第五談 人面犬

 わたしは夏の夕焼けが嫌いだ。

 夏の夕焼けは、わたしにイヤナコトしか運んでこない。

 そうだ、たしかあの時も、こんな真っ赤な夕焼けの日だった。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 わたしの母は、わたしが小さい時に亡くなった。

 もともと体の弱い人だったらしく、わたしの覚えている母は、いつも病院のベッドの上だった。

 だから母が亡くなったと告げられた時、わたしはすぐにその事がわからず、ああ、いつものように母は眠っているのだと、そう思っていた。

 赤く燃える夏の空。

 窓を閉めても聞こえる蝉の声が、やけに煩かったのを覚えている。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 男手一つでわたしを育てなければならなくなった父に、わたしを預かろうかと言う親戚が、当然現れた。

 それはもちろん純粋な好意からであったし、事実父も、そのほうが娘のためなのではないかと考えた。

 だけど、わたしは断固としてそれを拒んだ。

 親戚の誰かが嫌だったワケじゃない。祖父も叔母も、皆わたしに優しい人だった。

 母が死んだことで、誰よりもショックを受けているのは父だ。

 もしもわたしがいなくなったら、父は本当にひとりぼっちになってしまう。

 母が死んだ事から、わたしはいつかきっと立ち直るけど、だけど父は。このままではダメになってしまう。

 誰かが一緒にいてあげなくちゃいけないのは、

 幼心にわたしはそう思い、誓ったのだった。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 それから、父は家で酒を飲むようになった。

 慶弔休暇が終わっても仕事に戻らず、朝から晩まで、黙って酌をあおり続ける日々。

 その間、わたしはずっと父の側にいた。

 学校にも行こうとしないわたしに、父は何も言わなかった。それどころか、唯の一言だって、口を開きはしなかった。

 時折、すごく悲しそうな目でわたしを見つめるだけ、ただそれだけ。

 だからわたしも、父に何も言わなかった。何も言うべきではないと、思ったのかもしれない。

 そんな、ただ黙って過ごす親子の日々が続いて……。

 しばらくして、それまで一言だって喋らなかった父が、口を開いた。


 ――ありがとうな、智里。


 次の日から父は仕事にも復帰し、以前のよく喋る明るい性格に戻っていった。

 その仕事も決して夜遅くはならず、休日も、わたしのために過ごすようになった。

 あと、これは余談というか、極めてどうでもいいことなのだけど、父がありがとうと言ったその時、わたしは思わず父に抱きついて、そのまま疲れて寝てしまうまで泣いてしまった。

 夕焼けなんて遥かに遠い、真夏の昼のことだった。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 そうして、わたしと父の、二人だけだけど、とても幸せな日々が続いた。

 父はわたしが寂しくないようにと精一杯愛情を注いでくれたし、わたしもそれに負けないくらい、父の事が大好きだった。

 そして時は流れ、わたしが中学に上がってまもなくの頃、父に仕事で海外出張の話が舞い込んで来た。

 期間にして僅か一週間。

 それでも父は、行くべきかどうか、そうとうに悩んでいた。

 だから、わたしは父に言った。


 ――わたしなら大丈夫だから、行ってもいいよ。


 父と二人だけの生活は充実していて、だからこそ父の足枷になるのがイヤだったのか、それとももっと単純に、生意気に大人ぶりたかっただけなのか。

 なぜあの時そう言ったのか、わたしは今でも思い出せない。

 その時のわたしたちの暮らしはとても安定していて、だから父も、娘ももう中学なのだから、始終一緒にいてやることもないだろうと、きっとそう考えたのだろう。

 父は海外行きを決意し、わたしはそれを見送った。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 それから四日後、父の勤める会社から電話がかかってきた。

『草条さんと連絡がつかないんですが、なにかご存知ないですか?』

 なにを言っているのか、意味がわからなかった。

 そして約束の一週間後、家のドアを叩いたのは父ではなく、警察の人だった。


 ――出張先で、行方不明になられたようでして。


 赤く紅く朱い空。

 蝉の声が煩くて、なにを話しているのか、ちっとも聞こえなかった。


 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 次の一週間が過ぎ、さらに次の一週間が過ぎた。

 あまりの蝉の煩さに、わたしは両耳を、潰れてしまいそうなほど強く塞いだ。

 だけど音は収まらない。ちっとも小さくならない。

 そこでわたしはようやく気づく。

 あぁ、この音は、蝉の鳴き声なんかじゃない。

 わたしが、夕焼けに焼かれて爛れる音だ。

 

 じりじり……。

 じりじりじりじり……。


 だから鳴り止まない、その音はずっと、鳴り止まない。

 電子レンジの世界の中、それからずっと、わたしは一人、父の帰りを待っている……。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「現状で活動している怪異はほとんど確認できない。どうやら強力な力を持った怪異は『死角の殺人鬼』で最後だったようだな」

 『死角の殺人鬼』撃退から数日後、僕たちは法頼さんのところに現状報告へと来ていた。

 怪異ロアと直接戦うのは僕たちの仕事だが、だからといって法頼さんは何もしていないのかというと、そういうワケではない。

 法頼さんの担当は主に二つ、怪異発生の起源となった霊道詰まりの原因調査、そして怪異ロアの力を失って、ただの霊に戻った者達の、霊道への誘導である。

 このへんの事は、霊能力者である法頼さんにしかわからないことなので、僕としてはサッパリなのだけれど、法頼さんの言葉の通りなら「問題ない」らしい。

「しかし『死角の殺人鬼』か、厄介な相手だったようだな」

「たしかに厄介でしたね。死者をゼロに出来たのは幸いでしたけど、補足に時間がかかり過ぎました」

「まっ、最後はあっけなかったけどねぇ」

 ケラケラと笑うサキを、不謹慎だとばかりに睨み付ける智里さん。

 ジンさんは例によって車で待機、なにがなんでも法頼さんの顔を見たくないらしい。

 怪異ロア『死角の殺人鬼』が消え、その怪主かいぬしだった青年も、自身の怪異ロアがやられたことを知ると、自らの足で警察の元へと向かった。

 あの青年の目的は、『死角の殺人鬼』が言った通り、僕と同じ、死んだ人間と再会することだった。

 僕と違うのは、僕はあの人が怪異ロアになって復活しているのかもと、そういう希望に賭けているのに対して、あの青年は『死角の殺人鬼』に、直接その人に会わせてやると言われたこと。

 法頼さんが言うには、そんなことは不可能であるらしい。

 怪異ロアというのは、あくまで現世に留まってる霊が変化したもので、青年の会いたかった人がどういう人なのかはわからないけれど、その霊がすでに冥界に旅立っている場合、それこそ降霊術でも使わない限り、会うことは出来ないという。

「そう思うと、かわいそうな話ですよね。なにも知らないで、利用されて……」

「私はそうは思わんがな」

 僕の言葉を、法頼さんが一蹴する。

「いかなる理由があろうと、彼が自分の手で人を襲った事は事実だ。自らの選択で罪を犯したのなら、そこに許容の余地は無い」

「そうです。彼の犯した罪は、安易に許されるべきものではありません。理由があれば無関係な誰かを傷つけていいなんて、そんな理屈は決して通らないハズです」

 珍しく、智里さんも法頼さんの意見に賛同した。

「彼のしたことは間違いなく悪いことです。怪異ロアの誘惑に屈した心もまた悪い。けれど――」

 そこで知里さんは少し言いよどみ、それからまた口を開く。

「――その動機だけは、きっと純粋なものだったのでしょうね」

「そうねぇ。動機だけなら、そこに良いも悪いもないものねぇ」

 純粋な動機。

 それそのものに罪は無く、悪意も無く、だけど結果として人を傷つけるモノ。

「けど、あたしたちにしたって、彼の事をどうこう言える立場じゃないのかもしれないわぁ」

 そういって、サキが少し遠い目をする。

「あたしたちは、多分それぞれの事情で怪異ロア狩りをしてる。あたしは自分の記憶探しで瑞樹に近づいて、結果として怪異ロアの騒動に瑞樹を巻き込んだ」

「そんな、それを言ったら僕だって……」

「……そうして怪異ロア狩りをして、だから『死角の殺人鬼』は、わたしたちに対抗するために多くの人を、瑞樹の友達を襲った。あんなゲス野郎のことだから、多分そうでなくったって人を傷つけたんでしょうけど、でも、今回の原因は、怪異ロア狩りをしているわたしたちにあったわぁ……」

 考えが浅かったと言えば、そういうことなのだろう。

 怪異はただ倒されるだけのゲームの敵キャラじゃない。自身が生き残るためには力を振るうし、知恵を絞りもする。

 その中で『死角の殺人鬼』のようなモノが現れることは、十分に予想できたハズだった。

「なら、やめるかね?」

 相変わらずの厳格な口調。法頼さんは、まるで僕たちを叱るようにして言ってきた。

 そして、その問いに誰より早く答えたのは、

「やめません、絶対に」

 智里さんだった。

「そういうヤツがいるからこそ、わたしは怪異ロア狩りをしてるんです。もう二度と誰も襲わせない、どんなにうまく隠れたって、見つけ出して根絶やしにして見せます」

 凛とした、力強い声。

 それは彼女らしい、とても頼りがいのある声だった。

「まっ、あたしは瑞樹と一緒にいられるなら、なんだっていいんだけどねぇ」

 その横で、軽い調子で声を上げるサキ。

「だけど、ああいう連中をのさばらせてあげるほど、あたしは親切じゃないの。ここまでやったんだもの、最後までやってやるわぁ」

 最後か……。

 怪異ロア狩りが終わるということが、どういうことなのか。

 この時の僕は、よくわかっていなかった。

 そして今日が、僕たちが全員無事でいられた、最後の日なるということも……。




 翌日の日曜日。

 僕とサキは、勝の入院している病院へとやってきた。

 『死角の殺人鬼』を倒して以来、奪われた霊力の戻った勝の回復は驚くほど良好で、入院こそ未だにしているものの、今では院内を歩き回れるほどになっているらしい。

 そうした話を聞いたので、僕とサキは見舞いに来たワケである。

 智里さんとジンさんは、僕たちを病院に送ると、そのまま怪異ロア探索へと行ってしまった。

「智里さんも顔出していかない? 勝のヤツ、狂喜乱舞だと思うんだけど」

 と、誘ってはみたのだが、

「……怪異ロア狩りが終わったら、挨拶に行こうと思います」

 返事は素っ気無いものだった。

 まぁ、智里さんと勝は他人も同然だし、初対面が見舞いっていうのもやりづらいんだろう。

「それにしても、古い病院ねぇ」

 病院の外観を眺めながら、サキが呆れたような声を出した。

「なんでも戦前からある病院らしいよ。といっても、何度か改修はされてるだろうから、さすがにそのままってことはないと思うけど」

「八鹿町らしく、都市伝説にはうってつけな場所ねぇ。ここにもやっぱり、なにかあるんでしょ?」

「まぁね」

 僕は苦笑しながら答える。

「この病院のとあるベッドで眠ると、なんでも自分の未来が見えるんだって」

「自分の未来?」

「正夢っていうのかな。まぁ入院中なんて外の事ばっかり考えるんだろうから、それがデジャブの原因になってるんだと思うけど」

「あらら、冴えない真実ねぇ。でも未来の自分かぁ、ちょっと面白そうね」

「サキの記憶探しのヒントになるかもね」

 言ってから、僕はハッとする。サキも気づいたの、明るかったら表情に影が入った。

 サキの正体は、もう判明しているのかもしれないのだ……。

「ねぇ、瑞樹ぃ……」

「……なに?」

「もし、あたしがカシマレイコだってとして、それで記憶を取り戻したとして、そうしたら、瑞樹はどうする?」

「どうするって――」

「あたしは怪異ロア。だから多分、ずっとこっちの世界にはいられない、いちゃいけないと思うの。それでも瑞樹は、あたしに会いたいって思う?」

 怪異ロアは死者の霊。

 その魂がいつまでもこの世にいることは、きっと間違っているのだろう。

 それも怪異ロア狩りの理由の一つなのだし、だからサキも、いつかは僕の前からいなくなる。

 サキが怪異ロアとして在り続けているのは、無くなった生に執着しているからじゃない、自分が誰ともわからずに消えてしまうのがイヤだからだ。

「わからない……。でも、サキがあの人だったらいいなって、僕はそう思ってる……」

「そう……」

 そういって、サキはすごく寂しそうに笑った。

 突き刺さる日差しが、妙に眩しく、痛かった。




「しかし。治りが早いとは聞いてたけど……」

「ん?」

 勝の病室に入った瞬間、僕は呆然とした。

 中に入ってしまえば、当然ながら病院は綺麗なものだった。勝の病室(個室だ)にしたって、外の汚れた壁がウソのように真っ白だった。

 そして、その真っ白なベッドの上にあぐらをかいて座っている勝、その体には、傷一つついていなかった。

 いや、服の上からなので、もしかしたらその下に傷跡でもあるのかも知れないけど、見た感じ、包帯らしきものも伺えなければ、点滴が刺してるわけでもない。

 顔色もよく、ハッキリ言ってなんで入院しているのかわからないぐらいだった。

「どうなってんの? 一時は意識不明の重体になったって聞いたんだけど」

「まぁ、これも日頃の行いってやつだな」

 がはは、と怪我人らしからぬ元気な笑い声を響かせる勝。

「実際、怪我はもうほとんど治ってるんだよ。入院してるのも事後検査みたいなモンらしくて、ヒマでしょうがねーぜ」

 勝に言わせれば、医者も仰天するほどの回復ぶりらしい。

 まぁ、早く良くなってくれるのなら、それに越したことはないと思う。

「瑞樹ぃ、買ってきたわよぉ」

 と、そこに、見舞いの品を持ったサキがやってきた。

 病院に入った時点で、見舞いなのに手ぶらで来てしまった事に気づいた僕たち。

 流石にまずいだろうと思い、なにか用意することにしたのだが、肝心の品物が思いつかない。花を貰って喜ぶようなヤツじゃないし、果物の類も、果たして食わせていいのかわからない。

 悩んだ末、雑誌なら退屈しのぎになるだろうという結論になり、それならそのへんのコンビニで買ってこれるからと、サキに頼んでおいたのだ。

「おい瑞樹!」

 サキが姿を現した瞬間、勝の投げたコーヒー缶(さっきまで飲んでいた)が僕の頭を直撃した。

 まぁ、なんとなく予想はしてたけど……。

「その美人は誰だ! 見せ付けにきやがったのかテメエ!」

「いや、ちょっとまって――」

「あらあら、わんぱくな子ねぇ」

 甘ったるい声を出しながら、サキがゆっくりと勝に近づいてゆく。

 さりげなく勝の胸に手を置いて、妖艶なしぐさで顔を覗きこみながら、ささやくように続ける。

「お姉さんがいたら、迷惑かしらぁ?」

「いっ、いえ、滅相もございません。むしろ大歓迎です」

 お見事、勝はわずか数秒で戦闘不能に陥った。

 これがサキから勝への、であるらしい。実際、雑誌なんかよりうってつけな見舞いの品だろう。

 始終デレデレしっぱなしの勝を見ながら、僕はつかのまの平和を感じていた。




 面会時間も終わり、病院を出て携帯に電源を入れた瞬間、智里さんから電話がかかってきた。

「もしもし?」

『やっと繋がりましたか……。瑞樹、大変な事になりました』

 智里さんの様子は、どこか切迫している。

「どうしたの? なにかあった?」

怪異ロアの仕業と思われる事件があったんです。いえ、まだそうとハッキリしたわけではないのですが、とても人間業とは思えないような――』

 苦しそうでいて、どこか弱々しい智里さんの声。

『ジンと街中を調べていて、霊力の反応があったので調査に向かったのですが、そこで現場を目撃しまして、いえ、犯行そのものはすでに終わっていたから、現場というの正しくないんですが……』

「落ち着いて智里さん。いったいなにがあったの?」

『はい、すいません……。その場所は、すでに警察と野次馬で人だかりが出来ていて、わたしもソレを見たわけではないのですが――』

 そこで智里さんは一拍おいて、それから息を殺すようにしてゆっくりと告げた。

『人が殺されました。野次馬の話を総合するに、胴体を真っ二つにされた上半身だけの死体で、下半身は見つかってないとか――』

 ……えっ?

 ちょっとまった。

 智里さんは、いま、ナンテイッタ――?

 上半身と下半身が真っ二つ?

 そんな、そんなことって。

 それは、まるで、あの時と同じ――。

「瑞樹!」

 後ろからサキの大声。

 続いて響く、濡れた雑巾を落としたようなベシャリという音。


 振り向くとそこには――死体があった。


「なっ……! サキ! いったいなにが!?」

「わからないわぁ。突然、空から降ってきて――」

 死体。

 死体以外に形容なんてなんてない。

 白目を向き、首と腕を不自然な方向に捻じ曲げて、破裂した鶏肉のように中身をブチまけたそれを、どうして生きているだなんて思えるだろうか。

 真っ先に浮かんだのは飛び降り自殺。

 でも、それにしてはなにか足りない気がする。

 病院の屋上なんて立ち入り禁止じゃないのかとか、高所の窓はあまり開かないようになってるものではないのかとか、そもそも死体の服装は白衣でも入院姿でもない普通の私服なんじゃないのかとか、そんなことよりなにより根本的に決定的に――

 その死体には、

「なんだよ、これ……」

「っ!? 霊気!? 瑞樹さがって!」

「えっ――」

 僕がなにか反応するより早く、サキが飛来したナニカに吹っ飛ばされた。

「サキ!」

 慌てて駆け寄る。

 入り口前の駐車場、プランター群に突っ込むような形で、ソレとサキは対峙していた。

 ソレもまた、半分の死体。

 違うのは二つ、さっきの死体が男性だったのに対し、今度の女性である事。

 そしてその死体が、両手で這いずるようにして、

怪異ロアか!」

 サキすでに赤いコート姿で戦闘態勢に入っていた。

 上半身の怪異ロア

 ボロボロに汚れた長い黒髪が半分だけの全身を包み、異様に長い二本の腕で、地面を咬み進む。

 その姿は、前足だけを残してもぎとられた昆虫の様。怨磋と執念で蠢く狂気の異形。

『瑞樹! どうしたんです瑞樹!』

 いつのまにか握り締めていた携帯から、智里さんの声が響く。

 返事をしようと電話を持ち上げた瞬間、異形が両手をバッタみたいにしてサキに飛びかかった。

 現出させた草刈鎌で異形を迎え撃つサキ、相手の顔面を狙い、横合いから斬り付け――鎌は鋼でも叩いたみたいに、弾かれて根元から叩き折れた。

「っ!?」

 押し倒され、サキは異形に圧しかかられる。

 鎌の刃は確かに異形の顔面に直撃した、それなのに刃は弾かれた。

 ならそれは、異形の方が鎌より硬いということ。

 斬りつければ斬れる、それは刃物の大前提。その怪談にだって通じる当たり前の常識が、あの異形には通じない!

「逃げて瑞樹!」

 サキが叫ぶ。

 彼女は今まで、僕に離れてろ、とは言っても、逃げろと言った事はなかった。

 あまりに離れすぎては怪主かいぬしの契約が効力を成さなくなるし、全力をもってぶつかれば、サキに負ける要素なんてなかったからだ。

「だけど――」

「いいから逃げて! こいつ、バケモノすぎる!」

 今だって契約の力は働いている。それなのに、そのサキが逃げろと言っている。それはつまり――

「逃げて、出来るだけ遠くに、それから智里とジンに連絡しなさい!」

「けど、そうしたらサキが――」

「お願いだから行って! あたし、瑞樹に死んで欲しくない!」

 異形の振りかざした手が、サキの首を締め上げる。

「大丈夫よぉ……、あたしはまた、瑞樹の側からいなくなったりしないからぁ……」

 それでもサキは、僕に向けて笑って見せた。

「必ず! 必ず助けに戻るから! 智里さんとジンさんを連れて、必ず!」

 そして僕は、またあの人に背を向けて駆けだした……。




 道路でタクシーを見つけて飛び乗り、どこでもいいから急いで走れと指示を出してから、震える手で携帯を持つ。

 幸い、電話はまだ繋がっていた。

『なんなんですか瑞樹! 急に何も言わなくなるし、電話の向こうからサキの悲鳴みたいな声は聞こえるし! いったいなにが起こってるんです!』

 智里さんの剣幕すら、今の僕の鼓動に比べれば、清涼剤のようにすら感じられた。

怪異ロアが出た……、ものすごい強さで、サキも……」

『なんですって!?』

 智里さんに今までの経緯を説明する。

 話を聞いていた上半身の死体が、狙ったようなタイミングで降ってきたこと。その直後に、同様の姿をした怪異が、サキを圧倒したこと、それから――

『わかりました瑞樹。サキの判断は間違ってないと思います。サキ一人なら、逃げに徹すればなんとかなるかもしれません』

「だけど、サキは……!」

『瑞樹!』

 電話の向こうで、智里さんが怒鳴る。

『いいですか瑞樹、わたしはこれから話をします。すごくつまらない話で、聞いてる瑞樹は退屈だと思いますが、しっかりと聞いてください。他になにも考えないで、話を聞くことだけに集中してください』

「なに言ってるんだよ智里さん、そんなのより、サキが――」

『黙って聞けと言ってるんです! 先輩の言うことには従いなさい!』

 さらに怒声。あまりの音量にスピーカーがジリジリと悲鳴をあげる。

 智里さんの大声はこれまで何度も聞いたけれど、今までで一番、いや今までとは比較にならないくらいの怒号だった。

 僕がなにも言い返せずに押し黙ると、智里さんは声を落として、静かに話し始めた。

『わたしの母は、わたしが小さい時に亡くなりました。だからわたしは、ずっと父と二人で暮らしてきました。二人きりの家族、だけどわたしも父も幸せでした』

 ……。

『その父も、現在行方不明になってます。仕事で海外に行って、そのまま消息を断ちました。もう何年も、わたしは父の顔も見てなければ、声も聞いてません』

 ……。

『わたしは父が帰ってくると信じてます。必ず帰ってくると信じてます。だから、わたしは八鹿町を、父が帰ってくるこの街を荒らす連中を許さない』

 ……。

『これが、わたしが怪異ロアと戦っている理由です』

 ……。

 それは、ある意味最大の武器だった。

 智里さんからの、智里さん自身の告白。

 例えどんな状況だって、これを聞き流せるハズがない。

『……とっておきのつまらない話です。どうです、少しは落ち着きましたか?』

「うん……、取り乱してたみたい。もう大丈夫」

『そうですか、ならよかったです』

 スピーカー越しに、智里さんの安堵するため息が聞こえた。

「それから、ありがとう。つまらない話なんかじゃなかったよ。とても、大事な話だった。聞けてよかったって思う」

『……つまらない話、ですよ』

 聞こえるか聞こえないかの小さな声で自嘲気味に言うと、それから智里さんは、いつものような意志のある、力強い声に戻る。

『とにかく早く合流しましょう、わたしとジンは学校の近くにいますから、校門の前で落ちあうことにしましょう。いいですね!?』




 運転手に急がせ、五分と経たずに学校に到着する。

 タクシーをその場に待たせ、校門をくぐると、すでに智里さんとジンさんが待っていた。

「瑞樹!」

「二人とも早く! 早くしないとサキが――」

 二人を連れ、タクシーに戻ろうと振り返る。

 その刹那――僕の視界を、閃光と爆音が包み込んだ。

「くっ!」

 眩しさと熱風に、僕は思わず目をつぶる。

「なにが起こってるんです!」

「おい……、あれ瑞樹が乗ってきたタクシーじゃねぇか!?」

 智里さんの悲鳴、ジンさんの驚声。

 熱風に耐え、片手で庇うようにして目を開けると、そこでは、ついさっき僕の降りたタクシーが、赤々と火を上げて燃え上がっていた。

「なっ……!?」

 ついさっき、本当についさっきだ。

 僕があのタクシーを降りてから、まだ一分だって経っちゃいない。

 そのわずかな間に、車が爆発した。

 バカみたいに吹き出る黒い煙に、鼻をつくガソリンのキツイ臭い。

恐らく運転手は即死だろう。この僅かな時間で逃げられたとは思えない……。

「瑞樹、どうなってるんですかコレ!?」

「僕だってわかんないよ! いったいなにが……」

 燃える車体の中、揺らめく影がある。

 炎と煙をものともせず、捻じ曲がったドアの隙間から、油が零れるような鈍重さで、ソレは這い出てきた。

 実際ソレは、体を包む長い髪で真っ黒に見えたから、油のように見えなくもない。

 上半身だけの怪異――病院でサキを襲った異形が、そこにいた。

「おい、もしかしてアレが瑞樹の言った怪異か? だとしたらなんでここにいるんだよ……、サキはどうなった! それと瑞樹はタクシーでここまで来たんだろ? いくらなんでも早すぎやしないか!?」

「わかりません。『ドッペルゲンガー』みたいなワープ系の能力でしょうか……、だとしたら追跡条件はなんです!?」

 二人の緊迫した声。

 だけど、僕はその意味を、少しも理解できないでいた。

 いや、そもそも言葉なんか聞こえちゃいない。

 炎の中の鉄の塊。

 そこから引きずり出る、長い黒髪。

 あまりに似すぎている。

 あの日、あの赤い日、彼女がいなくなったあの日。

 僕が彼女を、殺した日……。

「おい瑞樹! なにボーっとしてやがんだ!」

 ジンさんに肩を掴まれ、僕はハッと我に返った。

「ジンさん……」

「あれがサキを襲った怪異ロアなんだな……?」

 ジンさんの言葉に、僕は震えるようにして頷く。

 その間にも、異形はずるずると地面を這いずり、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。

「逃がしてくれるって雰囲気じゃねえな……。智里! 瑞樹! 校舎の中に入るぞ!」

「ジン! 怪異相手に逃げる気ですか!?」

「サキを圧倒するような相手、真正面から戦うのはヤバすぎる! ヘタをうちゃ皆殺しにされるぞ!」

 僕らの腕を引っつかむようにして、ジンさんは注意を後ろに向けたまま、校舎へと駆け出す。

 そんな僕たちに、異形は速度をあげることもせず、ただゆっくりと地面を這い進んでいた……。




 誰もいない校舎を、僕たちは駆ける。

 いつのまにか太陽はずいぶんと低くなり、廊下の窓から差し込む西日が強烈で、窓枠の影を通るたび、走る僕らの目をフィルム映画のように瞬かせた。

 照らす光は血の紅。

 まっ平らな夕焼け空。

「口裂け女よりも強力な怪異ロア……、智里! なんか心当たりはないのか!?」

「上半身だけのバケモノ……、足の無い死体……」

 前を走る智里さんとジンさんが、互いに焦燥の声を上げる。

 それに少し遅れる形で、僕も二人に続く。

 あの怪異ロアがなんの怪談であるのか、そんなことはわからない。

 ただ、あの死者の魂が誰であるのか、そのことは、僕は直感していた。

 偶然にしては、あまりに残酷な一致。

 過去の世界があるとするなら、あの光景こそがまさにソレ。

 崩れた鉄、燃える炎、舞う煙、油の臭い、この赤い空までも!

 リメイクなんて言葉じゃ物足りない、ドキュメンタリーなんて的外れ、あの異形の姿、あれは、あれは……!

「ジン、もしかしたらあの怪異ロアは――」

「っ!? 二人とも止まれ!」

 正面を走るジンさんが、急に制止の声を出す。

 次の瞬間、壮絶な音を立てて窓を破り、何かがジンさんの前に投げ込まれた。

 投げ込まれた何かは教室側の壁に激突し、ちっともバウンドせず、だらりと廊下に広がった。

「――!」

 前にいた智里さんが、ソレを見て声の無い悲鳴をあげる。

「なに!? いったい――」

 ソレの正体を確かめるため、僕は身を乗り出し――そのことを心底後悔した。

 それは病院で見た物と同じ、腰から下が抉り取られた死体。

 だけど同じモノじゃない。病院のとは別のモノ。


 ――その死体は、勝だった。


「なっ――」

 ちょっとまて、なにかオカシイ、なんでここで勝が出てくる、アイツは怪異ロアの争いに巻き込まれただけ、そしてそれも終わった、『死角の殺人鬼』は片付けた、だからアイツの出番はそれでオシマイ、もうこの事件に関わる理由がない、勝は今病院にいて、僕もついさっきあってきて、怪我もほとんど治ってるみたいで、顔色もよくて、それはいつも通りの勝で、だからアイツにとっての怪異はそれで終わりで、具現した怪談に登場する必要なんかなくて、このままアイツは物語にもならない平穏な日常に戻るハズで――

「――その少年、怪主かいぬしだったよ」

 カツ、カツ、という足音。

 ズル、ズル、という這う音。

「あの病院にまつわる都市伝説『正夢』の具現、その怪異が彼に怪我を早く治すしたくないかと持ちかけたらしい」

 カツ、カツ、

 ズル、ズル、

「『正夢』は夢に見た事が現実に起きる怪談。霊力の及ぶ範囲内なら、どんな奇跡も起こすことが出来る。契約されて霊力が増強されては厄介な相手だったので、面倒な事になる前に怪主かいぬしごと始末した」

 カツ、カツ、

 ズル、ズル、

「もっとも、所詮は対象がいて初めて効果を成すような脆弱な怪談がモチーフだ。人に危害を加えるつもりもなく、ただ生存のために契約したようだったがね」

 カツ、カツ、

 ズル、ズル、

「病院に放った死体も同様だ。あれもまた怪異の怪主かいぬしだった。こちらは『人面疽』という怪主に寄生する変り種でね、怪主かいぬしごと片付けなくてはならなかったので、少々心が痛んだよ」

 カツ……。

 ズル……。

 一人と一つの足音が止まり、その主が僕達の前に姿を現す。

「アナタ……!」

「てめえ――クソ坊主」

 逢魔ヶ時の陽に照らされ、僕らのよく知る袈裟姿で、異形の怪異を横に連れ――

 ――宮代法頼はそこにいた。




「法頼! なぜアナタがここにいるんです!」

 夕暮れの校舎に、智里さんの声がこだまする。

「なぜ? 妙な事聞くな智里。私としては、わかりやすく演出したつもりなんだがね」

「はンッ!」

 法頼さんの言葉を遮るように、ジンさんが啖呵を切った。

「どうもこうもねえ、ようするにハゲ野郎! オマエが黒幕ってことだろう!?」

「黒幕とは心外だな。怪異ロアの発生、霊道の詰まりについては完全な事故だ」

「そうかよ。じゃあテメエが横に連れてる、その悪趣味なペットについてはどう説明するつもりだ!?」

「私の目的は怪異ロアを滅ぼすことだ。その事はキミたちだって知っているだろう? 怪異ロアを滅ぼすには怪異ロアの力を持ってするしかない、つまりそういうことさ」

「最高の一体をキープしてたってことかい、せこいマネしやがるぜ!」

 僕達の前に立ちふさがる法頼さん。

 そのことはショックだ

 だが、僕の関心はそこには無かった。

 異形の怪異ロア

 こうして面と向かって対峙するとハッキリわかる。挿し込む陽光に照らされて、怪異を包む長い髪の間から、僅かに覗けた顔。

 狂気と苦悶に包まれた表情、それはあの時の表情……。

「紹介がまだだったな。コレが私の怪異『テケテケ』だ」

「やっぱり『テケテケ』ですか……、事故で下半身を失った死者が悪霊となり、人を襲って自分と同じめに合わせるという怪奇、そして、……」

「体を半分にぶった切る、なるほど、たしかに『口裂け女』以上の凶悪性だ。ワープの仕組みは、一度姿を見せた瑞樹の後をトレースしてきたってワケか。なるほど、こりゃ相当なバケモノだぜ……!」

 ギリリ、とジンさんの歯を噛み締める音が聞こえた気がした。

 その様子を眺めながら、法頼さんは面白そうに言葉を続ける。

「まぁ待て、驚くのは早い。紹介には続きがある」

 ちらりと『テケテケ』の方を見やる法頼さん。それがなにかの指示だったのか、異形の怪異は腕縦伏せのように真っ直ぐに腕を伸ばして背中を反らせ、こちらにハッキリと顔を見せた。

 間違いない、間違いのハズがない。

 僕があの人の顔を、見間違えるワケがない!

「この怪異、生前の名をカシマレイコという。瑞樹、キミには縁の深い相手だったな」

「なんですって!?」

 智里さんとジンさんが、驚いて僕の方を振り返る。

 僕は、ただ黙って彼女の顔を見る事しかできなかった。

「通常の契約とは違い、私の方からの強引な霊力供給で無理やり操作しているからな、その分怪異ロアとしての変貌は少なく、生前の姿に近い形をしているハズだ。もっとも、強化の過程で自我を押しつぶしているから、感動の再会とはいかんがね」

「アナタ、最初から知っていて瑞樹を!」

「瑞樹がサキの怪主かいぬしになった時、ずいぶんやりやすくなると思ったよ。この怪異ロア、自我を押しつぶしても執拗に瑞樹を追いかけようとしてな。おかげでキミの追跡は容易だった」

「レイコさんが、僕を……」

「ああ、そうだとも。瑞樹、キミはなにか彼女に恨まれるような事でもしたのか?」

「――!」

 そうだ、やっぱりそうだった。

 当然だ。僕は彼女を殺した。見捨てて逃げた。

 それを許せるワケがない。絶対に許せない、死んだって許せない。

 だから彼女は僕を恨んでいる。そんなのは、当然で、あたりまえで――

「へっ! それがどうした!」

 場の凍ったような空気を、僕の思考の混濁をも吹き飛ばすような大声で、ジンさんが吼えた。

「その怪異ロアが誰だろうが知ったことか! オマエは怪主かいぬしだからって理由で人を殺して、瑞樹のダチまで殺して、その上サキまで襲い、今は俺たちを始末しようとしてる! ここにある事実は、それで十分だ!」

「ならばどうする? 『テケテケ』はすでに貴様ら全員を捉えている、逃げる事はできんぞ」

「決まってる! 退けないなら前に出るんだよ! 『テケテケ』だかなんだか知らねぇが、俺が、テメエ諸共あの世に叩き送ってやるぜ!」

 声を飛ばしながら、ジンさんは法頼さんを指差し、それからゆっくりと手を変形させ、親指を下に向けた

「なっ! 無茶ですジン! あれは万全の状態のサキを倒したんです! アナタじゃとても――」

 ジンさんにすがりつくようにして言う智里さん。

 そんな、不安そうな顔をしている智里さんの頭を、ジンさんはそっと撫でた。

「大丈夫だって智里。俺はオマエの怪異ロアだ、負けるワケねぇだろ?」

「でも!」

 ぽんぽん、とあくまで優しい手つきで智里さんの頭を叩いてから、ジンさんはそっと、智里さんの体を自分から離した。

「瑞樹!」

 ジンさんは僕の名前を叫びと、強引に腕を回し、痛みを伴うほど力で持って肩を抱いてきた。

 そして、僕にしか聞こえないような小声で言った。


「オマエもいろいろ大変みたいだけどよ、智里を頼むぜ。アイツは俺の――大事な娘だからな」


「えっ? ジンさん――」

 僕が何か言うよりも早く、ジンさんは投げ飛ばすような乱暴さで、腕を放した。

「いくぜ外道坊主! 自分の念仏を唱えな!」

「来るがいい! 畜生風情の思い上がり、昇天をもって躾けてくれる!」

 睨みあったまま、ジンさんはすばやく体を廊下に沈めた。

 倒れたわけでも膝をついたワケでもない。

 一番近い体性を言うなら、ランナーのクラウチングスタートだろうか。

 両手と両足を地面につけ、向かう先をしっかりと見据えたその格好は、しかしランナーにしては殺意を放ちすぎていた。

 それは獣の姿勢。

 獲物を前にし、今まさに襲いかからんとする野生の構え。

「グルルルルルルルルルル――」

 ジンさんの口から、人間では絶対に発せないような呻き声が響く。

 それと同時に、ジンさんの全身から灰色の体毛が現れる。生える、なんて生易しい表現では追いつかないほどの勢いで、グレーのトゲトゲしい毛並みが全身を包み込み、それと同時に体が四つ足のソレへと変容していく。

 唯一、顔面だけは例外。

 首から上だけは人間のまま。ただ、それも人の形をしているというだけで、目を剥き、牙を見せつける表情は、もはや人相と呼べるのものではない。

 気づけば、ただでさえ大きいジンさんの体が、さらに何倍にも膨れ上がっていた。

これを犬と証した怪談は、どこかおかしいに違いない。狼というにも大きすぎる。それはまさに、

 初めて見るその姿こそ、怪異『人面犬』の真の形だった。

「ガアアアアアアアアアアアアアアアア!――」

 人の口を獣のようにカッ開き、世界を貫くような咆哮と共に、ジンさんは、二度と戻ることのない道を駆けだした。




「ジン……」

「くっ!」

 呆然としている智里さんの手を掴み、僕は廊下の反対側へと走り出す。

「なにするんですか瑞樹! ジンが戦ってるんです、わたしが離れたら契約の力が!」

「ジンさんは――」

 思わず智里さんに向けて叫びそうになり、その顔を見てハッとする。

 智里さんは、泣きそうな顔をしていた。

 迷子になって、もしかして親に捨てられたんじゃないかと思い込んでるような、そんな、子供みたいな顔をしていた。

「ジンさんは……、ジンさんは暴れて戦うタイプみたいだから、僕たちが傍にいたら邪魔になるよ。だから、離れなきゃ……」

 白々しいウソ。

 いや、ウソにもなっていないような出来そこないの言霊。

 それでも、今の僕にはそれしか言えなくて、それしか出来なくて、

「そうですね……、そうですよね……」

 だから智里さんも、そういう事しかできなくて、

 僕たちはジンさんに背を向けたまま、決して引き返してならないその道を、何度も何度も振り返りながら、それでも一心に走り続けた。




 昇降口を抜け、校庭にたどり着いたとき、一際大きな咆哮が校舎に響き渡った。

 それは悲鳴のようでもあり、雄叫びのようでもあり――そして、その声を最後に、二度と聞こえることはなかった。

「ジン!」

 耐えられなくって校舎に戻ろうとする智里さんの腕を、僕は、さらに強く握り締める。

「智里さん!」

「離してください! ジンの、ジンの霊力が感じられないんです! 契約してればわかるはずなのに! ジンの霊力が、わたしの中のジンの霊力が、感じられないんです!」

「――!」

 何も言えない。

 今度こそ本当に何も言えない。

 それでも、暴れる智里さんの腕を、僕は離さなかった。

 離せなかった。

 ……。

 校門の前には、炎上したタクシーの回りに消防車とパトカー、それから無数の野次馬が集まっていた。

 皆そちらの騒ぎに夢中で、校内の事には誰も気づいていない。

 何人かが何事かとチラチラとこちら見る程度、そのことが、なぜだか無性に悔しかった。

「瑞樹ぃ! 智里ぉ!」

 野次馬の中から、僕たちを呼ぶ声がした。

 聞き覚えある声、声の主は野次馬の群れからフラつく足取りで抜け出し、見るからに満身創痍の体を引きずりながら、それでも精一杯足早に、こちらへと向かってくる

 コートの赤なのか、血の赤なのか、それすらもわからない状態で、サキは僕たちの前に現れた。

「サキ、無事だったんだ……」

「ギリギリなんとかねぇ、けどアレを始末することはできなかったわぁ……。というか、逃げる事だけ考えてたから助かったようなモンだし、それからなんとか瑞樹の霊力を追ってここまで来たんだけど――」

 そこまで話し、サキはこちらの異変に気づいたようだった。

 全身汗だくになっている僕ら、声を上げず、ただ泣き続ける智里さん。

「……ねぇ、ジンは、どうしたのぉ……?」

 智里さんは、ジンさんの霊力を感じられなくなったと言った。

 それはつまり、ジンさんがこの世から、完全にいなくなってしまったことを意味していた……。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る