17話 そしてかくあれば

 図書館の大きな窓から見下ろすは、日の落ちかけた葉槌の街並み。

 山の中腹を切り拓いて、あるいは掘り進めて作られた葉槌学院大学は、遠巻きから眺めると建物が山肌と一体化して、まるで斜面に生える竹のように見える。

 その中でもひときわ縦に伸びた図書館の最上階は港近くの工業団地から山側に広がる住宅街まで、広い葉槌市を一望できる場所として学生の間でも知られていた。

 槙理はあの一件が起きてから樒が近くにいるであろう自宅に帰る気にはなれず、大学の構内をふらついた末にたどり着いた図書館で魔術詠唱の写経をしながら、かれこれ数時間はテーブルを占拠していた。

 樒が休憩室を飛び出した後、我に返った槙理はすぐに樒の後を追ったが、彼女に追いつくことは出来なかった。

 樒が使っていた更衣室のロッカーは既に空になっていたし、正面の出入り口の辺りにも姿はない。

 館内を一周してから再び訪れたロビーで受付に尋ねてみると、彼女は退館の手続きを済ませたことになっていた。ついでに手続き時間も訊いてみると、ほんの数分前の事だと分かる。他を回っているうちに入れ違ったというよりも、樒がわざと避けながら出ていったという方が真実に近いのだろう。

 樒にその場で謝る事も、引き留めることすらできなかった。友を傷つけたまま行かせてしまった後悔が槙理の両肩に重くのしかかる。が、それと同時に、心の片隅で今すぐに顔を合わせずに済んで良かったと胸を撫でおろしている自分がいる事にも気付いて、息を呑む。

――どうして、樒はあんな事を

 槙理は樒が怖かった。正確には樒が何を思い、どう感じてあんな怒りを露わにしたのかが理解できないことに、胸がざわついて仕方なかった。


 各種儀式・魔法の類が魔術に名を変えて一般化し資格さえあれば誰でも使えるようになった現代においても、その技術体系の始祖となる“家元”の筋には家族を非常に大切に扱い、また厳格に魔術を習わせる文化が根付いている。それこそ自らの子供たちの教化のために学校を作ってしまうほどに。

 親は子を愛し、子はそれに応える。そう言う世界観を当たり前として信じてきた槙理にとって、家族を憎むなど考えたことも無かった、まして我を忘れて叫ぶほどなど。

――一体、何があったらそんなことに

 見つからない答えを前に、トートロジーを投げつける。

 1枚、2枚。大抵ならすぐに心のざわつきも収まるのに、どんなに写経しても一向に静まらない。文字を書くごとにあの表情が、やり場のない感情が、かつての情景が、心の底から溢れ出て渦を巻く。

――あいつは、一体……

 シャープペンの芯が折れる音で、槙理は我に返る。

 暗い思考の泥沼から浮上。と、同時に視線を感じて顔を上げる。

「杏華……なんでここに」

 左へ見渡した先、書架の横から本を抱えた杏華がこちらの様子を窺っている。

 以前なら反射的に眉間にしわが寄っていただろうが、もはや今の槙理にはそんな感情を向ける理由も、余裕も無かった。


「ああ、やっぱりそうなのね、樒ちゃん」

 槙理から事の顛末を聞かされた杏華は沈痛な面持ちで相槌を打つ。最初はまた何か嫌な事でも言われるのかと及び腰だった彼女も樒に関する相談だと分かってからは真剣になり、対面で槙理の言葉に耳を傾けていた。

「“やっぱり”って……知ってたの?」

「知っていたというよりも、そんな気がしたっていうくらいだけれど。初めて会った時の話し方とか雰囲気とか、色々辛い思いをして、それでも魔術をやるって決めてる顔してたから」

「辛い、思い……」槙理は杏華の言をそのまま返しして俯く。「だからあいつに魔術を教えるって?」

 杏華は頷いて「あの子をがっかりした顔を見たくなくて、大見得切って引き留めちゃった。

 “弟”と同じやり方で、“1年で退魔士”、なんてね」と、昔話を振って気を紛らわせようと試みる。が、槙理は嫌そうに睨むこともできずに、複雑そうな面持ちのままで言葉を探している。

二人きりの書庫。重く延びる静寂の中に空調のファンの音だけが残る。

「あたし、分からないんだ。あいつがどんな思いをしてたのか、何を見てたのか」

槙理のまだ恐れと戸惑いの混じった声色。

「家族を憎むなんて……どうして、そんな事に」

 意外なほどにまっすぐと怯えと無知を訴える槙理に、杏華はおやと眉を持ち上げる。小さくため息、そして穏やかに言葉を紡ぐ。

「何も、特別な事じゃないのよ。見えるものが違った。目指す先が違った。きっかけなんて、そういう些細なものばかり」

「そんな簡単なわけないじゃない。そんなに怒ったり、嫌ったりする理由が」

「あら、そうかしら?」と、杏華は目を細めて、「あなたの眼の前にいる奴への気持ちは、忘れちゃった?」

 槙理の胸の内、渦巻く感情がにわかに泡立つ。

 もう済んだ事と割り切っていたのに、わざわざ蒸し返すなんて。

「あんた……なに今更!」

 その穏やかなまなざしさえも、今の槙理にはあまりに無神経に思えて、思わず立ち上がる。

 が、その怒りを杏華は容易く手で制し、二の句を封じた。その挙手の一つだけで槙理を黙らせられることを、彼女はずっと前から知っていた。

「ごめんなさい、無神経だったわね」

 そう素直に非を認めるも、杏華は淀みなく言い分を続ける。

「でも、分かったでしょ? 自分の事なら誰かに怒るのって、簡単な事なのよ。理由は些細でもね。

 あなたはもう知っている。だから、あなたはもう怖がらなくても良いのよ」

 その身をもって真実に気づかされて固まっている槙理をそのままにして、杏華はそそくさとその場を後にする。槙理がショックを受けると固まることも、どれくらい待てば我に返るのかも、彼女はよく理解していた。


***


 恐る恐る帰路につく槙理は最後の角を曲がってすぐに樒を見つける。アパートの階段前に立っている彼女の表情は夜の暗がりに埋もれて良く見えないが、そわそわと体を揺らしているところからしてかなり気を揉んでいるようだった。

 と、樒も路地から飛んでくる視線に気付いて、駆けて寄ってくる。槙理は言うべき言葉を急いで脳裏で3回復唱して、大きく息を吸う。

「樒、昼間は本当に――」

「槙理ちゃんごめん!!」

「えっ」

 樒のものすごい勢いのお辞儀、90度。

 先手を打たれた槙理はやはり固まる。

「怒鳴っちゃってホントにごめん! 私、急にワケ分かんなくなっちゃって!」

 樒が顔を上げるなり今にも泣きそうな顔で詰め寄ってくるので、槙理もぼうっとしている場合ではない。顔の近さにどぎまぎしながらも肩を掴んで押し留める。

「いいわよ、そんなくらい。誰にだってそういう時はあるもんだわ。それに、元々の発端はあたしの方だし……あたしこそ悪かったわね、樒」

 今さっき身を持って思い出させられたことを思い出しつつ、言いたくても言えなかった言葉を伝える。

 飛びかかってきただけあって樒は相当負い目を感じていたらしく、槙理の許しを得られただけで肩の荷が降りたようにホッと息を吐いていた。

「高校最初の友達と絶交にならなくて本当に良かったよ」

「あんたねぇ……まぁ、冗談言える元気があるなら、いいか。こんなところで突っ立ってないで、帰りましょ」

 呆れ顔でさっさと先を行こうとする槙理だったが、突然の樒の誘いで、立ち止まる。

「それでさ、槙理ちゃん。お詫びというか、見せたいものがあるからさ、私の部屋に来てもらってもいいかな?」


 槙理が樒の自室、1Kアパートの8畳間に通されてからもう20分は経つ。部屋の主は引き戸の向こう、台所にいる。

 どうにも居心地の悪さをぬぐえずに槙理は部屋を見回す。不安を感じずにはいられないその殺風景な部屋を。

 カーペットも敷かれていないフローリングの上にあるのは座卓と万年床、小さいテレビデオ、教科書と参考書しか入っていないカラーボックス、そしてデスク。

 年頃の少女の部屋にしては無愛想。いや、あまりに小ぎれいすぎて生活感すら希薄になっている。

 背後のクローゼットを開けて秘密の趣味の品々でも出てきてくれたら印象も少しは変わるかもしれないが、実行に移せるだけの無神経さはさすがの槙理も持ち合わせていなかった。それに、もしそこに何も入っていなかったらと想像すると寒気がして、開けてみたいと思う気すら湧いてこない。

 雨風を凌げて勉強ができればそれで良いということ以外の思想を読み取れない寂しい空間。そんな無味乾燥な“ねぐら”を人らしい“住まい”に足らしめている唯一の要素が匂いだ。

 部屋に上がった直後からずっと鼻孔をくすぐり続けている香辛料の香りは時間が過ぎるごとに強くなり、槙理の期待を高まらせる。高校の合格祝いで両親に連れて行ってもらった中華料理の店の中を思い起こさせる、いい匂いだった。

「ごめんね槙理ちゃん。おまたせ」

 引き戸を足で開けた樒の手には酢豚と魚介餡のかかった炒飯。湯気をもうもうと上げるそれらは香りと見た目だけでも槙理の唾液腺と胃袋を強烈に刺激する。

「まだ運ぶのはあるし、形式ばった出し方なんてしないからどんどん食べて大丈夫だよ」

 樒がキッチンと部屋を往復するたびに皿の数は増え、テーブルの上を埋めてゆく。

「これが見せたかったもの? あの備え付けビルトインの二口コンロでこんなに用意できるなんて、驚きだわ」

「食材の仕込み自体は昼間からやってたから、作るのはそんな難しくないよ」

「よく言うわねぇ」

 樒が自分の分も並べ終えたところで槙理は炒飯を一口頬張り、そして思わず唸る。

 咀嚼するたび伝わるエビとイカの程よい弾力。とろりと口の中に広がる魚介の旨味と鼻から抜けてゆく香味が次の一口を誘う。

 その料理は見た目だけではない。味さえも店で出て来てもおかしくない程の完成度だった。

「あんた……この出来で本当によく言うわよ」

 槙理がこぼしたその称賛の言葉で樒は満足げな笑みを浮かべる。

 昼の時と同じように、また向かい合っての食事。

 槙理の旺盛な食欲で見る間に皿の料理は減っていき、デザートを残すまでに至った。

「どうだったかな、槙理ちゃん?」

 皿を片付ける折、樒は尋ねた。

「もう最っ高。あんたがこんなに料理できるなんて、知らなかったわ」

「喜んでもらえたなら、良かったよ」

 そうして、空いた皿の代わりに杏仁豆腐を持ってきた樒は、槙理の前に改めて腰を降ろして、囁く。

「槙理ちゃん。あれがね、私が本当に期待されてたことだったんだ」

 あまりに唐突な、午後のあの言葉に対する答え。

 槙理がその意図を理解するまでに少し間が空く。

「あ、あの料理の事?」

 樒は頷く。

「私のおじいちゃんがホテルでシェフやってて、料理を教わってたんだ。最初は興味本位だったけど、だんだんのめり込んできて。

 おじいちゃんにもよく言われてたんだ。『お前には才能がある』ってさ。他の家族からも『樒も将来は料理人だな』なんて言われててね」

 話の合間に、樒は杏仁豆腐を口にして、「うん、よく出来てる」と目を細める。

 それにつられて槙理も杏仁豆腐を食べる。

 確かに味は美味しい。これも他の料理と同様、店売りかと思うような出来栄えだ。だが、だからこそ、槙理の胸にやるせない感情が募る。

 料理に関しては素人の槙理でもこれほどの物を作る技能を昨日今日で身に着けられるわけがないというのは分かる。そして、それが意味する所も。

 自分が今日まで魔術の修練に励んできたように、樒にも全力で打ち込むに足る“楽しい事”も“暖かい眼差し”も既に持っていた。なのに樒はそれを手放して、上手くいくかも分からないいばらの道を選んだのだ。

「あんたは、誰かに憧れて退魔士になると決めたって言ってたわよね」

 槙理が二口目を掬おうとして杏仁豆腐に半分刺さったままのスプーン。それを持つ指の力が強まる。

「本当にそれだけなの? それだけのために今まで積み上げてきた全部を手放すの?」

 樒はまたも頷く。はっきりと。

「そうだよ。“かくありたい”。私はそれだけのために料理人への道を切り捨てて、家族と大喧嘩して、学校の先生も文句を言えないくらい勉強して、葉槌学院に入ったんだ。

 そしてかくあれば、あの時退魔士あの人がまだとおにもならない、もう助からないはずの瀕死の子供を自分の命と引き換えに救った理由もきっといつか分かる。

 かくあるための道のりがどんなに辛くて苦しくったって、また決めきれなくて後悔するよりも、知れないまま悩み続けるよりもずっとかっこよくて、幸せになれるだろうから。だから私はやるんだ」

 滔々と語る樒の顔は、希望と決意で満ちあふれていた。

 眩しいほどの理想に、強い意志。まるで鋼のようなその心に、槙理はどこか同じ匂いを嗅ぎ取る。

「なるほど、それがあんたの憧れの根っこなのか」

 樒の言葉を反芻しながら槙理はつぶやき、杏仁豆腐の二口目を含んだ。

 一口目と同様、しっとりと甘かった。思わず笑みが溢れる。が、その笑みは杏仁豆腐のためだけではない。

「あたしのお節介だったわね。もっと危なっかしい方に進んでんじゃないかと思った。嫌なこと思いさせて悪かったわ」

「ううん、心配してくれてありがとう。嬉しかったよ。」

 親友の心の強さの理由を掴めた気がして、槙理はホッとしていた。根本にある彼女の“折れない理由”を思うと、これまでの彼女の行動の得体のしれなさも、薄まっていくようだった。

「にしてもさ、もうちょっと物置いたらどうなのよ、この部屋。せめてカーペット敷くとかさ」

「槙理ちゃん、杏仁豆腐のおかわりあるよ」

「ちょっと、話はぐらかさないでよ――いや欲しいけどさぁ」

 和やかな雰囲気が部屋に戻る。


***


 槙理が帰り、静かになった部屋。大量の皿をてきぱきと洗いながら、樒はさっきまでの事を思い出す。

――話したことは本当のこと。でも、全てじゃない。

 そう。樒が槙理に話した真意は3分の2。

 “憧れ”と“求めるもの”に加えて樒が退魔士を志す理由はまだあともう1つある。誰にも打ち明けたことのない“やるべきこと”が。

 打ち明けられないもどかしさも、後ろめたさも無いと言えば嘘になる。だが、それを明かしたところで良い事は何もない。

 それに、誰に言ったとしても絶対に信じてもらえないし、理解してもらえないのは目に見えている。

――いや、それ以前に信じてもらう必要も、理解してもらう必要もない。これは私だけの問題だから。

 樒の心は折れない鋼などではない。その本質はただ硬いばかりの鋳鉄だった。

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