

 まるで散歩にでも行くかのように。

 月を目指して。

 満天の夜空に。


 ふわりと、飛んだ――。


 飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでるうぅぅっっ!!


 いやああああぁぁぁ~~~~~~~っっ!!


 ………………………………。


 ……………………。


 …………。


― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


  「いままで きみを、 ばかにして ごめんね。」

  「きみは このもりで いちばん ゆうきがある。」

  「どんな すてきな はねも、 きみの ゆうきには かなわない。」


  とりたちは、 くちぐちに まっくろカラスを ほめたたえました。

  いまや まっくろカラスは、 もりで いちばんの にんきもの。


― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


 ――はあっ、はあっ、はあっ……。


 私、生きてる――。


 あああ生きてる。生きてる。

 なんか一瞬放り投げられたような気もしたけど、たぶん私、生きてる。

 ああ、生きてた――。

 何で……。

 どうして……。

 ……日に二回も死にかけなきゃいかんのだ!!


 「ほら、見ろよ。すげー星が綺麗」


 「その一つになる所だったわ!!」


 「一度やってみたかったんだ。夢が叶ったぜ」


 「一人でやらんか!!」


 「それは何度もやってる」


 そして彼女は歩き出した。

 芝生の上、月明かりの下。

 私を抱っこしたままで。


 罵詈雑言でも言ってやりたい。

 張り倒したい。

 いっそ何発か銃で撃ちたい。

 けれども、どうせ大した効果がないのは分かっている。

 だからもう、どうでもいい。

 本当に、強引で――。

 馬鹿で、勝手で、私が何を言っても聞きやしないんだから。

 敵わないよ。お前には。


 などと考えていたのだが――。

 いや待てこれは。

 いやいやいや。

 私、何でお姫様抱っこされてるんだ!?

 負傷者だからです。

 そうじゃなーい!! そうだけどそうじゃない!!

 ちょっと、ちょっと冷静に考えてみよう!!

 確か私、病室で寝てた筈だったよな!?

 それがいつの間にやらこんな……。


 「おい。……おい!」


 「ん~?」


 「何で私は抱っこされてるんだ?」


 「腕で」


 「そんな事は分かってる!! どうして私はお前に拉致されているのかと訊いている!!」


 「二人っきりで話してーから。誰にも邪魔されたくねーから。お前が好きだから」


 「ぬぁ、ほっのぅぇ……ぇあ!?」


 「キスしたい。するぞ?」


 「だあああっ!! やめれ!!」


 「そんだけ元気なら大丈夫だ」


 そしてまた、何事もなかったかのように歩き出す。

 この、外見だけは素晴らしい雌のゴリラに今、私の生殺与奪権を握られている。

 ここからどこへ行くにしろ、今の私ではまともに抵抗が出来ない。

 もしレガリスが本気になって、私を押し倒そうとしたら――。

 ……冷や汗が出た。

 それはまずい。非常にまずい。

 銃か、せめて花瓶でもあれば……。


 そこでさらに考える。

 何か目的がある場合、彼女はそれを達成する。

 確実に達成する。

 そこに至る難易度と、そのための手段は問わない。

 何かしたい事があるなら、必ずそれをするのが彼女である。


 そして今。

 神に捧げられる裸の子ヤギのように、軽々と私は運ばれている。

 い、生贄か!? 私は生贄なのか!?

 わた私を捧げた所でファラオは復活せんぞ!?

 ――おかしな事を想像しつつ、下から彼女を見上げてみる。

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