第6話 境目

 

ひび割れたアスファルトに自転車が乗り上げ、車体が揺れる。通りかかった放水路に視線を馳せれば、寒気がするほどの激しい速度で水が流れ、通り過ぎた後もけたたましい音が耳についた。

 湿った道路の埃の匂い。短い雨では流しきれなかった空気の余韻。好ましいその匂いを嗅ぐといつも夏を思い出す。


 トタン屋根の車庫を叩く音が止み、垂れ落ちる水滴があたり一帯に聞こえ始め頃、庭に出るとよく虹を見つけた。雨の多いこの土地で、虹は日常の一幕でしかなないが、あると目を奪われ毎度のように虹の終わりついて夢想した。


 遠くに書き割りのような杉林が見える。その入り口には電線の垂れ下がった古い街灯が一本ぼうっと立っている。既に陽は沈み、周囲は薄暗い。あと少しもすれば、夜の帳に隠されて何も見えなくなるだろう。


 私は神社に向かっていた。昼間でも薄暗く、人気のない寂びれた神社。鳥居の脇には木造の古い社があって、朽ちた注連縄が台座に落ちていたのを覚えている。

 赤ん坊が捨てられていただとか、人の頭が転がっていただとか、近くにある古い家でおぞましい家督争いがあっただとか、根も葉もない噂が真実に思えてしまうほど、その神社には不気味な気配がある。

 雨上がりの薄暗い逢魔が時に行く場所ではない。ましてや怖がりが一人で行くなどありえない。

 だけど私はこらえきれなかった。雨の匂いのする道路をいつものように辿りながら、遠くに見えた神社の林が、私に想像させた。今あそこに向かったらどうなるだろう。この薄暗い、空気の濡れた日に、あの古びた鳥居を潜った先に何があるのだろう。

 鳥居の脇に自転車を止めた。しんと静まり返った神社は当然人気がなく、私は意を決して石畳に足を踏み入れた。

 その神社の石畳は広く、長く、両脇はよく開けていた。一方神社はちっぽけでぽつんと奥に建っている。だからだろう、神社が遠くに感じた。感覚としての空間が狂っている。

 恐怖はなく、感動があった。自分はその時、現実にはいなかった。遠いところから自分を見つめるような、俯瞰的な感覚があった。仮に神様が本当に表れても、きっとそういうものだと受け入れたに違いない。

 寂びれた神社は近づけば一層寂びれて見えた。苔むした賽銭箱。ぼろ雑巾のような鈴紐。私は五円を放り込み、柏手を打った。

 音はよく響いた。神など信じてはいなかった。しかし神という夢幻の存在を強く願っていた。閉塞したこの日常から、自分をどこかに連れて行ってくれるなら、それが神でも悪魔でも何でもよかった。

 目を開き、閉じた手を降ろしても、私はやはり、そこにいた。


 振り向けば、まっすぐ伸びる石畳。黒く佇む遠くの鳥居。空を隠す雑木林。広く開けた視界の端。そこでようやく恐怖を覚え、私は逃げ出すようにその場を離れた。


 それからも、私は時折その神社を通りかかった。相変わらず陰鬱としたその空間は、噂話に事欠かない。

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