第8話 日本人の誇るべき気質、それは「地道」に取り組む姿勢
私が入社後に初めて配属された部署は工場のスタッフ部門でした。
配属されて翌々月の事でしたが、工場で死亡災害が発生しました。当時の私よりも若い高卒の従業員が機械に身体を挟まれてしまい、詳しくは知りませんが、圧死したのだと思います。
ショックでした。殉職とは警察官か消防士にしか当て嵌まらない言葉だと思い込んでいました。製造業の場合、工場は危険職場なんですね。特に重量物を取り扱う工場の場合は死と隣り合わせの危険な職場です。
強烈な印象を受けた体験の後、社内教育の成果や、そう言う意識でニュースを見るようになりましたから、製造業に限らず、あらゆる産業に危険職場が存在している事を今では理解しています。
分かり易い事例が建設業や運輸業ですよね。工事中のビルから転落したり、長距離バスの交通事故なんかのニュースは、貴方も耳にした事が有るのではないでしょうか。
「安全第一」とは単なるスローガンではなく、本当に最優先で考えなければならない事です。
このエッセイは大学生を念頭に書いています。貴方が社会に出たら、恐らく作業現場から一歩引いた立場で働くでしょう。より大所高所の観点から判断し、会社を成長させていく事が大卒の人材には期待されるからです。
でも、現場の最前線で働く人達が縁の下で働くからこそ会社は成立しているのであって、彼らの安全と健康を気遣うべき事を肝に銘じて下さい。
さて、安全第一を心掛ける習慣は日本企業の美徳だと思います。但し、安全第一の美徳は先進国に限られた思想とも言えます。
第2話『牛後と鶏口』で軽く触れた“5S”と言う単語を聞いた事がありますか?
ローマ字で書いた整理、整頓、清掃、清潔、
雑然とした職場では足を取られて転倒しかねませんし、整頓されていない道具箱から作業の度に必要な工具を探し出す手間は労働時間の無駄を生みます。日々の掃除を通じて設備の不具合を早期に見付け、壊れる前に補修する事は安全作業と操業トラブルの予防に
先に「安全第一の美徳は先進国に限られ」ていると書きましたが、世界を見回すと、5Sまで徹底している企業は少数派です。この躾こそが日本人労働者の質を高いレベルで維持する地道な秘訣なのです。
ところが、極めて退屈です。
率先して自主的に努める人間は稀な存在だと思います。
現に、職場ではマメに整理整頓を心掛ける者でも、自宅に戻れば自堕落な部屋で無頓着に過ごす人間は多いと思います。
独身者ならば洗濯物が散乱し、家族持ちの家庭は綺麗だとしても、その功績は妻に依る処が大なんて事例が大半だと思います。
何が言いたいか?――と言えば、発展途上国の企業では必ずしも「安全第一」とは考えていません。彼らの目指す標語は「利益第一」であり、往々にして安全対策にコストを掛ける事を
2013年に発生したバングラデシュの労働災害が日本でもニュースとなりました。
自社の職員が直接的な被害者ですらない環境対策に至っては真面目に考えようともしません。周辺住民が迷惑を被っていたとしても無視する傾向が強いでしょう。
日本企業でも半世紀前まではそうだったのですよ。
水質汚染で悲惨な公害を招いた水俣病やイタイイタイ病。全国各地で喘息患者を続出させた大気汚染。企業だけでなく、一般国民も自家用車の排気ガスで大気汚染に加担していました。日本人の環境意識が変化したのは、1967年に公害対策基本法が施行され、1971年に環境庁が設置工されてからだと言えるでしょう。
一方、現代の発展途上国は、高度成長期の日本に相当し、公害を封じ込めようとする社会運動が高まっていません。珍しい事例を挙げるならば、近年、中国共産党が環境対策を企業に強制し始めたくらいではないでしょうか。
反面、経済のグローバル化は深化しています。
すると、同じ商品を製造するにしても、安全対策や環境対策にコストを費やす日本で製造した場合と、そんな事には御構い無しの発展途上国で製造した場合とを比べ、どちらの製造コストが安く仕上がるか?――は明らかですよね。
発展途上国の賃金レベルが日本人と同等レベルまで上昇したとしても、こうした目に見え難いコストが積み重なって最終製品の価格競争力を左右していきます。
残念ながら、100%の公正な競争条件をグローバル経済に期待するのは無理難題とも言えます。
何やら日本企業に不利な事を書き連ねて始まった当章ですが、私自身は「そんなに捨てたものでもない」と一方では感じています。
小見出しに書きましたが、日本人の“地道に取り組む姿勢”は誇って良いと思います。他人の目に触れない処でも決して手を抜かない道徳性は日本人の貴重な財産です。
私自身がアンケート調査したわけではないので単なる印象論ですが、世界中の人々は日本製品を信頼していると思います。この信頼を支えている要素は、製造業に関して言えば、“均質性”と“検品”の2つだと私は思います。
伝統工芸を除けば、大半の製造現場では機械が素材を加工していると思います。加熱、鍛造、切断、切削、曲げ、成型、着色、等々。特に産業ロボットや工作機械を使って加工する場合、
幾つもの単純作業を繰り返すから機械を採用するのですが、少なくとも人間並みの人工知能が組み込まれていない現代の機械は、目の前にセットされた素材や半製品の状態を確認して、インプットされた作業手順に手心を加えるなんて高等な芸当を
つまり、前工程までに仕上がった素材や半製品が均質でなければ、出来上がる製品も均質とはなりません。隅が曲がっていたり、微小な疵や不具合が発生してしまいます。それらの作り損ないは
一方で、どれほど神経を尖らせて工場の現場作業員が作り込んでも、工業製品ですから歩留が100%となる事はありません。だから、不良品が客の手に届かないように、出荷前に最終検査をして、最後の関所を設けるのです。
2017年に神戸製鋼所他の複数企業が最終検査を
そして、話が前後しますが、“均質性”は、現場作業員が黙々と作業標準書通りに機械を操作する事で初めて実現します。
「自分の創造性を信じて、この職場での作業を今日は変えてみよう!」
なんて現場の誰かが考えると、全体の調和が崩れるのです。品質にバラツキが生まれます。
勿論、創造性を否定するものではありません。「改善すべきだ」と皆が納得すれば、作業標準書を改訂すれば良いのです。作業標準書の改訂を待たずに、勝手に行動し始める事が問題なのです。
ファーストフードのチェーン店に常備されるマニュアル本と同じです。接客業においては度々「マニュアル対応は慇懃無礼で冷たい印象を与える」と批判されますが、製造現場では必要不可欠な存在です。
第2話『牛後と鶏口』で挙げた「操業技術」とは、必要に応じてルールを改訂し、それを現場作業員に守ってもらう事に尽きます。
“均質性”と“検品”の良し悪しは商品の耐久性に現れます。如何に長い年数、動作不良等の不具合を起こさずに消費者の使用に耐えられるか。日本製品は長く壊れないので、信頼を獲得しているのです。
スマホや家電製品のメーカーとして中国メーカーが世界的に圧倒的な位置付けを占めるようになりましたが、電子部品やモーターの類では日本企業の製品が引き続き使われている――と言う記事を経済紙で目にします。
第3話『農耕民族型と狩猟民族型』で述べたBtoBの業種では、日本企業だろうが外国企業だろうが、継続的取引を目指すならば“信頼”が不可欠です。だから、部品産業においては
ところが、BtoCの業種――特に工業製品――においては、相対的に耐久性が重視されません。一般消費者が商品購入時に耐久性を検証する事は不可能です。また、流行や技術革新に左右され易い商品サイクルの短い商品では
さあ、今回の結論です。
貴方が製造業への就職を考えるならば、「門戸を叩いた会社の商品は果たして日本人の真面目な気質を活かせる商品だろうか?」。そう自問してみて下さい。
サービス産業でも同じだと思います。日本人の“おもてなし”の精神が活かせるサービスだろうか?――と自問自答してみて下さい。
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