4-14「若鳥四羽①」

 北里瑠梨は朝の神事と朝食のあと、車に乗せられて事務所に到着した。

 後ろには途中で合流した同僚の近藤留美もいる。昨晩、共にラジオに出演した同い年の少女だ。借りた鍵で事務所に入ると、階段で二階に上がる。


 瑠梨はポットの湯を再沸騰させるとソファに座り、その間に留美は紅茶の準備をする。湯は社員が二人を迎えに行く前に軽く沸かしておいたもので、部屋もエアコンが既に利いており暖かい。


「お砂糖要る?」


 沸きかけの湯でティーポットとカップを温めながら留美が尋ねる。


「じゃあ一杯だけ」


 瑠梨は気分や疲労度、つけ合わせの有無で砂糖の量を変えるタイプである。菓子は充分あったが今は昼が近いので、菓子を食べず砂糖を少し入れて貰うことにした。

 洗い場で加温に使った湯を捨てながら留美がまた尋ねる。


「睡眠薬は要る?」

「いらない」


 瑠梨は慣れた様子で平然と答える。

 留美は隙あらば瑠梨に睡眠薬を盛ろうとするのだが、無断で盛らない程度の良識だけはある。『だけしかない』とも言う。



 三人分の紅茶を淹れ終わると、ちょうど社員の中村香澄が二件隣の月極駐車場から戻ってきた。ベージュのスーツに身を包み、髪を低めの簡単なシニヨンにまとめている。


「香澄さん、紅茶はどうします?」

「どうも。デスクに置いておいてください。社長たちが来る前に一件片付けておきたい案件がありますので」


 香澄は無表情に軽く頭を下げると、ロッカールームへ向かった。

 留美が紅茶を運んでいると、瑠梨のスマホにSNSの通知が入った。卓上に置いたままの留美の物も光る。


「あっ貴子ちゃんもすぐ来るみたいだね」


 香取貴子は高月の逆側の端に住んでいる。彼女の家から事務所までは徒歩でも二十分で着くのだが、社長の勧めで基本的にバスで来ている。


 社長ともう一人の所属アイドルは渋滞で遅れると既に連絡があったので、留美はひとまず貴子の分だけを用意することにした。

 ロッカーから戻った香澄が、タブレットをデスクに置いて作業を始める。その音をBGMに四杯目の紅茶が注がれる。



 紅エンターテイメントは瑠梨が所属する、昨年四月に開設されたばかりのアイドル事務所である。

 社員は社長を入れて二名で所属アイドルは四名。はっきり言えば零細事務所で、知名度もまだ低い。事務所は風見市の中心街である高月地区の外れで、最寄り駅からは二十分離れている。築二十年の三階建てのビルは、アイドル事務所としては小さいほうではあるが、所属人数に対しては広く空き室もある。将来を見越して広めの物件を用意して改築も行っており、築年数の割には真新しく見える。ビルの一階は来客用、二階が社員とアイドルのスペース、三階がレッスンルームになっている。



 数分後、香取貴子は紅茶が冷める前に事務所に着いた。低い位置で長いポニーテールを大きいリボンで留めている。


「おはようございます。中村さん。おはよう皆」

「おはよう貴子ちゃん」


 挨拶を交わして荷物を片付けると、三人は作業デスクから少し離れたソファで紅茶を飲み始める。卓上ゲームなども置かれた談話室も別にあるのだが、そちらは仕事と仕事の間が大きく空いた時の待機中などに使うことが多い。

 今日はすぐに会議やレッスンがあるので、あまり寛ぐ訳にもいかない。

 この事務室の休憩スペースで、香澄の邪魔にならないようにしてメンバーが揃うのを待つのが土日のいつもの流れだった。所属アイドル全員が高校生で平日は都合がつきにくい為、土日のどちらかは全員で集まるようにしているのだ。


「社長たちはまだかしら?」

「丁度さっき連絡があったよ?」

「……そうみたいね」


 貴子がグレーのスマホを取り出してSNSをチェックすると、あと十分は掛かるという新しいメッセージが一分前に入っていた。マナーモードのまま歩いていたので気が付かなかったようだ。


 高月は風見市の中心街では有るが、そもそも風見市自体が田舎であり、片側一車線以下の道路も多い。貴子がバスで通る中心部はそこまで酷くはないが、社長たちが今通っている辺りはまさにそのような狭い道が多い。

 あいにく鉄道も近くには通っておらず、交通の便は良いとは言い難い。

 今日は会議以外には昼下がりに仕事が一件あるだけなので良いが、早朝の仕事の時は事務所に泊まることも多い。泊まる為の寝室や着替えなども常備されているほどだ。



「そう言えば、北里さん」

「なぁに、貴子ちゃん?」


 貴子はカップを置いた。仕事中の香澄の為にテレビやラジオは点けておらず、室内では機械類の駆動音や香澄のタイプ音だけが静かに響いていた。


「ラジオの件なんだけど」

「うん」

「お家の用事ってなんなのかしら」


 瑠梨は今週末、レギュラー番組のミュージックウインドを急遽休むことになり、昨日の放送でリスナーへの告知もしていた。勿論、風科や僚勇会のことはリスナーどころか同僚にも伝えていない。

 この番組は瑠梨だけでなく事務所にとっても唯一のレギュラーである。瑠梨をメインパーソナリティとして、毎回他の三人から一人を相方として進行する。去年の夏に始まったばかりだが、最近では地方のローカル局には珍しい様な大物アーティストをゲストに迎えるなど好評である。

 この半年間、瑠梨が番組を休んだのは四回だけである。多いと言えば多いがニ回は急な体調不良、残りは家の神事が理由でこちらは一月前から予告してのことである。

 今週末のような「急な神事」での休みは初めてのことだった。


「うんと……急な話で迷惑掛けてゴメンね。詳しくは話せないんだ……」


 瑠梨は頭を下げる。これまでの四回の休みのうち三回と同様に、今回も貴子が司会の代役を務めるからだ。ちなみに残る一回は留美が司会だったが、瑠梨の不在を嘆きに嘆き放送事故寸前だった(リスナーのウケは良かったが)。


 この件のについては木曜に話し合ってはいたが、会議の後で二人が顔を合わせられたのはこれが初めてだった。


「まあ、元々貴女の家は特殊な神社で?そういう場合があるというのも聞かされていたし、代役をやること自体は良いのよ。良い経験にもなるしね」


 貴子はもどかしげな表情で溜息をつく。

 瑠梨は貴子の顔を見ながら両手で紅茶を口にした。

 カップが卓上に戻るのを待ってから、貴子が言葉を続けた。


「北里さん。貴女はもっと真面目に……いえこれは失礼ね。そう……もっと本腰を入れてアイドルに集中してみる気はないのかしら」

「本腰を入れるっていうと、つまり……」

「家や学校の仕事を減らせないのかってことよ。貴女の実力なら、すぐにアイドルランキング百位以内……いえ、それ以上も狙えるわ。全力を注ぎ込めばニ年も掛からずにトップアイドルにだってなれる筈よ!!」


 貴子は卓上に置いた自分の右手を左手で強く掴んでいた。


「そうよ!瑠梨ちゃんならなれる!瑠梨ちゃん最高!」


 留美が左手で瑠梨の肩を抱き寄せ、自分の右腕をぐっと掲げる。

 透き通った声でやかましく喚き散らしながら、ツインテールをバタバタと揺らす。


「それは……」


 瑠梨は謙遜の言葉を言おうとしたが、止めた。

 貴子のアイドルを見る目は確かだ。下手な雑誌やウェブサイトよりも余程信頼できる。マイナーなアイドルの人気の急上昇や、逆に人気アイドルの失墜を的確に予想したことも一度や二度ではない。それこそアイドル評論家にでもなればすぐに大成できる程だろう。

 だから自分への評価もきっと適切なのだろう、と瑠梨は受け止めた。

 瑠梨は言葉を選びながら慎重に話す。


「例えそうだとしても、巫女の仕事は減らせないよ。そもそも仕事というより、生活……ううん。生き方の一部になってるから、切り離せないよ。ゴメンね」

「そうよ!瑠梨ちゃんは巫女でアイドル!最高!」


 留美が瑠梨の右肩に縋りついてきた。


「ごめん近藤さん、ちょっと息止めててくれるかしら五分くらい」

「息まで止めなくていいけど、静かにして貰って良い?」



 貴子の呆れ顔と瑠梨の苦笑に、流石の留美も瑠梨の腕を離し、脚一本分だけ横にずれる。そして親指を立てると、口にチャックをして見せた。

 雑音が消えると、二人は紅茶を飲み直してから話を再開した。



「北里さん……貴女の現状ははっきり言って勿体無いと思うのよ」

「勿体無い?」


 貴子は瑠梨や風科の裏事情については知らないが、瑠梨が事務所に入った事情は知っている。

 瑠梨が招かれたのは、両親の『知り合いの知り合い』である紅社長を助ける為であった。

 事務所を開設したものの思うようにアイドル候補が集まらなかった状態では、巫女として舞や祝詞を学んでいる瑠梨は(無論ポップスとはジャンルが大違いではあるが、それでも)即戦力だった。実際、瑠梨がいなければ事務所の経営は未だに採算ラインには乗っていなかっただろう。


 そんな「本業の合間に」「手伝ってくれている」事務所の看板アイドルが瑠梨である。貴子はそんな瑠梨に自分が物申すのは筋違いであると思っていたが、それでも言わずにはいられなかった。


「貴女が本気を……いえ、全力をこっちに注ぎ込めば届くのよ。もっと上にね」

「そう……かな?」

「そうよ」


 貴子ははっきりと断言する。


「何に貴女は上を目指そうとしていない」


 文字にして読んだなら非難がましい表現だが、貴子はただ淡々と事実を指摘する口調で告げた。その内心はともかくとして。

 瑠梨は姿勢を正し、まっすぐ見つめ返した。


「貴子ちゃんみたいにアイドル一本でやっている人から見たら、確かに私はちゃんとしてない……中途半端に見えるのかも知れないよね。けど、私は手の届く範囲の仕事をやれるだけやっていこうと思っているよ。受けた仕事には全力を尽くしているよ?」

「確かにその通りね。確かに貴女はちゃんとやっているわ。でもそれが勿体無いのよ。アイドルになったからには上を目指すべきでしょう」

「そうなの……かな?」

「そうよ」


 きっぱりと頷く。


「応援してくれている人のことを考えてみなさい。自分の推しが上に行ったほうが嬉しい筈でしょう?」

「それは……分からなくはない、けど」


 瑠梨たち四人にも事務所公認会員でまだ数十名ではあるが、ファンはいる。

 アイドル業に限らず、競争事に今一つ感心のない瑠梨にはランキングどうこうは実感が沸かない。しかし好きな人が褒められると嬉しいのは分かるし、応援には応えたい気持ちもある。


「貴女より遥かに実力の劣る……いえ、ウチで一番実力の無い私に言われたくは無いでしょうけどね…」


 根拠の無い自嘲ではない。新人アイドルランキングの順位では瑠梨には大きく、ほかの二人には僅差ながら負けている。母数は少ないが公認ファンクラブ内の人気投票でも似た状況だった。


「そんなことは無いよ!貴子ちゃんのアドバイスにはいつも助けられて……」

「でも、それだけよ」

「そんなことは……」


 無い、と言い切ろうとして言葉が止まる。四人でダンスや歌を合わせる際に貴子が僅かに悪い意味でずれるのは事実だ。分析力が優秀でも実践もそうとは限らないということだろうか。下手な慰めや励ましはかえって失礼になるし、そもそも瑠梨は嘘がつけない。だから本心だけを告げた。


「確かに……色々大変かもしれないけど、貴子ちゃんは諦めずに最後までやれる人でしょ……!?前のラジオの代役だって私よりしっかりしてたじゃない……!」

「ラジオね。あの仕事だって元々は貴女一人に来たものじゃない?家の仕事で抜けることも多いだろうからって今の形にして貰ったんでしょう。実際、貴女のほうが評判がいいわ」

「でも、スポンサーだって私の周りの人が多いし……」

「局が募集したところに貴女の地元の人が集まっただけでしょう?誰かがそんなこと言ったの?」

「直接言われてはないけど……」

「どっちにしても放っておきなさい。前後関係も分からない馬鹿の言葉なんて」

「そうよ!」


 留美が腰を浮かせて腕を振り上げる。

 二人の視線が向くと、留美は両手で口を塞いで座り直す。


「元々、私が鳥姫神社で有名だったからかも知れないよ」

「貴女に白羽の矢を立てたディレクターさん、この辺の人じゃないわよ」


 鳥姫神社は風見市市民への知名度はそこそこだが、一つ二つ隣の市に行くと殆ど知る者がいなくなる。強いて言えば独自の風習が民俗学や日本神話の専門家やマニアの間でだけ有名なくらいで、一般的な知名度はない。


 貴子は話を番組の内容に戻す。


「勿論、私なりには頑張ったけどメールやFAXの数も普段より少なかったし、皆の反応も貴女の方が良さそうに見えたわね」


 客観的な数字に現れる前者はともかく、後者は局の人間が言った訳ではないが、雰囲気やネットの反応で分かることだ。


「そんな……」


 瑠梨にとっては複雑だ。自分が認められて嬉しい気持ちも有るが、だからと言って貴子の気持ちを考えると素直に喜ぶ気にもなれない。


「ねぇ。北里さん。貴女、私の人を見る目は信用できる?」

「……うん」


 瑠梨は神妙に頷く。


「ありがとう。その私が断言するわ。貴女は必ずアイドルの頂点に立てるわ。私では行けない場所にね」


 貴子は歯痒げな表情を浮かべる。


「本音を言えばね。貴女には家の仕事を止めてこっちに全力を注いで欲しいくらい」

「それは……」


 反論しようとした瑠梨を、貴子は片手を開いて押し留める。


「分かってるわ。私の身勝手な我儘。それでもね、私より凄い人が全力で羽ばたいてくれないのは……辛いのよ」


 それきり貴子は押し黙り、瑠梨も返す言葉が見つからない。


 実際問題として、瑠梨は巫女をやめる訳にはいかない。今は代わりがいないのだ。

 鳥姫の巫女は血筋で伝承されるが、瑠梨には姉妹がおらず、傍系の家も既に絶えて久しい。実のところ、約千年の鳥姫神社の歴史でも数えるほどしか無かった切迫した事態である。

 いずれは娘を設けるために最短でも数年間は巫女は不在となるしかないのだが、その不在に備えた体制作りはまだ構築中であるし、勿論瑠梨にもその気はない。

 この事情に加えて、そもそも瑠梨には家の仕事をやめるつもりが無い。学校や生徒会もだ。楽しいというのは違うがやりがいは感じているし、辛いと思ったことはあるが、やめたいと思ったこともない。物心ついた時からそうしてきてそれが普通だからだ。

 ではアイドル業はどうか?


(アイドルのお仕事は楽しいし、やりがいもあるけど、今のペースで続けていくだけじゃダメなのかな……?ファンや事務所、貴子ちゃんたちの為にももっと頑張りたい気持ちはある。でもその為には巫女と生徒会の仕事を減らさないと……)


 アイドル業を蔑ろにする気はないが、今以上に注力するのは瑠梨の『日常』を削らなければならない。優先度としては人命にも関わる巫女業が最優先だが、仮にそういう制約がないとしたら?


(そうしたら私は……?)


「コラ!」


 再び沈黙を破った留美の声で瑠梨は我に返る。


「貴子ちゃん。それ以上、瑠梨ちゃんをいじめると……」


 留美は透明な携帯化粧スプレーを付き出す。

 中には何らかの無色の液体が入っていた。


「盛るよ?」

「貴女が言うと洒落にならないわよ」


 貴子は体を背もたれ側に逸らす。


「留美ちゃん、変なことしたらもう同じ部屋で着替えないよ?」

「え!ごめんなさい瑠梨ちゃん!」


 留美はスプレーを放り出して土下座する。


「いや、そもそも一緒に着替えてる現状が危険でしょ……」


 毒気を抜かれた表情で、貴子が呆れた声を出す。

 平謝りの留美を瑠梨が苦笑しながら宥めていると扉がノックの後、開いた。


「皆お早う!遅くなってすまなかったね。日曜の朝早くから来て貰ったのに」

「皆!社長を責めないで!事故の車線規制が二箇所もあって道が混んでたのよ!」


 スーツ姿の中年の男性を、小柄なボブカットの少女が前に立って両腕を大きく広げて庇う。社長の紅道照くれない みちてると四人目の所属アイドル奥崎美衣子おくざき みいこだ。

 彼女の肩には自分の鞄、手には社長の鞄があった。


「誰も責めないわよ……」


 貴子が疲れた表情で首を振る。土日の混雑状況を読むのは難しいので、会議の時間には余裕を持たせてある。誰がどれほど遅れるかも運次第であるし、お互いに余程のことがなければ責めることはないのだ。


 香澄がデスクから顔だけを向けて報告する。


「社長、資料は先程送っておきました」

「ああ、ありがとう」

「会議は何時からにします?」

「そうだね。皆を待たせてしまったし五分だけ休ませて貰ったら始めようか。美衣子くんもそれで良いかね?」

「はい!私は問題ありませんので、社長は渋滞の疲れを癒やすためにお休みしていてください!私たちだけでやっておきますので!」

「いえ、今日のは特に社長がいなければ始まりませんので、私たちだけではあまり意味はないです」


 香澄は慣れた様子で美衣子を諭した。


「そうでした……!申し訳ありません!」

「いや、謝るようなことじゃないよ!とにかく君も休みなさい。乗っているだけでも疲れただろう?」

「恐れ入ります……」


 土下座しようとする美衣子をなんとか制すると社長はゆっくりとソファに腰を降ろし、しばらくしてから美衣子も少し離れた位置に座った。

 こういったやり取りも含めて土日のいつもの流れであった。

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