第8話 まどろみの中で

霧がかかっている。


珍しく早起きした私は、白い粒子に覆われた矩形の世界を前に、ぼうっと立っていた。


ガラスの仕切りを通り抜けた冷気が、足元から私を覚醒させる。


思考は一瞬で硬化し、意識が膨張した。


変わらず世界は霧に包まれている。


まだ太陽も昇り切らない薄明の刻、街は静かに寝息を立てていた。私もまた後頭部辺りに微睡を保留していて、今すぐにでも夢に戻ることは出来た。


「白い」


鍵を開け、世界を繋げる。一挙に押し寄せた冷気が、足先の感覚を奪う。街を満たす白は今私の部屋を、肺腑を、おそらく意識までをも満たした。


眼下の屋根が近い。


跳べば乗れそうだ。


私は欄干に足を掛け――――そこで止まった。ゆっくりと腰を欄干に預け、足を宙に放り出す。


ここは二階だった。


白い霧が私の中から抜け出していく。なぜかそれは異様に冷えていて、私は指先を絡ませた。


「跳べたのかな」


跳べただろう。屋根までは一メートルほどかしかない。着地の際に瓦を割ったかもしれないが、無様に落下することはなかったはずだ。


「けど跳べなかった」


足りなかったものはなんだろうか。棒だろうか。勇気だろうか。あるいは足りていたからこそ跳べなかったのか。


だとしたら、どうだろう、私は跳べなくて正解だったかもしれない。


足りたまま跳べたら、それはもう現実だ。


私が霧の向こうに求めたものではない。


急に世界が明度を上げた。黄色へ近づいた白色が街に目覚めを促している。そこに住まう人間達にもまた、時間が戻ってきたことを知らせている。


やがて街は人に覆われ霧は天に上るだろう。


私はハッとして天から地まで線を引く。不可視の分子の点を繋げ、空から降ろされた無数の線を夢想する。


自然とこみ上げた笑みを唇にだけ残し、私は窓を閉じる。


目の前には崩れた床がある。




夢を見よう。

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