第14話 あなた、何考えてるの?

 小さく呻いてよろける樒を目の当たりにして、杏華は頭に血が上るのを感じる。しかし、それで冷静さを失うような女ではない。鬼が獲物を仕留めようとするあまりに生まれた隙を、彼女は見逃さなかった。

 樒に伸びる鬼の大振りな貫手ぬきてを杖で叩き落とし、返す手で顎から後頭部と続けて強打。怯んだ所で足元を薙ぎ払う。転ぶ鬼の身体が地面に着くより早く鳩尾に杖先を突き込んで、杏華は詠唱文を捲し立てる。

「水月流境界術、十七の型。淀名残よどなごり!!」

 悲鳴を上げさせる暇も与えない、流れるような業前。先程と全く同じ魔術で、またも鬼の体は砕け散った。

 この魔術が奴に効かないことは使用者である杏華自身が一番よく知っている。が、今彼女が分かっている範囲で、鬼の霊に対して一番時間を稼げるのはこの封印魔術しかないということも、彼女は同時に理解していた。

 時間に余裕はない。杖を地面に突きたて、杏華は次の魔術を詠う。

「掛けまくもかしこ衝立船戸神つきたつふなとのかみの大前に、斎主いわいぬし水月杏華、かしこみ恐みもうさく。

 いにし頃より枉津日まがつひえにしに来たりて……」

 衝き立つ聖なる卯杖の写像から滲み出る靄が、杏華の祈りのことばに呼応して渦巻く。それらは見る間に勢いを増し、4筋の辻風となって斜陽の茜色に染まる。

幽界かくりよより疎び荒び来む穢悪を待ち防ぎ掃いらんと欲し、大神の御神徳みめぐみを乞いぎ奉らんと恐み恐み白す」

 杏華の心内には魔術の完成形。それを現へと転写するべく、彼女は高らかに宣事の結び――その真名を詠う。

「水月流境界術、十の型。靄払もやはらい 凍清水いてしみず!」

 立ち込め、逆巻く靄がその一声と共に晴れ渡り、姿を顕したのは四方を囲む太い木の柱と豪奢な標縄。霊的存在をすべて払い除ける強力な結界の完成だ。

 これでしばらく襲撃の心配はない、次は樒だ。と杏華が振り返り「樒ちゃん! 大丈夫?」と言いかけて、固まる。


「先輩、ケガの心配はなさそうですね。さっきはすぐ気づけてよかったです」

 そこには何食わぬ顔で笑う樒がいた。彼女はボロボロになった左の袖を躊躇いなく破り捨て、白い肌にぱっくりと開いている傷口に動じる様子も無く淡々とハンカチをあてて止血を始める。

「それにしても先輩の魔術、間近で見るとすごい迫力です。憧れるなぁ」と呑気に称賛を送ってくる樒を前に、絶句する杏華。無事なのは嬉しいが、そうではない。

「あなた……なんでそんな、平気そうに……い、痛くないの?」

 それを聞いて、樒は不思議そうに首を傾げる。

「それはまぁ、もちろん痛いですけど。そんな事より、さっき霊が本体ですよね。なんとかしてあいつをやっつけないと」

「『そんな事』じゃない!」

 樒の言を遮って杏華が怒鳴る。だが、これは叱ればいいのか、心配すればいいのか。胸で感情が入り混じる。

「あなた、ケガしたのよ? もっと自分の心配とか……ううん、それよりなんで庇うなんて……」

 樒は困惑と恐れが入り混じった杏華の顔を目を丸くして見つめ、次に視線を自分の腕に移して少し考える。そうして間を置いてから、それもそうかといった顔で納得したように頷く。

「まぁ確かに傷がそんなに深くなかったのは結果オーライでしたけど、あのまま先輩に当たったらたぶん肩とかやられてたでしょうし、先輩がそのケガで戦えなくなった方がよっぽど危ないですよ。それにこれくらいの手当てなら何度かやったことあるんで、大丈夫です」

 その表情、態度は苦痛を我慢して気丈に振る舞っているようには見えない。樒は、なぜ怒られたのかが本当に分からなかったようだ。彼女は自分が負傷することを承知の上で、ただ今後の危険を最小限にするために考えうる最善の策を選択し実行しただけのようだった。


 理解しがたい。が、しかし。と杏華は思わず歯噛みする。

 樒の推察は正しい。あの死角からの一撃は、彼女が動いてくれなければ間違いなく自分に当たっていた。常時展開している防護境界狩衣で一撃目の爪は防げたとしても、同時に伝わる衝撃で体勢を崩して、続く二撃目をまともに食らっていただろうし、もしそうなっていれば魔術を維持できていたかどうか。

 あの時、自分は命さえ危うかった。確かにそうなのだが、だからといって……

「……ごめんなさい、ちょっと取り乱してたわ。助けてくれて、ありがとうね」

 杏華は樒から感じられる得体の知れない予感を意識中から追い払い、謝罪する。今、彼女を警戒しても何の得もないのは明らかだし、それより先にやるべき事がある。

「さ、樒ちゃん。腕を貸してちょうだい。ずっと押さえてるのも大変でしょうし、ちゃんと締めなおさないと」と樒の手を優しく握った杏華は、目を閉じて静々と魔術の詠唱を始める。


***


「よし、これなら有り物で行ける」

 葉槌市周辺の地図にせわしなくペンを走らせていた歩が、今度はホルダーから伝票を毟り取って図を書き殴る。

 対面で眺める槙理には、その図が魔術の構成を書き表したブロック線図であるとすぐに理解できた。内部で使われている関数も、歩がネットに公開している記事で何度か見かけた覚えがあるものばかりだ。

 確かこの魔術は。と槙理が記憶を掘り起こそうとしたところで、歩に肩を叩かれ我に返る。

「さ、外出るよ! ――おっちゃん、つーことで火急の用事で早退するよ! 代わりに達己たつき寄越すで、電話で呼んでやって!」と店主である叔父に弟を身代わりとして差し出し、槙理を引き連れて店を飛び出す。


 店先の駐車場兼前庭の真ん中で仁王立ちしてカンニングペーパーに目を落とす歩と、それを固唾をのんで見守る槙理……と店内の客。

 おもむろに目を上げたところで自分に注がれている視線の多さに気づいた歩は、苦笑いしながら、「こりゃ、ちいとテンションあげてかにゃあな」と独り言ちると、軽く両頬を叩いて口を切る。

「吹く風来たるは東の海よ。野駆け山駆け我が身を回せ!」

 調子の良い魔術始動成句と共に涼風が起こり、槙理の頬を撫でる。

 魔術始動成句トリガーフレーズの宣言によって魔術が行使可能になったことを現す心象風景の限定的な顕出は、次第にその勢いを強めて木の葉を揺らし、土埃を巻き上げ始めた。

「東西東西、これよりご覧に入れますは風見鶏十八番の空中渡り。人はべどもんだりできぬ。さらば身共みどもみいつの種ですかしてみせようこの世の摂理」

 少し大げさな抑揚をつけた一節を唱え終えるのを待たずに、カンニングペーパーが歩の手から離れて風に乗り、宙を舞った。だが彼女は意に介さず、むしろ輿が乗った様子でにやりと笑って大きく腰を落とし、地面を踏み鳴らす。

「飛ぶなら手始め跳ねねばならぬ。返す力の多重衝突Ex-Collision襟裳えりもの岬で蹴躓いても心配無用。

 お次に鳥なら羽ばたくはずが、人に翼は生えてはおらぬ。代わりに立てる仮想帆走Virtual Sailの場当たり後悔、風なし波なし気の向くままに」

 歩の魔術の術式の記述仕様は言葉だけで構成されている。すなわち今彼女が詠唱と同時にしているはったりの効いた身振りは魔術を行使するうえで全くの無意味であり、純粋に見物している槙理や店内の客の目を楽しませる為だけにやっているとしか考えられない。

 いや、これこそ、と槙理は思う。同時に存在する実利と外連、計画に寄り添う即興。どんな時でも遊び心を忘れない。これこそが歩の堂々とした立ち振る舞いの原動力なのだろう、と。

 そんな思索をしている間に歩の詠唱、というより演芸パフォーマンスは終盤を迎えつつあった。

「最後に肝心カナメの光明寺、いかに飛ぼうと的を外さば笑いもの。方位収斂Vector Focusどこ向くべくか、決めるはイチイに樫の船とくら!

 さて種の仕込みもよろしいようで、諸々上首尾に事が走りましたら拍手栄当栄当の御喝采の程、乞い願い奉りまする……っと!」

 歩、口上の締めと共に跳躍。その姿が掻き消えた……と思いきや。


「う、うわぁ」

 目の前のあまりの光景に、槙理の顔が引きつる。

 歩はバグの生じたゲームキャラよろしく地面にめり込み、その像を激しく揺らしていた。

 魔術の行使を観測していると、外界から得られる感覚情報と記憶子情報の間に齟齬が生まれて、“魔導錯覚”と呼ばれる不思議な現象が時折発生する。

 魔導錯覚自体はさして驚く事ではない。魔術の世界に身を置く者なら一度は必ず目にするありふれた現象だ。しかし、大抵の場合でそれは“行使者の姿が歪んで見える”だとか“光が浮かんで見える”程度のもので、今の歩に起きている変化は、槙理の持つ魔導錯覚に対する認識を改めさせるほどの破天荒さだった。

「さあ、時間ないんだから私に掴まって。そろそろフライトの時間さ!」

「あ……つ、掴まれったって……――え、うぁ?!」

 気味の悪さに引き気味だった槙理だが、意を決して歩の方へと手を伸ばす。と、その手が何の前触れもなく急に引っ張られる。視界が一瞬ぐわんと大きく揺れて、気が付くと彼女はしゃがんでいる歩の背に負われていた。

「えぇえ……」理解が追いつかず、槙理は柄になく混乱の嘆息を漏らし、「い、いぃ、今あたし何されたんですか? っていうかあんな派手な魔導錯覚は――」

「講義は帰ってからいくらでもするから、いくよ」

「え、ちょっと、まだ心の準備が」

「せーの、ほぁいッ!」

「や、待ってくださ……ひ、ゃああぁぁぁあぁぁあ!!」

 まるでジェットコースターの加速。だが今はスリルだの爽快感だのと言っている場合ではない。槙理の調子はずれな叫びが初夏の葉槌の空に響き渡る。


***


 一通り詠唱を終えて、杏華は残った息を細く吐ききる。念のためにと樒の腕に巻いたハンカチの端を指先で擦るが、まるで接着剤でくっつけたかのように、程よい肉付きの腕に軽く食い込んだまま動かない。成功だ。

「これでよし。もう動いていいわよ」

「あ、ありがとうございます」

 恐る恐る腕をひっこめてから興味深そうに振ったりつついたりしている樒を微笑ましく見つめる杏華だったが、すぐに次の手を思い出して立ち上がる。

「さあ樒ちゃん、一旦ここから出ましょう」

「出るって……できるんですか?」

 突然の提案に驚きを隠せない様子で、樒が顔を上げる。

「“脱出すること自体は”そんなに難しい話じゃないわ。そのための魔術だってあるんだし」

 霊震によって生み出される結界も、結局はある空間をすっかり覆いつくした境界、すなわち魔力子で作られた壁にすぎない。それに穴を開けさえすれば、脱出できる。

 とはいえ、それはあくまで理論上の話だ。そんな荒業は、常人とは比べ物にならない程に強い精神力を持つ杏華だから成立させられるのであり、常識的に考えれば独力でやろうなどと思う者はいない。

 本来なら喜ぶべき話のはずだが、樒は不安げな表情のまま。杏華が安心させようと「大丈夫、私になら出来るわ」と付け加えて宥めるが、彼女はそうじゃないと首を横に振る。

「襲ってくる鬼はまだやっつけたわけじゃないんですよね……?」

「ええ。でも、それはひとまず後回し。怪我人を引き連れてたんじゃ、倒せる相手も倒せないわ」

「逃げてる最中に襲われたらどうするんです?」

「私が展開してる結界を解除するのに合わせて境界を破断する魔術を打ち出して、霊震で生み出された方の結界を無理やり破る。あとは目の前に出来た裂け目に飛び込めば数秒もかからないわ」

「でも、霊震を放っておくなんて……」

 やけに食い下がってくる樒に、杏華の良心が押さえ込んでいた不信感が再燃する。やはりこの子は何か確固とした目的をもって霊震に足を踏み入れたのだ。放っておけば次にどんな危ない事をしでかすか分かったものではない。

「あなた、何考えてるの?」我慢しきれず、訝しげに問いただす。「あなたは私だけじゃない。自分自身までわざと危険に晒そうとしてる。そうまでして、何をしたいの? それを聞かせてもらわないと――」

 言いかけて、止める。首を傾げて理由を尋ねようとする樒を手で制して杏華は耳をそばだてる。

 何者かが争う音。無数の何かが風を切って飛ぶ。獣のような叫び。それらが次第に近づいて、激しさを増してゆく。そして、ついに木々の向こうから音の正体が姿を現す。


追加宣言するDeclareすいの一行で以て、我、万物を満たさん。みずのえほとばしれ、みずのとよ滴れ」

 現れたのは吹き飛ばされて転がる鬼と、それを形代の群れを従えて追う槙理だった。

凝結Congelation追加設定xvxv-Option、60、9。術式転写規定拡張2番Reading : SSTP-No.2EX および封印術式15番Contain Symbol-No.4,干渉術式読み込みInterference Symbol術式生成Pipe,Generate

 逃げようとする鬼、もとい祥白童子の脚に形代が命中。腱を切り裂かれた巨体がその場に倒れ込み、続けざまに投射された形代で、四肢が地面に固定される。

外部術式取込規定4番ESCP No.4七星ななつぼし記録Record,開始Start

 槙理はゆっくりと脚を引きずるようにして標的ににじり寄る。当然、これも魔術の詠唱。正確には記述の一部である。

 槙理はこの鬼霊に対して既に5回、それぞれ異なる調整をした封印魔術を行使して、そのすべてが不発に終わっていた。これ以上の失敗は彼女自身のプライドに関わる。一族に伝わる奥義の一端たる反閇へんばいを用いるその横顔には、重責と苛立ちの汗が浮いていた。

ここまでPeriod。 連結Link追加設定dd-Option。」

 移動手段を奪われてなお紋様の外へと逃れようともがく鬼の身体に、槙理は無慈悲に一枚の紙札を叩きつけ、合わせて金属の粉を高く振り撒く。

収容Contain有効化Enable……Now!」

 槙理の号令で舞い散る鈍色の粒子が寄り集まり、形作られたのは無数の楔。そのすべてが一斉に鬼の全身に突き刺さり、霊体を粉砕する。しかし、それでも霊震の鎮圧には至らず、後には何も残らない。


 佇む槙理は、自分に向かっている2つの視線を思い出して、意識を現実世界へと引き戻す。

 今は放心している暇はない状況だというのに。未だ脳髄で反響する自責と自嘲が槙理の自意識を揺さぶる。

「また危ないところに首突っ込んで立ち往生して。懲りないわね、杏華」

 我にもなく強まる語気。矛先を求める感情のままに視線をさらに鋭く杏華に向けて、続ける。

「しかも今度は魔術も使えない私の友達を引っ張り込んで、無責任も良い所よ」

 杏華はその責めに反論できずにただ俯き、伏せ気味な耳と尻尾がさらに垂れ下がる。その姿が昔と重なり、槙理の心をさらに刺激した。

「もういいわ」槙理はふん、と鼻で笑い、「あいつは私がどうにかする。あんたたちはそこで大人しく待ってなさ――って、樒!?」

「樒ちゃん!? あなた何やって……!」

 樒の突然の行動に、2人揃って度肝を抜かれる。なんと、彼女はいきなり駆け出したのだ。そしてその足が結界の外を踏んだ、その瞬間。

「槙理ちゃん! 杏華先輩! どうか――」

 不意に伸びた手に足首を掴まれ、宙を舞う樒。何かを言い終える前に、その姿がすぐ近くの苔むした地蔵に引き込まれて、消えた。


「あのバカ、一体なんのつもりで!」

 槙理は足を踏み鳴らして怒りを露わにする。以前から無茶をする奴だとは思っていたが、自分から助けを求めておいて死にに行くような真似をするなど、槙理には全く理解できなかった。

 怒りの渦中の槙理だったが、ふと、ある異変に気付いて息を呑む。

 彼女は、自分が管理している形代の1枚が急速に離れてゆくのを感じ取っていた。帰還の指令を念じても帰ってくる様子はない。100メートル、150メートル、どんどんと離れてゆく。

 槙理の怒りが、急速に冷えてゆく。目が覚めたかのように、合理的な思考が舞い戻る。

 魔術の乗っ取りを最初に考えるが、それをやれるような人物がここには存在しないうえ、形代の移動を察知出来ている、つまり自分との繋がりが保たれている以上、ありえない。疲労から来る操作ミスや術式の記述失敗という線も、複数枚で同時に発生しているならまだしも、1枚だけに不具合が発生するなど仕様上起こるはずが無い。

 状況から考えられる理由はただ一つ。誰かが形代を物理的に掴んで移動しているのだ。

 この場におらず、物を掴める実体を持ち、なおかつ形代を持っていく理由があるような“誰か”と言えば、当然。

「あいつ、本当になんのつもりで……?」

 樒の真意はともかく、今はこれを追う以外に手はない。新たな形代に焼き込む追跡用の魔術を頭の中で組み上げる槙理だったが、その先の事が脳裏をよぎる。


「あのさ……さっきは、ごめん。イライラして言い過ぎた」と、意を決して、俯くかつての友に声を掛ける「急だし、現金だけどさ、またあんたの力が必要なんだけど。一緒に来てくれる?」

 助力を乞われた杏華は、ハッと顔を上げて、わずかな逡巡を経ておずおずと頷く。

 ためらいこそあるが、その赤い瞳に映る確かな自信。それをしかと感じ取って、槙理は不敵に笑った。

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