<ファイル11>
正直に言えば。
あのレガリスが、この程度の説教で変われるとは微塵も思っていなかった。
どうせしばらくの間だけだ。すぐに元に戻るだろう。
だって、あいつが沈んでいる所なんて、誰も見たくはないのだから。
この私でさえ。
そして夜。
その日の訓練を思い出す。
肉体をいじめ抜く激しい訓練。
残念ながら負傷者も出た。実戦を想定してのものだから、こういう事もままある。
レガリスの様子は、いつもと変わらないように見えた。
ただ何と言うか……あまり私と会話をしたがらなかった、様な気がした。
嫌われてしまったか。
まあ、それも仕方がない。嫌われるのも上官の仕事の内だ。
特に寂しいとは思わなかった。それよりも、あのレガリスが私の言葉を粛々と受け取った、という事実の方がこの時は大きかった。
これで多少は反省してくれたろう。
その程度に思っていた。
さらに、夜。
就寝時間が過ぎて。
自室で、負傷した隊員の補充策を思案していると。
誰かが部屋をノックした。
……こんな時間に誰だろう。
ドアを開ければ、なんとそこにはレガリスが立っていた。
「あ~……。寝てたか……?」
「どうしたんだお前……。ともかく入れ」
彼女を招き入れる。
狭い部屋がますます狭くなったが、彼女自身も妙に小さくなっている。
これは、と考えた。
今日の私の言葉に、何か思う所があったのか。
ひとまず茶を入れ、黙って彼女の前に置いた。
先を促すような事はしない。
言いたい事があるから、彼女はここに来たのだ。
だったら彼女に言わせれば良い。
ぴんと張ったタンクトップの下で、彼女の豊か過ぎる胸が上下する。
深呼吸だ。吐息が夜気に溶ける。
思い詰めた顔で数秒――。
彼女が口を開いた。
「あたし、さ……」
マグカップを両手で抱えて、言った。
「変わりたいとか、そーいうの思った事、なくてさ。別にこのままでもいいじゃん? 楽しいし。そんな風に思ってたんだよな……」
そんな彼女をただ見つめる。
小さなテーブルに両肘を乗せ、静かに語る彼女。
私は窓に背中を預け、後ろ手でカーテンをそっと引いた。
「まあ、それでも歳は取るんだよ。あたしももう二十代後半ってか、アラサーだしさ。あたしみたいなのは最初に死ぬって昔教官に言われたけど、意外と生き残っちまうもんだな……」
この話がどこへ向かうか、分からない。
ただ、最後まで聞こう。そう思った。
それは約束だったから。何時間でも相手をすると。
「やー、でもやっぱり、怖いよな。明日死ぬかもって思うとさ。あたしは後方支援だからまだいいけど、お前パイロットだしな……」
「……私だって怖いさ」
やけに小さく見える彼女に向かって、言った。
「怖くなかった事など一度もない。お前と同じだよ」
「そーだよなー……。うん、そーだよ……」
そしてまた、揺れる茶の水面に視線を落とす。
彼女の口から、「怖い」という単語が出た。
皆が口を揃えて怖いもの知らずと形容する、あのレガリスの口から。
そう。それは当然だ。何もおかしな事はない。
戦争は怖い。
敵の銃弾に身を貫かれる恐怖。
撃墜され、爆発四散する恐怖。
戦争に乗じたテロリストに首を斬られる恐怖。
どれも怖い。
怖いと思うからこそ、我々は生きようとする。
死にたがりは戦果を上げられない。
明日も新しい戦場に、新しい機体が向かう。
だがそれを操縦するのは、私ではないかもしれない。
新しい機体には、新しいパイロットが搭乗するのかもしれない。
古い軍人は知っているのだ――新しい戦場の怖さを。
「怖いからさ。いつも笑っていたいじゃん。普段は。人恋しいじゃん。……人肌が、さ。あたし、いつ死んでも後悔したくねーんだよ。だから……」
「…………」
「うちの連中、バカだろ? でも頑張ってんだよ。頑張ってんのに明日死んじゃうかもしれないんだ。そんなの嫌じゃんか。だからさ、せめて生きてるうちに……。とか思って……」
「…………」
何となく気付いていた。
彼女のセックスへの執着は、そのまま生への執着だった。
スキンシップの延長。
コミュニケーションの手段。
そうした側面も確かにあるけれど、彼女が本当に欲していたのは……。
肌の温もり、だ。
豪放磊落、細かい事は笑い飛ばし、常に感情で動く彼女の本質は。
こんなにも「弱かった」。
新兵だった頃の神田橋との付き合いで、彼女はこう言っていた。
なんか放っておけなくてさ。あいつ、あたしが居ないと消えちまうような気がしてさ。
それは、レガリス自身の事でもあった。
彼女自身が、消えてしまいたくなかったのだ。
大きな彼女の体に、多くの新兵が甘えた事だろう。
でも本当に甘えたかったのは?
そう。彼女だ。
彼女だって甘えたかった。
この時、私は――。
正直に書くぞ。
彼女をその、何と言うか。
愛しい、と思った。
……思ってしまった。
恋愛感情ではない。上司部下の関係でもない。
ただ一人のか弱い女性を、抱きしめたい。
護ってやりたい。
甘えさせたい。思いきり。
明日も笑顔を見せてくれるように。
……そう思った。
彼女が口を開く。
「初めてお前と飲んだ時……。憶えてるだろ? 絶対勝てると思ったのに、結果見事に撃沈さ……」
ああ。忘れないよ。
あの夜の事は。
「あたし……。嬉しくってさ」
嬉しい……?
それはなぜだ?
「自分が誰より自信を持ってる分野でさ。あそこまで完ッ全にやられたのは初めてだったよ。……それで分かったんだ。あ~、お前が上官で良かったな、って」
「良かった、とは?」
「あたしの上に立つ人間が、あたしより弱くてどーすんだよ。……何も腕っ節だけじゃねーや。ともかく何でもいいから、あたしの得意分野でこのレガリス様を叩き潰して欲しかったんだ」
「なるほど、な……」
レガリスは、そう。
それまで、本当の意味での「負け」を知らなかったのだろう。
もちろん日々暮らす上で、避け様のない「負け」はある。
勉強で上を行かれたり、細かな間違いを指摘されたり、多少時間に遅れる事さえ、負けと言うなら負けである。
ただそんな事は、彼女にとっては瑣末な問題だった。
彼女は。
彼女が「勝ちたい」と心から思う事すべてに、勝ち続けて生きて来たのだった。
それは腕っ節の強さであり、酒の強さであり、奔放な男女遍歴であり。
彼女のアイデンティティを構築しているすべてのものだ。
「レガリスが、レガリスである事」。
これらはそこに深く関わっている。
そして私は、初めてそれを壊した。
「レガリス・マクルーア」という人間に、初めて勝った人間だったのだ。
だから彼女は私を認めた。
そういう事だったのだ。
嬉しそうに話す彼女が、不意に下を向く。
次に上を向いた時、その顔には、言い知れぬ何かが影を落としていた。
彼女は言った。
「……でもさ。あたしが一人の人を好きになっちまうと、他の連中はどうなるんだろ……?」
それは、寂しさと……渇望。
手に入れる事が叶わない何かを夢想する時、人はこんな表情をする。
「あたしは絶対に抜け駆けなんざ許さないんだ。みんなで幸せになりたいんだよ。……あたし、みんなが好きなんだよ」
カップを置いた。
そっと、彼女の前に立った。
どうしても言いたくない事を言う時。
言っておかねばならない時。
こんな風に……今の彼女のように、人は頭を抱えるのだろう。
護るように。隠れるように。
「みんな好きなんだ。それなのに……」
意を決して、彼女が言う。
「あ、あたし一人幸せになっちゃ、やっぱ駄目だよ……」
「駄目な事があるか!!」
叫んでいた。
驚いた彼女が顔を上げた。
「馬鹿が。この馬鹿者! お前のおかげでどれだけの兵が笑っていられると思ってるんだ。お前にどれだけ感謝してると思ってるんだ? そんな事も分からんのか、お前は!?」
「でも、あたしは……」
「お前を知るすべての人間は、みんなお前に幸せになって欲しいと願ってるんだぞ。みんながそれを望んでるんだぞ? その気持ちをお前は踏みにじりたいのか!?」
「そうじゃねーよ! そうじゃねーけど、あたしは……」
「いつまでもグダグダ言ってんじゃねーよ!!」
だん、と机を叩いた。
びくっと彼女が震える。
「いいか、人生ってのは一回しかないんだ。だったら少しは好きに使え!! これは命令だ!!」
かつての彼女の言葉を叫んだ。
深く私の胸をえぐったあの言葉。
一字一句、忘れられないあの言葉を。
「お前だって……。そろそろ幸せになってもいいんだ。幸せになって欲しいんだよ」
あの時の言葉に、自分の素直な気持ちを乗せた。
彼女は誰よりも強くて、だから皆の心の支柱だった。
だが彼女は、本当の彼女は、誰よりも怖がりな一人の弱い女だった。
彼女の笑顔は皆の心を温めた。それは彼女自身にも向けられたものだった。
怖くて仕方がないから、無理をして笑っていたのだ。自分でも知らないままに。
そして私は知っている。
本当に強い人は、怖がりなのだ。
怖さを知っているから強くなれる。
だから、彼女の強さは本物なのだ。
本当に強くて、けれど本当に弱くて。
そんな彼女を、私は。
私は――。
「……幸せになれ、レガリス。私が護ってやる」
そして彼女を抱きしめた。
強く。優しく。
私の大切な――。
家族を。
柔らかく、そして熱かった。
彼女を感じる。
美しいプラチナブロンドの、清楚な香りを知った。初めて。
彼女の吐息が私の胸に掛かる。
押し当てられた彼女の胸。その鼓動を感じる。
どこまでも大きくて、柔らかい、それ。
この世に、こんなに柔らかいものがあるのか……。
そう思った途端、自分の胸が高鳴るのが分かった。
――とくん。
いや、何故高鳴った!?
何と表現するのか分からない、生まれて初めての感情に、私は。
私は――。
おずおずと伸ばされた彼女の腕が、私の体をしっかりと抱きしめた。
熱い吐息が、胸に……。
……また、高鳴る。
――とくん。
何だろう。
不思議な感覚が……。
大切な仲間を、家族を護るための、この私の腕に。
今、彼女が。レガリスがいる。
そして私の体を抱きしめる彼女の腕。
力強いけれど、繊細な、それ。
その事が何か……。特別な、何かの……。
この腕がみんなを抱きしめた。
今は、私を――。
私だけを……。
――とくん。
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