<ファイル14>
いつの間にか、眠っていたらしい。
私は夢を見ている。
夢、とはっきり認識できる夢も珍しい。
明るい日差しの夢。
日向の匂い。土の匂い。母の優しい胸の香り。
そこで私は少女の時代に戻り、小道から砂埃の舞うグラウンドを見ていた。
私はドレスを着ている。明るい空のような水色の、ひらひらとした素敵なドレス。
今日は特別な日なのだ。
この日は、父が久々に戦地から帰って来る。
今の私と同じ、大尉に昇進したばかりの父が。
空港まで迎えに行き、レストランで食事をするのだ。
家族みんなで。
そう。
まだ弟が生まれる前の事。
私の肉親が……まだ生きていた頃の話。
家政婦の運転する車で、病院の近くのこの場所へ来た。
母はこの病院で看護師をしているのだ。
優しくて、暖かな母の抱擁が私は大好きだった。
清楚な香りの中に、ほんのちょっとの薬品の香り。
母の胸の中こそ、私がこの世で一番安心できる場所だった。
もうじき母の仕事が終わる。
それまで暇を持て余していた。
しかし、病院内をうろうろすると怒られる。
だから家政婦を連れ、少し散歩をしていたはずだ。
少年たちの歓声が聞こえて来る。
あれは――野球だ。
私は特に興味もなかったが、他に見るものもないので何となく眺めていた。
すると、私の足元に――ぽとり。
ボールが転がって来た。
何だか汚いボールだ。
どうしようかと考えていると、声がした。
「あの、えと……。すいませーん……」
そちらに目を向けると、一人の野球少年が居た。
グローブをこちらに向け、おずおずと掲げている。
内気な少年のようだ。声も小さいし、背格好も貧相だった。
どうやら、このボールを投げ返せ、と言いたいらしい。
今日は大切な一日。
せっかくお洒落をしたのに……。
こんな汚いボール、触りたくない。
このまま、聞こえない振りをして行ってしまおうか。
そう考えた。
すると、後ろの家政婦が言った。
『拾わないんですか?』
振り向くと、それは家政婦ではなかった。
遠い昔に読んだ、あの絵本の。
まっくろカラスが立っていて……。
それがゆっくりと形を変え、私の知る人の形を取る。
ステラ――。
軍のGスーツを着て、ちょっと困った顔のあの子がそこにいた。
そうか。これは夢だった。
夢なら、あの子が居てもおかしくない。
私は言った。
見ろ、このドレスを。まるで明るい空のように美しいだろう。
私はこれから家族と楽しい食事をする。
だから、こんな汚いボールなんかに触ってはいけないのだ。
分かったか?
するとステラは言った。
『大尉には、それが汚れて見えるんですか?』
おい、何を言っている――。
だって汚いじゃないか。
何度も転がって土にまみれ、何人もの手垢が付いている。
そんなものを触るなんて、よほどの物好きだよ。
ステラはますます困ったような、何か物悲しそうな顔をした。
そして近くに歩いて来て、ボールの前にしゃがむ。
一瞬、切なそうな瞳に何かが浮かび――私を見た。
『こんなに綺麗で、こんなに素敵じゃないですか。それなのに――。あなたはまだ手を触れようとしないんですか?』
ステラ、おい。それに触れるな。
お前だって綺麗で素敵じゃないか。
きっとお前の手が汚れてしまうぞ?
私はお前を護る義務があるんだよ。
だから、もういいんだ。
そんなものは忘れて、もう行くがいい。
私は一人でも大丈夫さ。
『一人で大丈夫? こんなボール一つ触れないのに?』
馬鹿者、触るなと言ったろう。
それは私の――。
……私の?
私の……何だ?
何か、大切な事が……あったはずだ。
それを思い出そうとした。
しかし叶わず、ただ足元の汚いボールをじっと見つめる。
白くて丸い、汚れたボール。
……汚れたボール、だって?
なぜか、急に怒りがこみ上げてきた。
汚れていたら何だと言うのだ?
そんなもの、何ほどの事もない。
このボールは、な。いいか良く聞け。
まだまだ飛べるんだ。
どこまでも飛べるんだよ。
誰よりも高く。誰よりも遠くまで飛べるんだ。
汚かったらこうして、こうして、こうすればいいんだ。
気付いたら、私は自分のドレスで一心不乱にそのボールを拭っていた。
汚くなんかない。全然汚れてないじゃないか。
ほら、見てみろ。こんなに綺麗だ。
ドレスが汚れる? それがどうした。
そんな事よりこのボールの方が、はるかにはるかに大切なんだよ。
ひとしきり作業をして、ふと振り向いた。
そこにはもうステラはおらず、代わりにさっきの野球少年が立っていた。
満面の笑顔で。
まるで、真夏の太陽のような笑顔だった。
「――綺麗にしてくれたんだ!」
彼の声は、何だかとても耳に心地良かった。
その服は泥だらけ、膝小僧はすりむいて、体つきも骨ばっていて弱々しい。
けれど、眩しいほどに素敵な笑顔の少年だった。
私は、入念に拭ったボールを彼に手渡した。
彼は言った。
「ありがとう」――。
この笑顔と、この言葉を。
私はずっと憶えている。
私の大切な思い出。
私の――。初めての恋。
私も、たぶん笑った。
お互い笑ったのだ。
だから、この夢はこれでいい。
目覚めてもきっと大丈夫。
大丈夫だよ、ステラ――。
……ありがとう。
………………。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
「さあ、 これを きて。」
まっくろカラスは、 じぶんの はねを ぬいて、
にじいろインコに かぶせました。
「こうすれば にんげんたちに みつからないよ。」
にじいろインコは、 おどろいて いいました。
「でも、 あなたは みつかっちゃうわ! だって、 はげて しまったもの。」
そうです。 まっくろだった カラスの からだは、
すっかりはげて つるっつる。
とても めだって しまいます。
でも、 まっくろカラスは いいました。
「ぼくは、 みっともなくて みすぼらしい カラスなんだ。」
「いまは、 もっと みっともなくて みすぼらしく なっちゃった。」
「だけど、 みっともなくて みすぼらしいから にんげんだって てをださない。」
まっくろカラスは にじいろインコの てを とって、 いいました。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
夜――。
遠くで虫たちの声がする。
目覚めると、見覚えのない天井が私を迎えた。
ここは――。まだ病室か。
部屋の番号を見てみる。――203、か。
するとここは二階の病室なのだな。
枕元を見る。
私のウエストバッグから、何やら白い袋がはみ出ている。痛み止めか何かだろう。
怪我の具合は……。
これは、ギプス……か。
左手の手首か? そのようだ。
利き腕じゃなくて良かった。
肩も固定されているのか。これはしばらく大変だな。
体の方は……無事か。
脚は、足首か?
これも左か。しばらく杖のやっかいになりそうだな。
まったく……。疲れた。
少し、体を動かしてみる。
ギプスのせいで満足には動かせない。
まあ当たり前だ。ただし痛みは引いている。
寝返りは諦めるか。
それより腹が減ったな。
点滴は……無しか。
あれも慣れれば悪いものではないがな。
看護師を呼ぶか。
いや、動けそうなら試してみよう。
杖はどこだ? カーテンの向こうに……。
私がカーテンを開ける前に、それがサッと引かれた。
レガリスが立っていた。
手にプレートを持っている。夜食か。
「なんだ、もう起き上がって大丈夫なのかよ」
「ああ。――心配掛けたな」
「まったくだよ。ほれ、メシ」
「ありがとう」
私が食事を取る間、彼女はずっとそばに居てくれた。
時おり、取りとめのない話を振ってくる。
あの子の――。ステラの話はしない。
私も彼女もそれを分かっていて、それでも日常にしがみ付いてしまう。
ここは軍であり、我々は軍人だ。
国民のために我々はいつでも死ぬ。
それはまるで……消耗品だ。
だが、私たちは道具じゃない。
血の通った人間だ。
人の死を哀しまぬようになれば――それは人としての尊厳を失う事だ。
食事が終わり、痛み止めを飲む。
その間に彼女がプレートを下げてくれた。
もう夜も更けた。
丸一日近く、ここでこうして寝ていた事になる。
「とりあえず、ひと晩泊まってけ。結構ご立派なホテルじゃねーか。明日からは動き回っていいってさ」
「仕方なかろう……。この際だ、寝溜めでもするさ」
「上から謝辞を預かってるぜ。まあ、いつものご託だ。置いとくぞ?」
「ああ。……この花はお前か?」
「あっ……。いや、あんま好きじゃねーか?」
「ふふっ。――ありがとう」
「いや違うんだよ。あたし花なんざ知らねーから、お前のとこの若いのに訊いたらさ、引っこ抜いて来た奴の八割くらい落とされちまって……」
「花輪でも作る気だったか?」
「いやいや違うって! ただ他にやる事もなかったしさ……」
「勝手に花壇を荒らすとは、とんでもない悪党だな?」
「業者の手間を省いてやったんだよ……。花屋まで何キロあると思ってんだ」
「ここの売店でも買えるだろうに」
「えっ、マジ!? 早く言えよーもーっ! どんだけ苦労したと……」
「ふふっ」
「……あ。いや、大したこたぁなかったけどさ……」
花など、部下に買わせればいいのに。
彼女は、私のためにこれを探して来てくれたんだな。
嬉しかった。純粋に。
そして。
この感情が、一体どういうものなのか――。
まだ分からずにいた。
いや。本当は分かっていた。
分かっていたけれど、まだ答えを出したくなかった。
ちょっとだけ、怖かったから。
私の常識とは違う答えだったから……。
「……あと、明後日な」
「どうした?」
「通夜だから」
「……。そうか――」
「何なら、あたしが上に言っとく。だからお前は……」
「行くよ。私が行かねば始まらんだろう」
「……無理すんなよ」
「大丈夫だ。……ありがとう」
「ああ。……しっかり休めよ」
「あ……」
彼女は告げ、そしてしばらく見つめ合った。
席を立とうとはしない。私もそのまま待った。
……待った?
何を……?
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