15話 一つだけ、あんたのことを聞かせて

 喉を押し拡げられる感覚。続けて猛烈な吐き気、焼ける様な痛みと共に内容物が逆流する。

 樒は堪らず、今しがた食道まで押し込まれた物を吐き出した。が、出てくるのは粘液と血。繰り返される嘔吐で樒の喉から口腔にかけてはボロボロに爛れていた。

「ぅ……ぐっ、ぉ――ん、げ……ぇ」

 一体自分はどんな霊震に巻き込まれたのか? 酸欠と出血で朦朧とする意識の中、樒は考える。

 自分を取り囲んでいる、辛うじて人の形を成しているもやのような“それら”はまるで踊るようにうねり、時折奥の間から得体の知れない白っぽい塊を持ってきては、それを腕ごと口の中へと詰め込んでくる。だが、異物の感覚こそあれども、実際には口の中には何もない。既定の行為だけを繰り返す虚像たち。

 おそらくは地域の伝承の類に関係があるのだろうが、あいにくその勉強は脇に置いたままだった。備えになるからと槙理にせっつかれていたのに、これでは笑われてしまう。

 取り留めもなく発散する思考から終わりの予感を覚えるが、樒には恐怖も焦りもない。

 魔術災害という共通の障害にあの2人を引き合わせて、協力せざるを得ない状況を作り出す。場当たりで始めた目論見が殊の外うまく進んでいることに、彼女は達成感を感じていた。

――ここから先は2人次第だけど、きっと、大丈夫

 根拠はまるで無いが、樒はこの自分の命すら賭した博打の勝利を確信していた。


 そして、賭けの駒として動く2人の姿は、樒が捕らえられている地点から数百メートル離れた小径にあった。

「あれか。見つけたわよ」

 単眼鏡のレンズの向こうに半壊した寺を捉えた槙理は素早く周囲を観察し、杏華に報告する。付近に樒の姿は見当たらない。付属のレーザー測距儀が距離を割り出していることから目標は物理的な実体を持っているのが分かるが、それ故に内部がどうなっているかまでは見透かせない。

「やはりと言えばそうだけど、進んでる方角が正しいならこの先にお寺に関係しそうな情報は無いわね。」覚束ない手つきで情報端末の地図アプリを操作する杏華が眉間にしわを寄せながら、「現れた霊が作る結界にしても、想定される内部構造にお寺に近いものは含まれてなかったはずだし」


 「うーん、そっかぁ」と唸る槙理は単眼鏡から目を離し、大儀そうに腕を組んで脳内で状況を整理する。と、その無防備な背中を狙う影が木の葉の隙間から滲み出る。

「ここまで情報がかみ合わないとなると――」そして隙だらけに見える二人に向かって飛びかかった幽鬼が形代の群れに跳ね飛ばされ、「こいつら、混合型じゃない? 2つくらい何か混ざってるわよ、絶対」空中で封印術符の乱打を受けて爆発四散した。槙理が独自開発した自立攻撃術式は今日も健在である。

 この鬼の側の伝承はただの端末になっていて、本体は別の場所にある。だからこいつらを封じ込めても何も起きないのだというのが槙理の言い分だった。

 槙理の言うような都市伝説や言い伝え等々が混じり合って歪な進化を遂げた“混合型”と呼ばれる魔術災害は、多くの場合で混ざれば混ざる程にその像は明確さを失い、実体どころか現象としても顕出できなくなってしまう。が、もちろん例外というものは何事にも存在する。

「ああ、その可能性は失念してたわ」杏華はなぜすぐに思いつけなかったのかと悔しそうな表情で手を打つ。そして負けじと思考を巡らせ、「確かこの土地には十団子の鬼と、あとは素麺地蔵の言い伝えがあったわね。2種の混合で割合が偏ってるとかなら、外から人を引き込んだりできるくらいに影響が強いのも、納得いくかも」

「書いてある通りだと片方は独立霊体で、もう片方は憑き物の混ぜ物。面倒な組み合わせねぇ」

 操作にまごつく杏華から端末を取り上げて魔術災害対処マニュアルの実例解説の項目を読み込みながら、槙理は作戦を練る。

 今回予想されるような複数種の魔術災害が融合しているタイプの厄介な点は封印すべき魔術災害の「中心」がどこにあるのかが不明確になること。すなわち霊体と、憑代よりしろなっている物のどちらに攻撃を仕掛ければよいのかが、実際にやってみなければ分からないことにある。

 二つの厄災を同時に相手取るなど、普通の魔術士ならここで尻込みするだろうが、と槙理はほくそ笑む。本体の憑物が見えているならば自分ひとりでも朝飯前、仮に強力な霊体と会いまみえることになっても、今はこの上ない程に強力な協力者がいる。試すべき作戦も分かっている情報だけで三通りは作れる。ならば残った不安要素は、一つだけ。

 長考にしびれを切らした杏華が何か言おうとするのを手で制して、槙理はかつての友と向き合う。

「大丈夫、やることは決まってるわ。でもその前に訊かなきゃいけないことがある。一つだけ、あんたのことを聞かせて」

 いきなり態度を改めて、神妙な面持ちでじっと見つめてくる槙理に戸惑いを覚えつつも、事の重大さを感じて静かに問いかけに備える。

「あんたさ、魔術が嫌だったんでしょ? 家から出たくなる程にさ。なのに、なんでまた魔術士やってんのよ?」

 そう尋ねられた杏華は、予想だにしないその質問に困惑の色を見せていたが、すぐに意図を察して、「なんだ、そんな事」と胸の内を開ける。

「ただ、守りたいと思うものができた。本当にそれだけ」

 その答えの真偽を精査するかのように槙理はじっと杏華の顔を見つめて、十数秒の沈黙。だが、長い間を空けた彼女が返す言葉は「ふぅん。それなら、良いや」とだけ。

 及第点だ。そう書いてある表情で、槙理は進むべき道を顎で指す。

「ほら、時間無いんだから行くわよ。近づきながら説明する」

 そう残してずんずんと先へ進む、4年前よりも頼もしさを感じる背中に微笑みを投げかけ、杏華は後を追う。


「ぁ――か、はっ……」

 樒は意識の綱が少しずつ切れてゆくのを実感していた。

 滲んだ視界に目を泳がせると、あらゆるものが残像を残して見える景色をかき混ぜる。もはや前後がどちらかも不確かだった。

 何かに食道が押し拡げられて、痙攣する。どこまでが自分の身体で、どこからが外の世界なのかも、もう分からない。じくじくと痛んでいた左腕は、どこにあるのだろう? いや、何のことだ?

 思考はどんどんと退行していき、もはや考えるということすらも困難になってきた。

――やりすぎた、かな

 辛うじて浮かぶ諦めの念。そうして最後の糸が切れ、深い暗闇へと落ちてゆく直前のことだった。


「水月流境界術、八の型。霞切かすみぎり寒江丸さむえまる

 襖を突き破り、樒の目前を駆ける斬撃。生まれた空間の断裂は刹那の内に消え、広間に身を躍らせた杏華が床板に脚を付ける頃には、樒を囲んでいた影の群れは活動を停止し、その身を虚空に融かした後だった。

「樒ちゃん……」

 膝をつき、部屋の中央に血にまみれてぐったりと横たわる樒の青白さを増した肌に触れる。だが、今は悔やんだりうろたえている場合ではない。

 わずかだが、まだ呼吸も心拍もある。手遅れになる前に彼女を一刻も早くここから運び出すのが先決であるのは明白だ。

 樒のけがの状態を確認して一息に背負う。と、背後に感じる気配。振り返れば、今しがた襖に開けた大穴の前に巨体が立ちはだかる。樒を攫ったあの鬼の霊だった。

 しつこい奴だ、そんなにもこの娘が欲しいのか。杏華は睨みあいの中で歯噛みする。出来ることならさっさと叩き斬ってやりたいところだが、今はそれどころではない。

 ゆっくり、すり足。目を離さないままに位置を調整し、「ごめんなさい、今はあなたに付き合ってる暇はないの……」猛然と振り下ろされる鬼の拳をひと跳びで避けると、空中で身をひるがえして――「よっ!」足先で限界まで圧縮した境界を飛び蹴りに合わせて開放。逆巻く霧を残して急加速すると、あっという間に建物の外へと出る。

 広い前庭、偽物の夕暮れに照らされて宙を舞う杏華。その目線の先に仁王立ちする姿を認め、名を呼ぶ。

「槙理、お願い!」

「わかってる」

 その台詞と共に振り上げらた腕から無数の金属製のワイヤが伸び、負われた背中から離れた樒を捉えて緩制動。そのまま紙札のクッションへ着地させる。

 一方、空中に残された杏華は。

「掛けまくも畏き大山津見神おおやまつみのかみの大前に、斎主いわいぬし水月杏華、恐み恐み白さく」

 槙理の魔術の力を借りてさらに高く。見上げるほどに飛び上がり、彼女は静々と奏で上げる。掲げた両の手に握るは、金装飾の長杖。

空蝉うつせみの世にでたる枉津日まがつひりし数沢あまたなる荒魂あらだまの者々を神鎮かむしづめに鎮めんと欲し」

 斜陽の空に長い髪をたなびかせながら、眼下の廃墟へと急降下。

衣手ころもで常陸ひたちにて称辞たたえごとえ奉る衝立船戸神つきたつふなどのかみより賜りし靄掛かる卯杖うづえ御神徳みめぐみを乞い祈願奉ねぎまつらんと恐み恐みもうす」

 荒れ放題の瓦屋根を杖の先端が突く。かつん、と澄んだ音が一つ、屋根を伝って柱へ、礎へと駆け巡る度に残響を強めていき、

「水月流境界術、十九の型。古滴ふるしずく

 最後の一節と共に廃墟、正確にはその幻影が粉々に砕ける。散り散りになった余剰魔力子の残す燐光と共に、災禍の根源を封じ込めた塊が――ない。

 杏華は寸前で危険を察知して身をよじる。その直後、空を薙ぎ払う何かがはためく上着の裾を掠め飛んだ。その正体赤肌の手。そうだ、あの時倒さずに逃げた幽鬼だ。奴がまだ残っている。

 またしても封印が失敗したのか? 否。そうではなかった。

「槙理、見つけたわ!」

 続けざまのもう一撃を杖で払いのけて着地。さらに飛び込む蹴りを部分境界障壁で防ぎながら、探る両目がある物を捉える。その視線の先には、苔むして崩れかけた一体の石地蔵。それこそが、杏華と槙理が狙っていた魔術災害の根源だった。

「あなたの11時方向、約15メートル先!」

「分かったわ。あとは任せなさい」

 敵を境界で押さえ込む杏華の背後を通り、槙理は悠々と目標へと向かう。その手が握るは、予め生成しておいた1枚の呪符。これを目標に貼り付けて発動させれば、全てが終わる。


――守りたいもの、か

 不敵な笑みの裏、槙理は心中でまた杏華の事を考えていた

 あの日、自らの名に課せられた責任から逃げた恥知らずは、私の知らないところで新しい役目を見つけたらしい。

 守りたいもの。それが何であるのかは分からないが、少なくとも今の奴は、自らの才を諦めていない。

これでEnable――」

 まだ思う所はある。許せないことも、理解できないこともある。だが魔術に関してはだけは、信じても良い。それが分かっただけでも、今の槙理には十分だった。

おしまいNow!」 

 槙理、石地蔵に札を叩きつけるに合わせて高らかに宣言。災厄の源が光に包まれ封印されゆく様が、槙理の眼に焼きつく。


***


 2人が樒を運んで山から降りた先では、気を揉んで駐車場内をうろついている歩、そして数人の警察官と救急隊員が待ち構えていた。歩が先回りして手配して、なおかつ事情もあらかた説明していたこともあってか事後の処理はスムーズに進んだ。

 それでも意識を取り戻した樒が担架から降りないよう言いくるめながら救急車に乗せ、魔術災害の実況見分から続けて魔術使用に関する事情聴取を受けている間に時間は流れ、全てが終わった頃には夕暮れは過ぎ、空に宵闇がかかり始めていた。

「これで全部終りね」

 その場を後にする警察車両を見届けた杏華は、視界の外にいる槙理に一言、声をかける。

「今日はありがとう、槙理。またあなたと話ができて、嬉しかったわ」

 この感謝は言ったきりになるであろう事を杏華は了解していた。

 もうずっと前に終わった関係だ。本当なら望むべくもなかった“もう一度会う”という願いが叶っただけでも、彼女は満足だった。

 だからこそ、杏華は槙理の返事に思わず振り向く。

「私にはまだ、あんたのことは許せない。でも、あんたの魔術を近くで見れて良かった。だから――」少し、逡巡を残して「なんて言うか、あたしも、会えてよかったって思う」

 彼女は背を向けて、頭を掻きながら山を見上げていた。谷あいを吹き抜ける涼しい夜風で、二つ結びが揺れる。あの頃から変わらぬ子供っぽい髪型が、過ぎ去った日々を思い起こさせた。

「さ、もういい時間だし、帰りましょ。家まで送っていってあげるわ」

 その誘いに対して、槙理はそっぽを向いたままで返事も返さない。あそこまで言っておいて、なにも今更こんなことで意地を張ることないのにと杏華は肩を竦める。

 やはり、根本から変わるにはまだまだ時間が必要ということだろうが、杏華の頭にはカチンとくるものがあった。

「そっぽ向いてたってだめよ。歩は先に帰っちゃったし、あなたに帰りの足が無いことくらいわかってるわよ」

 諭すにしてはいじわるな言葉選びにさすがの槙理も観念したのか、頬を紅潮させながら肩越しに振り向いて、“分かってるくせに”と目で訴えかける。

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