第17話 英会話力は詐欺の道具

 今回は趣向を変えて、短編小説風に書き始めます。私もサラリーマン社会から引退したわけではないので、以下に書き綴る小説はフィクションと言う前提です。その辺の機微は察して下さい。


“彼”は、誰にも聞こえない小さな溜息をフウッと吐くと、やおら椅子から立ち上がり、喫煙ルームに向かった。

 以前の自分とは違い、廊下を歩く足取りが遅い。“重い”のではなく、“遅い”。“彼”には急ぐ必要が無かった。いや寧ろ、急いで歩く事は自分の精神状態を追い込む事につながる。

 何故ならば、“彼”に下命される業務はゼロ。始業時間に出社するものの、手持無沙汰のままで一日を過ごす。パソコン画面の向こうに広がるネット空間を彷徨さまよい、忘我の境地で虚ろな目を漂わすのみだ。

 今や部屋のあるじとなった喫煙ルームの扉を開けると、胸ポケットから取り出した煙草を口にくわえ、立ち上る紫煙を茫漠と眺める。

 道に迷える旅人をたぶらかす悪霊のささやきがごとく、毒を含んだ薄霧うすぎりの向こうに“彼”の過去が走馬灯のように浮かび上がる。


“彼”の所属チームは、海外同業者との合弁会社設立を目指した折衝、上手く話が進めば実行までを視野に入れている。

 チームリーダーはX部長エックス部長。X部長は遊軍的存在の部付担当部長であり、組織運営のラインには組み込まれていない。ちなみに、チーム構成員はX部長と“彼”を含めた総勢5人である。

 組織として未来永劫に機能を果たす事は期待されておらず、チーム編成期間は海外進出の機運が高まった昨今に限定されている。

 だから、“彼”を始めとする構成員は、X部長の指揮下で動くものの、人事管理上の上司は組織長のY部長である。誰が自分の働きを正当に評価してくれるのか?――が不明瞭な捻じれた位置付けにある。

 チームリーダーにX部長が推された理由は、英語を話すのが上手いからだ。

 正確に評価するならば、生来しょうらい滑舌かつぜつの悪さが英語特有のR音に磨きを掛け、少なくとも日本人にはソレっぽい英語に聞こえる。帰国子女ではなく、東南アジアに赴任していた際、必要に迫られて猛勉強したらしい。

 反面、日本語を話させると、何を言いたいのか?――がサッパリ分からない。不明瞭な発音もことながら、論理建てて話す事が絶望的に苦手なのだ。加えて、最後まで話し終えず、エヘヘと笑い始める。本人は愛想笑いのつもりらしいが、意思疎通の観点からはマイナスでしかない。


 外国人との対話において日本人特有の機微きびは全く通じない。「察して欲しい」なんて甘えは通用しないのだ。論理的説明と定量的なメリット提示が不可欠である。

 X部長の素質を評価するに、その両方が絶望的であった。そんな事は“彼”も承知している。だから、海外出張前にはプレゼン資料を念入りに準備し、X部長に対して綿密にブリーフィングを行った。


 最初の大仕事の相手はインド人であった。勿論、先方との対話言語は英語。

 X部長相手のブリーフィングは日本語だが、プレゼン資料は英語である。英語が苦手な“彼”であったが、紙面に簡単な英語を並べる分には翻訳アプリを活用すれば済む。別に英文の契約書を準備するわけではないのだから。

“彼”も随行したが、英語が話せないので、折衝役はX部長であった。“彼”が横に控えた目的は、交渉時の参謀役としてであった。但し、“彼”には協議の流れを理解できなかった。

“彼”は折衝を終えた後にX部長から日本語で報告を受けるのみ。毎度の事ながら「頑固なインド人が中々同意しない」の単調な結果報告。“彼”にとってもどかしい時間が無為に過ぎていく。

 さて、サラリーマン社会では“ほうれんそう”が鉄則である。本社ビル内“関係部門”との定例報告会で進捗を報告せねばならない。

 その定例報告会にはチームリーダーのX部長のみが出席する。社内では複数の折衝チームが多種多様の商談を進めており、1チーム・1名の参加が妥当であった。

 X部長は定例報告会の席で「交渉が進展しません」と短い報告しかしない。確かに事実ではあるが、半年も1年も同じ台詞せりふを繰り返していれば、周囲の者は「あの案件は駄目だな」と認識し始める。

 数年に渡ってインド人と不毛な協議を重ねるも、議論は深まらず、遂に交渉は流れてしまった。


 次なる大仕事の相手は中国人であった。先方との対話言語は中国語。

 当方は通訳を随行した。“彼”とX部長は立ち位置は同じ。但し、中国人は面子なり序列を重んじるので、日本側の主張として通訳が伝えるのはX部長の発言のみである。

 インド人相手の前回とは違い、“彼”には協議の流れを理解する事が出来た。そこで判明した驚愕の事実は、X部長に任せておくと交渉にならないと言う事。

 慌てた“彼”はX部長に交渉現場での発言を指南し始めた。“彼”自身も、それだけで交渉が進んだとは自惚うぬぼれていないが、兎に角、中国人との交渉は前に進んだ。

 次なる折衝相手は当方(日本)の本社ビルに跋扈ばっこする“関係部門”である。


“関係部門”を説得するには、「この案件は〇〇と言う理由から事業戦略上、重要なのです!」と論理的に、且つ声高に力説する必要がある。

 ところが、社長は、第12話『日本の民間企業に民主主義は無し』で指摘した“石橋を叩いて(渡らずに)壊す”タイプの典型だった。社内にも“忖度そんたく”の風潮が蔓延している。

 哀しいかな・・・・・・、必然的にX部長は押し黙ってしまう。

――これでは埒が明かないじゃないかっ!

 奮起した“彼”は、

「事業部内で幅広く議論し、この案件の必要性を組織として社内でアピールしましょう。執行役員にも協力して頂ければ、突破口を拓けるかもしれません」

 と、X部長に進言した。

 でも残念ながら・・・・・・、X部長は事業部内ですら声を上げようとはしなかった。

 中国側に立つと、提携相手の候補は我社に限らない。真っ当な経営判断をする中国側は「早く決断してくれ。これ以上の時間浪費には耐えられない」とX部長を催促する。

 こうして、中国案件でもまた、交渉は流れてしまった。


 3番目の案件はインドネシアを舞台としていた。

 ところが、この案件に経済合理性を見出す事は不可能だった。交渉を始めても意味が無い。

 その事実を“彼”はX部長に指摘する。

 ところが、頭の弱いX部長――京都にある超有名大学出身――は、国際線の飛行機に長時間揺られ、肉体に溜まった疲労感に「俺は仕事をしている」と自己陶酔する性癖があった。随行者は徒労感しか感じないのだが・・・・・・。

 結論を先に言うと、X部長は“彼”の進言を黙殺し、インドネシア案件の交渉を始めてしまう。「粘り強く交渉していれば、次の世代の10年後には成就じょうじゅするかもしれない」との理解不能なコメントと共に。


――X部長に従っても成果は上がらない。一方で、既に5年の歳月が無駄に過ぎている。我々4人は人事上の塩漬け状態に甘んじており、いたずらにキャリアを棒に振るうだけではないか!

 我慢の限界を超えた“彼”はX部長に談判する。

貴方あなたの短所は自分で考えない事だ。部下の説明を聞いたら思い付きで質問を差し挟むだけ。リーダーなら、まずは自分の交渉戦略を明らかにしては如何か?

 その遣り方を採用すれば、貴方は自ずと自分で考えざるを得なくなる。遅ればせながら、考える習慣を身に着ける事が出来るでしょう。

 思考力を鍛錬すれば、社内“関係部門”を説得する事も叶うでしょう」

 勿論、“彼”も最初はオブラートに包んで談判した。ところが、X部長は理解できない。

 仕方無く、“彼”はオブラートの包装を1枚1枚とぎ、徐々に直截的な表現に変えて何度も談判した。

 そして最後に、X部長が“彼”の談判を理解できた時には、「何て失礼な事を言うんだ!」と逆切れしたのだった。


 煙草の火がフィルターに近付き、単なる時間潰しに過ぎない5分の終了を“彼”に告げる。“彼”は口から紫煙と一緒に溜息を漏らす。今日も無聊ぶりょうかこつ時間が何時間も続く・・・・・・。

 最近、『頭にきてもアホとは戦うな!』と言うタイトルの書籍が売れていると聞く。世の中には自分と似た人間が溢れているのだろう。

――でも、何も行動を起こさなければ、自分だけでなく4人全員のキャリアは蝕まれるだけだっただろう。

“彼”は義侠心に駆られ、現状打破の誘惑に突き動かされたのだったが、サラリーマンとしては決して褒められる態度ではなかった。


 さて、この短編小説の後日談を解説しておきます。くだんのX部長は、適齢期を過ぎても出向なり転籍せず、“本体”に居続けます。“本体”で戦力視されたと言うよりも、引き取り手が現れなかったと言うのが真相のようです。

 一方の“彼”は、“彼”をうとんだX部長から組織長のY部長や執行役員に「素直でない」と告げ口され、子会社に出向する事となります。

 唯々諾々とX部長に従っていた“彼”以外の3人は、引き続き無聊ぶりょうかこつのですが、X部長が年満直前に子会社へ転籍となったので、後任チームリーダーの下で遣り直しました、とさ。


 この短編小説を書きながら私が思うに、貴方が英語を流暢りゅうちょうに話せると、外国人との交渉が不可欠な業務に投入される可能性は高くなります。

 そして、英語での交渉経緯は一種のブラックボックスと化し、組織内で正確に報告されなくなります。平たく言えば、当人の無能さに敗因が有っても、当人が自分に都合良く報告するのでバレません。

 一方で、海外進出を迫られる日本企業は、時代を追って今後とも増え続けるでしょう。反面、ニーズの高まり具合ほどには、英語に堪能な社員が集まりません。

 つまり、英語力は貴方の立身出世だけでなく、その後の保身に役立つ武器だと言えます。

 もう一つ指摘しておきます。

 将来、貴方の部下として英語に堪能な者が配属されたら、その部下の真贋しんがんを冷静に見定めて下さい。

 我々日本人は英語力にけた人間を優秀だと思い込んでしまいますが、知能レベルとは無関係にアメリカ人全員が英語を話すのです。英語力は知能レベルを測る物差ものさしではありません。

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