<ファイル9>
そう、銃を下ろしたのだ。
そのまま医者から目を逸らさず、ごく自然に、右の脚に体重を掛けた。
これで、レガリスの体が射線に晒される。
もっと言えば、これでレガリスが自由に動ける。
そしてレガリスは。
……背後にいてさえ感じられる、歓喜の獣を惜しみなく滲み出させながら。
ゆらり、と動いた。
獰猛な笑みを浮かべて。
「――止まれ! 本当に……う、――」
「撃てよ」
レガリスが私を越え、オカダと並ぶ。
止まらない。
ゆらり。
「……撃つぞ!?」
「撃てよ」
「この距離なら――」
「撃て」
「……!!」
ぎし、と音がした。
続けざまにぎし、ぎし、ぎし。
医者が何度引き鉄を引いても――。
銃は沈黙していた。
その銃ごとレガリスの手が掴み、軽く捻った。
いくらも力を込めたようには見えなかった。
ごきん、と響く音と、医者の悲鳴が同時に轟いた。
医者の右手は――。ぞっとするような角度で天を向いていた。
その手から落ちた銃を、レガリスが後ろも見ずに踵で蹴る。
床を滑り来るそれを、私が爪先で踏み止めた。
そうなのだ。弾が出る筈がない。
引き鉄が引けないのだから。
ヴァルターの体を、レガリスが軽々と抱きかかえ――その腰をまさぐった時。
私は見たのだ。
手クセの悪い彼女が、ヴァルターの銃の引き鉄に……。
応急キットを擦り付けるのを。
そう。体に無害な「瞬間接着剤」である。
テントの中で彼女がおもちゃにしていた、応急キットの空き箱。
中身を使ったからこその「空き箱」である。
彼女は最初から気付いていたのだ。
ヴァルターの嘘を。
雪国出身で、古参兵でもあるヴァルターが、あんな間抜けな怪我をする訳がないのである。
これは、衛生兵とヴァルターによる狂言――。
では、何故そんな狂言に臨んだか?
それも答えは出ていた。
ここに、例の医者がいるから。
金の卵を産むガチョウが、麓の町にいるからである。
日々、体を酷使し、上官に尻を蹴飛ばされるよりは、馬鹿な患者に薬を売った方が楽だ。
いつ死ぬとも知れないならば、前線よりも町にいた方が割が良い。
独房よりはブタ箱だ。
もちろん、稼ぎは多い方が良い。
そんな理由で、仲間を――家族を裏切った二人の男。
私はずっと疑問を感じていた。
医者の高飛びが早過ぎる。
目立つレガリスの裏で、私は真綿の橋を渡るように慎重に捜査を進めた筈だ。
絶対に悟られる訳がない。
それでも医者に逃げられた――。
その理由は。
内通者が居たからだ。
我々のごく近くに。
私はすべてのデータを洗い直した。
経歴、賞罰、出身地。
砂の山を指ですくって、ほんの僅かに残った粒の中に……。私は見付けた。
それが、この町の名だった。
件の医者が幼少期を過ごした場所。
今回の雪中行軍は。
何事もなければ、部隊を先に帰し……私だけで後詰めをする算段だった。
しかしそれは起こった。
軍の基地という檻を出て、しかもそのすぐ近くに金の成る木がある――。
この千載一遇のチャンスに、二人は賭けた。
私の用意した餌に食い付いたのだ。
あの時。
ヴァルターが、怪我をしたと自己申告しなければ。
私は未だに内通者の名を知る事はなかっただろう。
機会をうかがっていたのは、彼らだけではない。
二人にとって最大の障壁となるのが、この私とレガリスだろう。
ひとまず私の事は良い。部隊を単独で離れる事などないのだから。
問題はレガリスだ。
計画通りに事が進めば、まず確実に町まで随伴して来るだろう。
そういう役目に最も適しているからだ。
――ならば。
逆にそれは、好都合ではないか?
例えば、スノーモービルの運転中。
首筋にぴたりと銃口を当てられ、何発も食らわされたら。
いかな巨体のレガリスと言えど……。
死体は谷底にでも落とせば良い。
それが見付かる頃には、晴れて俺たちは自由の身だ。
そして、当のレガリスは。
驚くべき事に、それを知っていた。
知っていたのだ。
それは、この雪中行軍の予定が発表された時。
「何故」この場所で、この時期に、この教練なのか――。
そうした事に考え及んだ人間は、私の隊ではレガリスただ一人であった。
そのレガリスと二人だけでテントに収まったのは、もちろん偶然ではない。
このために。
トカゲの頭を捕らえるために必要だったからである。
彼女だけが真相を知り得た理由は……。
うん。後で書く。
ともかく。
だからこそ、レガリスは行こうとした。彼らと共に、町に。
彼女なりに思う所があったのだろう。
きっと二人を問いただし、場合によっては、その場で片を付けるつもりであったのだろう。
だが私はそれを止めた。
それは彼女の危機を救いたかったから……ではない。
いや、すまん。正直に書く。
もし彼女を行かせたら、まず間違いなく、件の医者へ繋がる線は断たれてしまうであろうからだ。
だから私はオカダを行かせた。
彼は腕が立つのもあるが、医者に顔を知られていないという絶好の条件を満たしていた。
ヴァルターたちは困惑しただろう。
されど考えてみれば、レガリスよりはまだ御しやすい筈だ。
計画に修正はない。
何なら、この小僧に一枚かませてやっても良い。
尻尾を振って付いて来るなら、分け前をやろう。
けれども、お前があくまで良い子ちゃんでいると言うなら、その時は……。
搬送の直前、オカダに指示を出したのは、つまりそういう事である。
オカダ自身も医者の高飛び事件は知っている。
それに繋がる重要な任務だ。
あの二人は内通者なのだ。
従順でいろ。逆らうな。軍への不満を語り、自分から酒や薬に興味があると言え。
このまま軍から逃げられたら……。そんな風に語るんだ。
真意を悟られるな。そうなったら、奴らはお前を消しにかかるぞ。
いざとなれば、ためらわずに引き鉄を引け。
お前自身を護るためだ。
すべての責任は私が取る。
そして、そいつを抜く時が来たなら……。
まず、衛生兵から先に撃て。ヴァルターの銃には細工をしたから。
内通者の二人は。
共に、この私よりも軍歴が長く、幾多の戦場を生き抜いて来た古参である。
そう。相手もプロなのだ。
彼らが私の持つ情報を知り得たのは、私の周囲に仕掛けられた――盗聴器のおかげだ。
それは今でもテントの中にある。
私の装備にそれが潜んでいるために、二人は私の動向を逐一知る事ができたのだった。
それを知っていたから、私は。
テントの中での、レガリスの言葉――。
『いや分かってる。麓の町に――』
ここで、手を振って黙らせたのだ。
それ以降は、口では当たり障りのない会話をしながら……。
軍隊式の「手話」によって、踏み込んだ会話をしたのだった。
ランタンの光に踊る影法師。
鳥のような、獣のような指の動きで、互いの言葉を重ねる。
そして、一度「寝る」と宣言してから、音を立てずにそっと発つ。
だから準備は万端だった。
後はオカダからの無線連絡を待つだけだったのである。
……医者の悲鳴は、くぐもった唸り声に変わった。
ヴァルターと衛生兵は、すでに自分たちの敗北を悟っていた。
二人とも壁に背を預け、まるで他人事のようにレガリスを見上げている。
オカダはようやく銃を下ろした。
巨獣のようなレガリスの股の向こうで、しゃがんで手首を押さえる医者。
恐らくは猛烈な痛みのために、額に脂汗が浮かんでいる。
医者の呪詛の声が響いた。
「……クソが……」
レガリスの表情は見えない。
見えないが、きっと舌なめずりでもしているのだろう。
医者にとっては、悪魔とベッドを共にした方がマシな筈だ。
「ぐぅ、軍の規範に則った……、対応を、期待する! 拷問はっ、禁止されて……」
「てめぇ軍を捨てたろ?」
あの深い、太い声。
医者の表情に、明らかな怖れが混ざる。
彼の正面に立つ化け物は、この世で最も理屈の通用しない女だ。
「やめろ……、やめろ! 大尉っ、何とかしてくれ! この……この女を止め……っ、やめろっ! 分かった自首する! 何でもするから……」
無言で、レガリスは医者の襟首を掴んだ。
ひっ、と悲鳴が上がる。
そのまま片手で医者の体をずるずると持ち上げながら、レガリスは言った。
「……言ってみな」
「ぐっ……、え……っ!?」
「てめぇがした事を。……言ってみな」
宙吊りになりながら、医者は茫然とレガリスを見る。
その顔がみるみる赤く染まって行く。
喉から絞り出すように、言った。
「悪かった……、わるがった!! もうじないっ、誓っでもうじない!!」
「…………」
「おおぉ、おれはっ! くずりをうっただげだぁっ!! それだけ……ぞれだげだよおぉぉっ!!」
「……それだけ?」
私は動いた。
明らかに、レガリスの声音が変わったからだ。
すでに軍規を超えている。
この上、人が許される範囲を超えさせてはならない。
肺に残った最後の空気を吐き出すように、医者は叫んだ。
「ごぉ……おれのぜいじゃないぃっ! あの帽子の小僧が死んだのは――」
突然、医者が消えた。
ぐしゃり、と音がした。
レガリスが、あらん限りの力で医者の股間を自身の膝に叩き落としたのだ。
ひゅっ、と呼気を漏らし、ぐるりと白目を剥いて医者は気絶した。
ごぼごぼと泡を吹くそれを無造作に投げ捨て。
怒りに満ちた声で――言った。
「――帽子の小僧、じゃねぇ」
そして、もはや動かぬそれに告げた。
「リカルド・マンザーロ。……あたしの家族だ」
振り向いたレガリスの目には、すでに怒りの色はなく。
ただ、虚しさだけが漂っていた。
こうして事案は収束した。
私は彼女を止めなかった。
あの時。
止めようと思えば、私は彼女を止められた筈だった。
だが、それをしなかった。
彼女のするがままにさせたのだ。
上層部に報告せず、私情で兵を動かした事。
新人の兵を危険に晒した事。
民間人に暴力を振るう部下を看過した事。
どれもが、私の軍歴に終止符を打つに足る失態である。
しかし私は今でもこうして隊を率いている。
神はまだ、私に仕事をさせたいらしい。
あの後、また二人で墓参りに出かけた。
花はやはり私が買った。
彼の帽子と同じ色の花に、すべてが終わった事を伝えた。
あの時、私は。
何故……彼女を止めなかったのか。
その問いに、彼女は陽気に答えた。
「ブタが嫌いだからだろ?」
そして、笑った。
大輪の薔薇のような笑顔だった。
そうだな。うん。
お前の言う通りだよ。
ちなみに、彼女が何故、前もって事件の真相を知り得たのか。
それには、こんな答えが返って来た。
「そりゃお前。……いつもお前を見てたからだよ」
…………。
…………。
…………。
ばーかばーか知るか!!
ちょっと休憩!!
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