第五話

~放課後~


 「4人とも準備はいいかい?」


 星良君、唯里君、瑠香君そして凛君は体操着に着替えて更衣室から出てきた。


 重装機兵部の部室はほかの部活動と違って部室棟にはなく、第二校庭と軍研究所の間にあり、部室とは思えないほど設備が充実している。


 まあ、その紹介は後々にやるとして、今日はさっそく本題に移ろう。


 「はい。あの、それで今日は何をするんですか?予定では体力づくりになってましたけど…?」

 「まあ、ここで説明するより実際に見てもらった方が早いかな。じゃ、付いてきて」


 僕は体操服の4人と制服を着た1人の生徒を引き連れ目的地へと向かう。と言っても、部室から外へ行くのではなく、部室の奥にある普段は電子ロックがかかった扉に入る。


 「聞いていると思うけど、この扉の先は陸軍の施設に繋がってる。この中で見たこと全部が外で話しちゃいけないってわけじゃないけど、隣が研究所だからその関係の物がある可能性もあって、それは絶対に口外しちゃいけないからね」

 

 4人は黙って頷いたが、残る1人が可愛らしく挙手する。


 「どうしたの、未彩君」

 「私、本当に入部希望じゃなくてただの見学って言うかー、凛の付き添いなんですけど、そういう人連れてって大丈夫なんですかー?」

 

 未彩君は生徒たちの中でただ1人制服のままでいる。僕も今日の見学に参加するとは思っていなかったが、凛君を心配してついてきたらしい。結構斜に構えているような感じがするが、意外と世話焼きなところがあるのかもしれない。


 「大丈夫だよ。先方からは許可出てるから」

 「そうなんだ。軍の研究所ってもっと厳重な警備してるのかと思ってたけど違うんだ」

 「まあ、軍の施設って言っても、今から行くとこはこれから学生もよく出入りすることになるからね、あまり秘密にしなきゃいけないようなものを置いとくような場所じゃないかな」

 

 僕はそう言いつつ、金属製の扉に取り付けられている端末に開錠用のカード―キーを通し、次に指を当てて静脈認証を行う。


 ピピッ、ガチャ


 一秒後、扉のロックが解除される。


 「それじゃ、入ろっか」


 僕が重い扉を押し開けると、扉の先には微かな鉄と油の匂いが漂う巨大な空間が広がっていた。


 「広い……」

 「ほんと、外からじゃわかんなかったけど、結構高さもあるんだ…」

 「半地下式だからね。高さ9メートル中5メートル分は地下かな」

 「ここって何なんですか?」


 凛君が少し興奮した様子で尋ねてくる。


 「ここは格納庫だよ。重装歩兵部の機体を待機させる場所になるんだ。そうだな…一応重装機なら100機は格納できると思うよ」

 「100機!?」

 「もちろん、見ての通り今はガランとしてるけどね」


 格納庫の中には布を被された塊が数個と、乗用車やトラック、作業用の小型クレーン車やフォークリフトがそれぞれ2,3台づつ隅の方に置かれているだけだった。


 僕たちはリフトに乗って格納庫の一番下へと降りた。


 「教官殿!これは…!?」

 

 リフトを降りて、すぐすぐ正面に置かれていたものを見て唯里君が目をキラキラさせた。


 「ああ、これが君たちの乗ることになる訓練機だ」


 実戦部隊に配備されていたころとは違い、深緑色の迷彩塗装から派手なオレンジ色の塗装に衣替えした巨人が、片膝をついて静かに乗り手を待っていた。


 「四八式重装機Ⅲ型乙、所謂訓練型と言うやつですね」

 

 機体の陰から声がすると思ったら、佐藤少尉がひょっこり顔を出した。


 「あっ、佐藤さん、今日はよろしくお願いいたします」

 「はい、こちらこそ」

 「えっと、みんなにも紹介します。これからみんなの訓練のサポートをしてくださる第七研究室の佐藤少尉です」

 「はい、ご紹介に預かりました佐藤譲司です。私は主にみなさんの訓練のデータ採りをしまして、それをもとにみなさんに合った訓練プランの作成や、訓練機のシステム改善をさせていただきます。私も部活に関わらせていただくのは初めてですが、精一杯の協力をさせていただきますので、どうかよろしくお願い致します」

 「「「「「よろしくお願いします」」」」」


 部員の3人に加えて、凛君と未彩君もつられて頭を下げた。


 「それじゃ、この子を動かす前に簡単に機体の説明でもしましょうか」

 「う、動かすんですか!?」

 

 唯里君が食い気味に尋ねる。


 「えっと、黄瀬さんだよね?」

 「はいッ!」

 「君は重装機が好きかな?」

 「はいッ!大好きですッ!愛してますッ!」

 

 唯里君はそう臆面もなく、寧ろ宣言するかのように力強く言った。


 好きなものを好きと言える素直さは大切だと、大人になってそう思う。


 「はは、素直でいいねぇ。それじゃ私の代わりにこの子の説明お願いできるかな?」

 「していいんですか!?」

 「もちろん」


 佐藤少尉からのお願いを嬉々として引き受けた唯里君は機体の前に出て、その大きな胸を張る。


 「では、僭越ながら不詳黄瀬唯里が、皆様にこの機体について詳しく説明させていただきます」

 

 それから唯里君は大きく深呼吸すると、捲し立てるようにしゃべり始めた。


 「この四八式重装機三型乙のことを説明するにあたって、まずは四八式重装機の開発経緯から話さざるを得ないでしょう」

 「そうなんだ……」


 誰かの小さなつぶやきが聞こえた。


 「四八式はその名の通り皇紀2648年、昭輪63年に三九式重装機の後継機として採用された、密閉式操縦席、完全電動の第三世代重装機ですが、開発はその8年前、昭輪55年から始まっていました。理由としては、三九式では機動性を重視しすぎて、防御力、馬力ともに不足しており、前線からの不満が多かったこと、またインドネシア紛争の際に豪州製の重装機相手では、一機にたいして数機がかりでないと太刀打ちできなかったことなど、全体的に性能不足が指摘されていたためとなります。話を戻しますと、最初に採用された四八式、所謂Ⅰ型と言うのですが、その一番の特徴は何といっても、駆動系を油圧式から強化繊維プラスチック製人工筋肉に置き換えたことです。信頼性の問題から、腰部及び膝部には補助として油圧の補助がありましたが、強化繊維プラスチック人工筋肉を全面的に採用することにより、馬力当たりの重量が大幅に軽減されることとなり、結果として、これまでの機体から一線を画す重武装が可能となりました。また、そのほかの特徴としては、操縦席を三九式までの開放式から密閉式にし、操縦者の生存性の向上を図っています。しかし、そんな当時としては高性能だったⅠ型にも欠点がありました。それは、電子装備の欠如です。もちろん、最低限の装備として対干渉波装置はありましたが、これは現在の広く採用されている干渉波発生装置ではなくあくまで干渉波から操縦系統を守るための除去装置でしかありませんでした。そのため、金属虫以外、特に相手が正規軍ともなると、歩兵が持つ携帯用誘導弾で容易に撃破可能であり、その結果平征2年のインドネシア動乱の際に、オーストラリア義勇兵の小型誘導弾により多数の機体が損害を受ける結果となりました。そこで、2年後の平征4年に電子兵装を強化したⅡ型が登場します。Ⅱ型は干渉波発生装置に加え、レーザー式探信儀や対レーザー探知機を搭載し、総合的な防御力が大幅に向上しています。このⅡ型が四八式の主力生産機となり、Ⅰ型も一部の機体を除きほとんどの機体がこのⅡ型仕様に改修されました。アリューシャン列島防衛戦、台湾防衛戦、福岡防衛線などその活躍は目覚ましく、海軍でも防水対策や稼働時間の延長など、小改造された機体が五五式重装機として採用され、上海上陸作戦などで大活躍しました。そんな傑作機である四八式ですが、皇国陸軍はこれに満足することなく、平征12年に後継機となる新型を六菱重工業と大松製作所に試作させるとともに、陸軍内で四八式のさらなる改良を行いました。その結果完成したのがそれがⅢ型で、もちろん、Ⅲ型は新型配備までのつなぎとしての改修だったわけですが、人工筋肉を一部強化繊維プラスチックから炭素繊維に変更、機外兵装場所の増設、準憑依操縦装置と新型機用の姿勢制御用人工知能の搭載など、3・5世代機として申し分ない性能となりました。しかし、近年新たに姿を現したカマキリ型との近接戦闘では苦戦を強いられることが多く、またゾウムシ型に対しては手も足も出ないなど、その機体性能では限界が見られるようになり、その結果が12年前のボルネオ島奪還失敗へと繋がってしまったのです。そんな四八式ですが平征20年に六菱重工が開発した六六式重装機≪月兎≫の部隊配備が急速に進むと、多くの四八式が2線級の部隊に下げられたり、予備役となったりしましたが、一部の機体をより訓練に適した形に改良し、当時から全国で人気になりつつあった機兵部の競技に使おうとなったわけです。こうなったのにはいろいろと理由がありまして、機体数に余裕があったのはもちろんのこと、旧式の強化外骨格で走り回っていたのでは正直地味でかっこよくないという当時の陸軍大臣直々の意見もあり、操縦席の拡張や遠隔制御装置、衝撃緩和装置などをを追加したⅢ型乙が開発されました。Ⅲ型乙は7年前から全国の機兵部へ順次配備が始まり、これにより機兵部の活動は世間から大きな注目を浴びることになり、四八式を使用した初めての全国大会では、会場の入場者数前年比50倍、決勝戦の視聴率は0パーセントを超える人気となり、現在でもその水準を維持するどころか、さらにその人気は高まりつつあると言えるでしょう。

 ま、きわめて簡単にですけど、四八式のことはこんな感じでどうでしょう。何か質問あります?」

 「「「「………」」」」

 

 唯里君が四八式のことについて大変情熱的に語ってくれたが、みんなイマイチ頭に入っていないという感じだった。


 「いやー、黄瀬さんいい解説だったよ」

 「ほ、本当ですか?わ、私としてはもっと語りたいこともあったんですが、あんまり細かいことを言ってもわかりずらいかなって思って…、だけどこれじゃ、端折りすぎてて逆にわかりずらいんじゃないかなって…」


 唯里君は照れ臭そうにしながらそう言った。


 僕としては十分詳しく説明できていたと思うし、彼女たちとしてはもっと簡単な説明の方が良かったかもしれない。


 「まあ、そういうわけで、皆さんこの子のことについてよくわかりましたか?」

 「「「「…はい」」」」


 話を聞いていた4人は、いかにもわかってませんと言うような返事をしていたが佐藤少尉としてはそこは特に気にならないらしく、持ってきていた鞄からおもむろにゲーム機のコントローラみたいなものを取り出した。


 「それじゃ、今からこの機体を外に出すんで、皆さんはゆっくり私の後についてきてください。絶対に機体の前に出ちゃいけませんよ。あっ、大鳥教官は先導お願いします」


 僕が機体の前方に出て十分距離をとると、


 「じゃ、起動させます」


 すると、いままで膝をついていた四八式がゆっくりと静かに立ち上がった。


 「「「「おぉ……」」」」


 そんな声が誰からともなく漏れだす・


 「それでは、前進してスロープを登って地上に出ますよ」


 オレンジ色の巨人がしっかりとした足取りで前進し始めた。僕は追いつかれないように駆け足でスロープを上り、格納庫のシャッター前まで行って開閉ボタンを押す。派手な機械音を鳴らしながらシャッターが巻き上げられていき、夕日の差す第二校庭が面前に広がる。


 「前方良し、佐藤さんそのまま出してください!」

 「了解」


 そして、格納庫から四八式が外界へと姿を現した。夕日に照らされたその姿は力強さを感じさせつつも、歴戦の戦士のような哀愁も漂わせていた。この機体もどこかの戦場で戦って、戦友を失いながらも生き残ってきたのだろう。ならば、その哀しい影も理解できる。


 「大鳥教官、この後は予定通りでいいですか?」

 「…ええ、お願いします」

 

 佐藤少尉の操作で、再び四八式が片膝をついた。


 僕は間近で動いている重装機を見て、感動したのかそれとも怖くなったのか、とにかく言葉をなくしている生徒たちの前に戻る。


 「じゃ、みんなにはこれからこの機体に乗ってもらいます」

 「…」「やったー」「…ふーん」「面白そう」「はい」


 彼女たちはそれぞれ違った反応を見せる。


 「でも、いきなり過ぎない?私たちまだ操縦の訓練なんて全然やってないよ」


 と瑠香君がもっともなことを言う。


 「そうだね。重装機の訓練の方法としてはいろいろあるんだけど、僕としては何よりもまず乗ってみた方が一番手っ取り早いと思うんだよね。教本を読んだりシミュレーターで訓練するのも大事かもしれないけど、結局はどれだけ重装機に乗っていたかで上達具合が決まると僕は思ってる。もちろん今回は操縦しろなんて言わないけど、みんなにはなるべく早く重装機に乗ってその感覚を感じてみて欲しいんだ」

 「ふーん、ま、いいんじゃない」

 「良かった。じゃ、そうだな…最初に乗ってみたい人いる?」

 「はいっ!はいっっ!はいっっっ!」


 唯里君が手を上げるだけに留まらず、軽く飛び跳ねながら挙手していた。そんなことをせずとも、手を挙げているのは一人だけだったのだが。


 「じゃ、唯里君、これから機体に乗ってもらうけど、慌てなくていいから僕の言うことちゃんと聞いてね」

 「はいっ!」

 

 僕と唯里君は機体の右側後方まで移動する。


 四八式はと言うよりも、日本製の重装機はどれもそうだが、操縦席は豪州製の機体とは違い、胴体内ではなく、背中から大きく張り出した部分にある。これは胴体内は動力系が詰まっていてスペースがないという事情があり、豪州製は逆に動力系が背中に付いている。

また、豪州製の機体では椅子に座ったような状態で操縦するが、日本製の機体ではバイクにまたがるような状態になる。これも、機材スペースの関係や、被弾面積を考慮した結果らしいが、長時間その姿勢を取りつ付けていると、非常に疲れるという欠点がある。そのため、機兵部の部室には高級マッサージチェアや、ジャグジーバスまである。機兵にとって、金属虫と豪州軍と同じぐらい腰痛・肩こりは強大な敵なのだ。



 「じゃ、機体に乗る前にこれを着て、たぶんサイズは問題ないとはずだよ」

 

 僕はそう言って、唯里君に少し厚手のジャケットを渡した。


 「それは、四八式用の安全ジャケットだから、機体に乗るときは必ず着用するように」


 僕は唯里君がジャケット着ている間に、あらかじめ今日必要になる安全ジャケットなどを運んできていたリアカーから、今度は脚立を取り出した。


 「着替え終わったかな?」

 「はい…これでいいんでしょうか?」

 

 僕は唯里君の着装状況を確認する。


 「うん、問題ないよ。えっと、機体への乗り方なんだけど、腰の方にあるスイッチを押せば簡易梯子が出るようにはなってるけど、今日はこれを使うよ」


 僕はそう言って脚立を機体に立てかける。


 「こっちの方がまだ安全だからね。それじゃ、僕が先に上るから、登り切ったらついてきて」

 「はい」


 僕は素早く脚立を上ると、操縦席ではなくその外側に立った。


 「いいよ、唯里君、登ってきて。あっ、星良君と瑠香君で脚立押さえてあげて」

 「はい」」「うん」


 星良君と瑠香君が駆け寄ってきて脚立をしっかりと両手で押さえると、唯里君がゆっくりと一段一段登ってきた。四八式は膝をつき屈んだ状態でも体高が3メートル近くあるため、気を付けて登らないと落ちたりしたら痛いじゃすまないかもしれない。


 「今更だけけど、高いところは大丈夫?」


 僕は操縦席まで上ってきた唯里君に尋ねた。


 「はい」

 「そっか、立ったらもっと視線が上がるからね。それじゃ、ここに跨って」

 「はい、こ、こうですか?」


 唯里君は興奮と緊張が入り混じった様子で、ぎこちなく座っていた。


 「ほら肩の力を抜いてさ、あと、股で軽く操縦席を挟むようにして、それが基本の姿勢になるから」

 「は、はいっ」


 唯里君の声は少しおどおどした様子で、まだ少し緊張しているようだったが、初めての搭乗なら仕方ないことなのかもしれない。


 「えっと、右足のところペダルがあるのわかる?」

 「はい」

 「それが車で言うところのアクセルだよ。ギアチェンジはないから、ペダルの踏み込み具合で速度調整するんだ。左足は踏み込んでみるとわかるけど、シーソーみたいになってるでしょ?」

 「はい。これがブレーキとジャンプですよね…?」

 「流石よく知ってるね。奥に踏み込むと減速、手前に倒すと跳躍だね。跳躍はこの機体では到達点が約11メートルだったかな。まあ、四八式であまりジャンプすると壊れるから滅多なことでは使わないけど」


 四八式でもその強靭な脚力を活かして、3~4メートルほどジャンプができるが、これは当初から予定されていた動きではなく、あまりやり過ぎると、膝や腰を悪くしてしまう。 

 その点、新型の六六式では元より跳躍による立体的な戦術を行うことが想定されており、関節部の強化とモータージェットによる跳躍補助のおかげで激しい戦闘機動でも機体フレームが損傷することはほとんどない。


 「それじゃ次に、前に二本あるのが操縦桿で―」

 「倒した方向に腕が動くんですよね?人差し指の引き金が手持ち武器の発射で、左の操縦桿の上にあるボタンが固定武装の発射で、内側にあるダイヤルをまわして兵装の選択、右の操縦桿の上のボタンはあらかじめ設定されている動作の実行ボタンで、これも内側のダイヤルを回して行動の選択をする、ですよね?」


 唯里君も少しず普段の調子が戻ってきたようで、口調が早くなってきた。


 「そう。まあ、このⅢ型では腕の操作は憑依操作できるから、あまり使うことはないかな?」

 「あのー、質問いいですか?」

 「ん?どうぞ」

 「本で読んだことはあるんですけど、憑依操作って自分の体を動かす感覚で、機体を操作するんですよね?」

 「うん」

 「だとすると、手に持った武器を使うのはわかるんですけど、この機体にも左肩に機銃が装備されてますけど、どうやって使うんですか?」

 

 確かに唯里君の疑問はもっともで、僕自身機体に乗って憑依操縦装置を試してみるまでよくわからなかった。


 「なんというか、口では仕組みとか上手く言えないけど、装置を起動させたら、なんていうのか、発射しようと思えば発射できるというか…いい例えかわからないけど、デコピンしようと思えば簡単にできるのと一緒っていうかさ…まあ、こればっかりは実際に試してみないことにはわからないかもね」

 「そうなんですか…あっ、すみません余計な質問してしまって」

 「いや、これからも疑問に思ったことはすぐに聞いてもらって構わないから。ま、今日はあまり時間もないし、説明はこの辺にして少し動かしてみるね」

 「は、はいっ」


 僕は機体から飛び降りると、佐藤さんに合図をした。


 「それじゃ、最初は操縦席のハッチは閉めないから、しっかりと操縦桿を握っててね」

 「はいっ!」

 

 すると、唯里君を乗せた四八式はゆっくりと立ち上がった。


 「それじゃ、歩行させるよ」

 「教官!」


 唯里君が突然叫んだ。


 「どうした?」

 「やばいです!」

 

 僕はその声聞くなり、立ち上がっている機体に飛び乗った。


 「大丈夫⁉何が―」


 唯里君はなぜか真っ赤な目をしていて、ボロボロと涙がこぼれていた。

 

 「ど、どうしたの…?」

 「…ぐすん…な、なんだか感動で、涙が出て来て、じぇんじぇん前が見えなくてぇ」

 「あ、ああ、そっか…。えっと、取り敢えず、これ使って」


 僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女に渡した。


 「あ、ありがとうがじゃいますぅ」


 ~数分後~


 「どう?落ち着いた?」

 「はい、すみませんでした。えっと、ハンカチありがとうございました」

 「どういたしまして」


 僕がハンカチを受け取ろうとすると、唯里君は差し出しかけたハンカチを慌てて引っ込めた。


 「す、すみません。ちゃんと洗ってから返しますね」

 「そんな気を使わなくても」

 「いえ、その、汚しちゃいましたし……あ、あの、余計な時間取らせちゃいましたし、続き始めませんか…?」

 「そうだね」


 僕は改めて、佐藤少尉の方を向くと右手を挙げて合図をした。


 「佐藤さん、お願いします」

 「君、乗ったままでいいの?危ないよ?」

 「僕なら大丈夫です。このまま動かしてください」


 またいつ唯里君が泣き出すかもわからないので、傍で様子を見守っておいた方が安全だと判断した。


 「それじゃ、動くよ」

 「はい!」


 機体はゆっくりと左足を踏み出す。


 僕は唯里君の様子を伺いながらも、ふと自分が初めて重装機に乗った日のことを思い出していた。あの時は僕は今の唯里君のように操縦席に少し緊張しながら乗っていて、隣には一年先輩の女性がいた。


 正直なところ、機体に乗ることによる緊張ではなくて、その先輩との距離が近いとこによる緊張の方が大きかったと思う。なにせその先輩は、美人で学校内ではもちろんのこと、後に美人過ぎる機兵部員として、テレビにも大々的に取り上げられることになるぐらいの人だった。


 僕も高校に入りたての頃は、まだ純粋だったのかその先輩に内心憧れていたこともあって、競争率の高い機兵部に入部の許可が出た時は素直に嬉しかったような記憶もあるのだが…。


 まあ、その先輩とはいろいろとあって、若気の至りと言うか、どうしてあんなことを、と思わずにはいられないことばかりやってしまったので、今の僕としては、あのころの思い出は後悔とともに蘇るばかりだ。


 「……教官?」

 「えっ、あっ、うん、どうしたの?」

 「どうしたと言いますか、校庭一周したので、交代でいいんですよね?」

 「あ、ああ、うん」


 思い出に浸っている間にどうやら無事歩き終わっていたみたいだった。傍で見ているつもりが、傍にいたとこところで、全く見ていなかったわけで、そこは深く反省しなくてはならない。


 「それじゃ、脚立をお願い」


 立てかけられた脚立で唯里君が下りていくともうすでに順番を決めていたらしく、すぐに瑠香君が上ってきた。


 「瑠香君は高いとこ大丈夫?」

 「うん。それで、座り方ってこれでいいの?」

 

 瑠香君は唯里君と違って余り緊張はしていないようだった。まあ、確かに瑠香君は度胸と言うか、肝が据わってそうな子ではある。


 「うん。問題ないよ。えっと、次に右足の―」

 「右足がアクセル、左は踏み込めばブレーキ、前に倒せばジャンプ、でしょ?」

 「よく知ってるね」

 「さっき、唯里に説明してたの聞こえたから」

 「そっか、それじゃ操縦桿の説明も大丈夫かな?」

 「うん。それでさっきの説明でわからなかったことがあるだけど、方向転換とかってどうするの?」

 「あっ、そう言えばさっき言ってなかった」


 重要なことを説明し忘れていた。


 「えっと、これ腰につけて」

 

 僕は操縦席の後ろに置いてあったベルト状のものを瑠香君に手渡した。


 「これは?」

 「うーんと、これは腰につけるもので、操縦者の上半身の動きを感知して、機体がその動きに呼応して動くんだ」

 「へー。よくわかんなけど、難しそう」

 「すぐになれるよ。むしろ四八式の難しさは腕を動かすことだから」

 「ん?腕は憑依操縦装置で動くから問題ないじゃないの?」

 「そうなんだけど、四八式は見ての通り、六六式の網膜投影と違って直接視界だから、機体の腕を自分の腕のように動かせるって言っても、腕の位置がわかりずらいから慣れるまで時間がかかるかもしれないね」

 「ふーん。そうなんだ」

 

 その後、瑠香君は特に反応も示さず無事に歩行体験が終わった。次に操縦席に上ってきたのは星良君だった。


 「あ、あのう…?」

 「どうしたの?」

 「わ、私ちょっと怖くて、そ、傍にいてくださいね」

 「うん、もちろん」


 そういうわけで、おどおどしながら操縦桿に必死でしがみ付く星良君をなだめつつ、歩行体験を終えた。そして最後はある意味今日の体験のメインである凛君が操縦席に座った。


 「へー、思ってたよりたかーい」


 緑川さんは緊張している様子はなく、初めて遊具で遊ぶ子供のようにはしゃいでいた。


 「すごーい。がしゃんしゃんいってるー」


 重装機が歩いている間もずっと興奮しているようだった。


 「あの、教官、もっと早く走らせてください」

 「えっ」

 「ダメですか?」

 「いや、そんなことはないけど…」


 僕は少しこの提案に問題点があるか考えてみたが、特に思い当たらなかったので、校庭を一蹴した時に、佐藤さんに軽く走らせてもらうように頼んだ。


 「駆け足させるのは構わないけど、流石に君は降りるか操縦席に座るかしないと危ないよ」

 「ああ、そうですね…」


 確かに走っている重装機に操縦席にも座らずに立っているのは危険だが、だからと言って凛君一人を残して降りるというのも不安である。


 「それじゃ、教官後ろに乗ってくださいよ。狭いですけど」

 「いいの?」

 「?いいに決まってるじゃないですか。そこじゃあぶないだろうなーってずっと思ってたんですよ」

 「そう?まあ、そう言うことなら失礼して…」


 僕は凛君の後ろに跨った。重装機は訓練機といえども一人乗り用なので、僕の座ったところはクッションもなく座り心地は良くないが、操縦席の端に立っていた時よりはくらべものならないぐらいの安定感がある。


 あと、凛君の後ろなので、いろいろと気を遣うことが多いが、思っていたより頭の高さが低かったので、前方の視界はある程度確保できた。凛君が少し前傾姿勢だというのもあるのだろうが、多分腰の位置がかなり高いのだろう。ペダルに乗せている足も随分と窮屈そうにしている。


 「それじゃ、行きますよ」


 下から佐藤少尉のそんな声が聞こえたと思ったら、機体が一瞬、姿勢を低くくし地面を勢いよく踏みしめ、急発進した。


 「「わぁっ!?」」


 油断していた僕と凛君は二人して大きく後ろに仰け反って、僕は凛君の下敷きになるような形になる。


 「あはは、すっごーい」


 下敷きにしている当の本人は楽しそうだったので、まあそれはそれでよしとしたが。


 「もう、佐藤さん、いきなり全力で走らせないでくださいよ」

 

 僕は何とか無事に校庭を一蹴した後、機体を操縦していた佐藤少尉に文句を言った。


 「いやぁ、ごめんなさい。なにぶんまだ私も不慣れなもので」

 「まあ、凛君は楽しそうだったので、体験としては良かったですけど」


 凛君は降りた後も興奮気味で、手ごたえとしては十分あるといったところだろう。


 「じゃ、今日はこの辺で―」

 「ちょっと」


 僕が今日の部活を閉めようかと思った時、今まで静かに部活を見ていた未彩君が声を掛けてきた。


 「私も乗ってみたいんだけど?」

 「…大丈夫?」


 僕は彼女のことについては身体測定や体力試験の結果でしか知らないが、それでも体があまり丈夫じゃないということはわかっていたので、未彩君に対してそんな曖昧な質問で返してしまった。


 「なに?教官さんが何を知ってるのか知らないけど、あたし別にどこも悪くないよ、今は」

 「そう、なら乗ってみるのもいいかもね。佐藤さんいいですか?」

 「ええ、機体の方はまだまだ動けますよ」


 ということで、予定にはなかったが未彩君も機体に乗ることになった。


 「じゃ、教官さん先に乗って」

 「ん?」

 「あたし、スカートなんですけど」

 

 未彩君はスカートの端を少しつまみ上げつつ言う。そういう話だったので、未彩君のスカートに目が行ってしまったが、ちょっといじっているのかスカートの丈が少し短いような気がする。


 「それじゃ、先上るから、気を付けて上ってね」

 「は~い」


 僕が機体に上ると未彩君もすぐに上ってきた。


 「へー、結構高い」

 「怖くない?」

 「ふふ、あたし高いとこはへーき。それで教官さんこそ、そんなとこいなで、凛のときみたいに後ろ座った方がいいんじゃない?」

 「あ、ああ、そうだね」


 僕はそう言われてすごすごと、未彩君の後ろに座った。ちょうど鼻の下あたりに未彩君の頭が来るので、シャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐってきて、何かいけないことをしているような感じがする。


 「あ、なーに、教官さんってばちょっと意識してる?」

 「えっ、いや、そんなことは…」

 「もうダメだよ~、生徒に手を出したりしたら」

 「しないよ。もう、僕をからかうのはいいけど、ちゃんと操縦桿は握ってね、危ないから」

 「はーい」


 僕は五歳以上年下の女の子にからかわれながらも無難に歩行体験を終えた。


 「それで、どうだった?」

 「うーん。ちょっと地味かな」

 「えっ」

 「えっと、このスイッチかな」

 「ちょっと!?」


 未彩君はいきなり操縦桿の間にあるいくつかのスイッチ群から、遠隔操作モードから通常モードへの切り替えスイッチを正確に選んだ。


 「だ、ダメだって勝手なことしちゃ」

 「大丈夫、暴れたりはしないから」


 僕が後ろから手を伸ばして止めようとするのを無視して、今度は操縦席のハッチを閉めた。


 「うわ、結構狭いなー」

 「本当に危ないから」

 「えっと、それで、これが憑依操縦装置ね」


 未彩君はついに憑依操縦装置まで起動させてしまった。素人がなんの説明も訓練も受けずに憑依操縦装置を使えば、大事故につながる危険もある、一刻も早く止めなければ、そう思ったが、僕はスイッチを切ろうとしたその手を途中で、止めてしまっていた。


 「へー、変な感じ。でも、いいかも」

 

 未彩君は機体の手を見えるように、防弾ガラス前まで持ってくると、器用に左右の手でジャンケンをしたり、シャドーボクシングをしたりしていた。


 「教官さん、それじゃちょっと動くから掴まっててね」

 「ま、まって」


 僕の声に耳を傾けることなく、未彩君はアクセルを踏み込んで、機体を急発進させた。それだけじゃない、走らせながらも機体の腕を自在に動かし、様々なポーズを決めていた。


 「よーし、いっけー」


 未彩君は勢いよく左のフットペダルを蹴り上げると、機体も大地を踏みしめ宙に舞った。


 ほんの少しの浮遊感の後、強い衝撃が操縦席を揺らす。四八式の操縦席にも六六式ほどでないまでも衝撃緩和装置が付いているはずだが、それでも思わず前に座る未彩君にしがみついてしまうほどの衝撃だった。


 「やっばい。ほんとさいこー」


 そしてまた走り出そうとしたとき、急にアラームが鳴り、全面の防弾ガラスの右下に簡易な機体図面が投影され、機体の右膝が緑から赤い表示に切り替わった。


 「やばい、未彩君ほんとにストップ、停めて」


 その後、機体を降りて確認したところ、右ひざの油圧装置からオイルが大量に漏れていた。


 「久々に激しく動いたからパイプが切れちゃったみたいだね」

 「大丈夫そうですか?」

 「ああ、古い機体だからねよくあることだよ。他は特に問題ないようだし、歩行は問題ないから、今日中に修理できるよ」

 「すみません。自分がもっと早くにやめさせておけば…」

 「構いませんよ、これぐらい。それより、あの子本当にすごいね。初めてであれだけ動かせるなんて、相当な逸材じゃないかな」

 「ええ、でも…」

 「ま、いい結果を期待しているよ」


 佐藤少尉はそう言って、機体を格納庫まで歩かせていった。


 僕はそれを見送った後、部室で待つみんなのところへ向かった。

 

 「あ、教官」

 「機体のほう大丈夫でしたか?」

 「ああ、うん。損傷は大したことないみたい。訓練機は軽微な故障でも派手なアラーム鳴らしちゃうから」


 唯里君が少しほっとした顔をする。


 「それじゃ、待たしちゃってごめんね。明日の予定だけど、さっそく重装機を使った訓練も始めて行こうかなって思うから、今日は帰ってよく休んでね。と言うことで、解散でいいよ」


 そういうわけで、瑠香君を先頭に星良君、唯里君が部室を後にする。


 「あっ、凛君と未彩君、ちょっと時間いいかな」

 「はい」「はーい」


 僕らは改めて部室の玄関ホールにあるソファに腰かけると、本題に入った。


 「それで、今日の感想としてはどうだったかな」

 「あ、それなんですけどね」

 

 凛君が身を乗り出してしゃべる。


 「さっき、教官が外で話している間にお母さんに相談したらですね、機兵部やっていいって言ってました」

 「えっ、あ、そうなの?」

 「はい」


 凛君は説得する必要もなく、入部の流れとなっていた。入部するにあたって親の同意は必須だが、それが取れるということは最大の関門を突破したということだった。


 「それで、未彩君だけど」

 「…説教ですか」

 「まあ、僕の立場上そうしなくちゃいけないんだけどね」

 「あたしも、悪かったと思ってます。調子に乗り過ぎました。ごめんなさい」


 未彩君は申し訳なさ七割、不貞腐れ三割と言った感じだった。ここで完全に不貞腐れていと言うことは、心根までは捻くれてないということだろう。


 「ま、今回のことは今回のこととして反省してもらうとして、どうだろう未彩君は」

 「…どうだろうって?」

 「入部の件、考えてもらえないかな?」

 「はぁ?あたしが、機兵部に?」


 未彩君は心底驚いた様子だった。


 「…あたしのことある程度は知ってるんでしょ?」

 「まあ、ね。もちろん、無理にとは言わないけど、もし興味があれば、前向きに考えて欲しい」

 「………じゃ、今日は帰るね。凛、帰ろ」

 「えっ、う、うん」

 

 未彩君は返事もしないまま部室を後にした。


 一人部室に残された僕は今日の出来事に思いを巡らせた。


 白藤美沙、彼女からは人並みならぬ才能を感じた。こんな感覚を味わったのは久しぶりだ。きっと彼女は…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

同日 花菱女学園校門前


 「はぁ~、すごかったな~」


 唯里ちゃんは訓練機に乗ってからずっとこんな調子で、ふわふわしている。落ち着きがなく、全然前を見て歩かず空ばかり見ているので、あぶなかっしい。


 「唯里ちゃん、ちゃんと前見て歩かないと危ないよ」

 「いや~、すごかったよねぇ」

 「…はぁ」


 唯里ちゃんの耳には私の声は届かない。

 

 まあ、別にこういうことはよくあることで、唯里ちゃんとは仲が悪いというわけじゃない…と思いたいが、とにかくあまり波長がかみ合わないことが多い。


 かみ合わないと言えば、瑠香ちゃんともそうだ。瑠香ちゃんはクールでいて、なんでもそつなくこなしていくところはかっこいいと考えるが、少し怖い人と言う印象があって私は勝手に苦手意識を持っている。良くないことだとは自分でも思っているが…。


 だからこそ今日はチャンスだとは思う。普段割とすぐに帰ってしまう瑠香ちゃんと今日はなんとなく一緒に帰っている。瑠香ちゃんは駅まで行くことになるが、私と唯里ちゃんはここから歩いて数分のところにある女子寮に行くことになる。なので、その数分の間に何とか会話して距離を縮めたいと思う。


 そう思うのだけど…正直何を話していいかよくわからない。


 とは言え、このまま何も話さないままと言うのも、なんとなく気まずいし、とにかく今日、重装機に乗った感想でも聞いてみよう。うんそれがいいよね。


 「あ、あの、瑠香ちゃん?」

 「ん、何?」

 「え、えっと、その…今日はどうでした?」

 「え?ああ、部活のこと?」

 「う、うん」


 瑠香ちゃんはちょっとの間、言葉を選んでいるかのように顎に手を当てて考え込んでいた。


 「まあ、楽しかった…かな」

 「楽しかった?」

 「うん、やっぱ学校の授業より、ああやって実際に体を動かすって言うかさ、そういう方が私はいいかな」

 「そっか、そうだよね。私も…ちょっと怖かったけど、楽しかったかな」

 「………」


 会話が続かない。


 「あ、そ、そうだ。緑川さんと白藤さん、部活入ってくれるかなぁ?」

 「…どうだろ。緑川は入りそうだけど、白藤はね」

 「でも、白藤さんすごかったよね」


 あの動き、今日ただ乗っているだけでもびくびくしていた私としては、全然別次元の人のように感じた。


 「…まあね。でも、ああいうことする人、うちの部ではやっていけないじゃない?」

 「え?」

 「だって、機兵部は卒業後そのまま軍に入るわけでしょ、あんな勝手なことするのってダメ…って私が言えることでもないか」


 瑠香ちゃんは自分で疑問で呈して、自分で引っ込めてしまった。


 確かに白藤さんのやったことは本来ならいろいろと大問題なことで、もしかすると今頃部室で大鳥教官にかなり怒られているのかもしれない。だけど、多分そんなことはないだろう。なんて、何の根拠もないのだけれど。


 「でも、入ってくれるといいですよね」

 「…そうだね」

 

 今私たち機兵部はピンチである。先生方や教官はあまり言わないが、この部員の少なさは誰がどう見たって良くない状況だとわかる。


 こうなった大きな原因は去年報道された、機兵廃人化事件だ。確か、憑依操縦をし過ぎると、機体と自分の境界が曖昧になって精神に重大な支障をきたすとか何とか。軍は否定しているが、今でも週刊誌やネットではよく取り上げられていて、昨年6月に起きた樺太事件で精鋭の第一機動憲兵隊が金属虫により大損害を受けたというのも、この廃人化事件の隠ぺいで、実は機体の調整ミスにより集団廃人化が起きたのだと言われている。


 樺太事件が公表されたのは昨年10月のことで、ちょうどその頃に廃人化事件が話題になっていたこともあり、機兵部にとっては大きな痛手となった。実際私も、孤児院の院長先生からすでに決まっていた機兵部への入部を考え直すよう説得された。


 だけど私は入部することを選んだ。確かな信念とか、希望とかがあったわけじゃない。ともすると自滅願望みたいなものが私にあったことは否定出来ない。


 私は世の中に、どこか息苦しさみたいなものを感じている。


 私が生まれた時にはもう世界に金属虫が溢れていて、人類は限られた土地でいつとも知れぬ滅びを待っていた。


 それでも、人間同士で争い続けている。日本と豪州の関係はもはや修復不可能なところまできていて、誰も口には出さないが近い将来全面戦争となってもおかしくはない。国内に限ってもそうだ、主義の違いで殺しあって、人種や生まれた場所で差別される。


 だけど、世の中は娯楽が溢れていて、哀しいことや厳しい現実を忘れさせようとしてくる。


 そんなちぐはぐな世の中が、私にとってはどこか息苦しい。


 きっとその苦しさから逃げたくて私は入部することを最終的に決めたんだと思う。


 なんて、きっとこんな思いは思春期特有の自意識の拡大とか、ただ単に斜に構えているだけで、いずれは大人になるにつれて消えていくもの、とも思っている。


 「ちょ、ちょっと、星良どこ行くの?」

 「えっ?」


 唯里ちゃんの声でハッと我に返ると、いつの間にか寮へ帰るための脇道を通り過ぎていた。


 「もー、星良ってばちゃんと前見て歩かないと危ないよ」


 少し前に私が唯里ちゃんに言ったことを、ほとんどそのまま返されてしまった。恥ずかしい。


 「えっと、瑠香ちゃん。あの―」

 「また、明日」

 「あ、うん。またね」


 私は駅に向かう瑠香ちゃんの背中を少しの間見守った後、唯里ちゃんに続いて寮へと向かった。


 また、明日


 その言葉で少し頬が緩んでしまった。


 きっと、明日もいい日になる。そんな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る