第13話 あいつ、普通に生きてたんだ

 薄暗く、広葉樹が鬱蒼と茂る森の中。見上げてみると、木の葉の隙間から見える空はひどく変色し、まだ昼前だというのに気味が悪くなるほどに鮮やかな夕暮れに染まっていた。

 杏華はその暗い日差しに照らされながら、木々の間に伸びる細い小径をゆっくりと、全方向に神経を研ぎ澄まして進む。周囲からは落ち葉を踏む湿った音以外、何も聞こえてこない。

 辺りを抜け目なく見回しながら杏華が脳裏に思い浮かべるのは、退魔士組合に加入した折に貰った、周辺地域で発生する魔術災害の対処マニュアルの冊子。そう、今この山中に異界を生成している魔術災害の正体が何であるかを、彼女は知っているのだ。

 その地の伝承や信仰に関連する魔術災害の中には、安全に鎮圧するための対処フローが明確に定まっているものが存在する。この“十団子の鬼霊”と呼ばれる降霊現象もその内の一つにあたり、出現する童子と規定通りの会話を交わすことによって対霊攻撃魔術を使わずとも容易に鎮静・収容できる。

 とはいえ、結界内へと犠牲者を誘導する暗示は非常に強力であるし、なにより安全なのは正しいやりとりをした時だけ。受け答えを間違えれば命も危ういのだ。発見し次第鎮圧するべきなのはどの魔術災害も同様である。

 

 急な坂道の手前に来て、杏華は背後に嫌な気配を感じる。振り返ると、少し離れた木陰から白装束の小坊主が現れ、にやにやと笑いながらこちらへ近づいてくる。彼女と大差ない背丈の子供だが、その眼は獣めいてぎらぎらと光り、薄ら笑いの口の端からは今にも唾液の滴りそうな鋭い犬歯が垣間見える。人間でないことは火を見るよりも明らかだった。ということは。

「あら、こんな所で何しているの?」

 小坊主が放つ威圧的な雰囲気にも動じず、杏華は身構えて形式通りに問いかける。必要はないが、念の為生成しておいた刀の柄に手をかける。

「わしゃぁ祥白童子しょうはくどうじ。われもこんな夕刻にどこ行くだ」

祥白童子しょうはくどうじ? なるほど、あなたがこの峠を騒がす人食い鬼ね……私はあなたの事を救いに来たのよ」

「救うぅ?」童子はけたけたと杏華を嘲る。「みるい娘っ子だ。われん立場考えてごぉよ」

――そんなもの、とっくに分かっている

 杏華は心の中で独り言ちる。目の前で熱せられたバターのようにどろりとその身を融かした童子が、たちまちに見上げる程大きな鬼へと変化したことも、すべては予定された手順の通りだ。

「あなた、とんでもない神通力を持っているのね。冥途の土産に、あなたのその力、もっと見せてもらえるかしら?」

 口調こそ自分の物だが、杏華は努めてマニュアル通りの答えを与える。そうすると、鬼霊は気を良くして鷹や鹿に変わったり、大に小にと目まぐるしく姿を変えてみせる。彼はそういう“事象”なのだ。自我があるように見えるだけで、中身は与えられた情報を元に出力を返すだけのプログラム。

「最後にお願い。私の手の上に乗れるくらい小さくなってみ――」

「お前はちげぇ」

 杏華は本能に突き動かされて右に飛び退く。瞬間、鬼がその巨体からは想像もつかない速度で急接近し、縦拳の打ち下ろしが地面を穿つ。続けざまにその腕で跳躍、木で跳ね返って方向転換して飛び蹴り。杏華は寸前でそれを転がるように回避、抜刀。舞い上がった落ち葉と土の向こうにいるはずの鬼へと鋭く突き込む。しかし、切っ先は祥白童子しょうはくどうじを捉えてはいなかった。目の前は全くの無人。右から左へと見まわすが、やはり人影は見つからなかった。


 無風、無音の死んだ世界。

 夕日に妖しく照らされた白刃を鞘に収め、杏華は表情を曇らせる。悔しさではなく困惑によって。

 奴はおびき寄せられ、孤立した獲物を自分から近い順に狙うようにできている。目の前の獲物から逃げるなど、そんな反応についての記述されていた覚えは無かった。そもそも、「違う」とはどういうことなのだろう。何か余計な情報を与えてしまったのだろうか?

 いや、今失敗の原因を考えても仕方ない、と大きなため息をついたその直後、遠くから甲高い悲鳴が耳に届く。聞き覚えのある声だった。

 あらゆる思考、推察、予想をその場に置き去りにして、杏華は持てる全速力で来た道を引き返す。ここまで直線距離で1キロメートルは歩いてきた。ただ走るのでは間に合わない。

「早言伝……澪渡みおわたり凍清水いてしみず。伝え給え」

 魔術の発動で杏華の歩幅が極端に広がり、まるで水切りの石が水面を跳ねるかのような動きで木々の合間を駆け抜けてゆく。

「掛けまくもかしこ意富加牟豆美命おおかむづみのみことの大前に、斎主いわいぬし水月杏華、かしこみ恐みもうさく!」

 枯れ葉を巻き上げ、倒木を飛び越え、枝葉を折り砕きながら彼女が詠うは破魔の祝詞うた。人の道を外れた鬼の魂を打ち払う魔術。

もとき心にて穢悪えあくえにしりて疫鬼おにに外れし祥白童子しょうはくどうしの魂を千里ちさとの外へまかねと追い給わんと欲し」

 背の高い植物の茂みの向こう、人間と大きな怪物の姿がはっきりと見て取れる。杏華は迷いなく赤い肌の怪物へ刀をナイフの如く投擲、流れるように虚空から自分の身長と同じくらいはあろう長さの杖を取り出し、「衣手ころもで常陸ひたちにて称辞たたえごとえ奉る衝立船戸神つきたつふなどのかみより賜りし靄掛かる卯杖うづえ御神徳みめぐみを乞い祈願奉ねぎまつらんと恐み恐みもうす」刀で大樹にくぎ付けにされた鬼へと強かに打ち付ける。

「水月流境界術、十七の型。淀名残よどなごり!」

 魔術の名を高らかに宣言すると同時に、鬼の全身に金色のヒビが稲妻めいて走り、砕ける。


 さらさらと宙を舞い、消えてゆく金の燐光。最後の一欠片が溶け消えたのを見届けた杏華は大きく息を吐いて、先程まで鬼と対峙していた少女に鋭い視線を向ける。

「あなたまで……何をしてるの、樒ちゃん?」


***


カラン、という小気味のいい音で槙理は我に返った。

 ぼんやりとしたまま音の主であるレモンティーを一口含んだところで、槙理は自分がどこにいるかを思い出す。

 漆喰の白と調度品のダークブラウンが心地よいコントラストを作り出している空間に繁盛とは言い難い客入り。そこは以前樒に紹介されたあの喫茶店の店内だった。

 槙理は、樒に打ち明けてもなお、杏華の事を考えていた。

 ひとつのことでこんなにも思い悩んだのは、槙理にとって2回目の経験だ。前回は2年前、言わずもがな杏華が失踪――というよりも出奔した時。

 事が起きた当時、槙理はまだ13歳になったばかりだったが、大人たちの言う“そんな子はいない”という言葉が意味する所は十分に理解していた。すなわち杏華は大人たちの怒りを買い、見捨てられたのだ。

 あの時の槙理は責務から逃げ出した弱虫のことなど考えても無駄だ、と無理やり気持ちを前に向けて忘れるように努めていた。が、それがかえって今の彼女の感情の乱れように拍車をかけていた。


「あいつ、普通に生きてたんだ 」と、ようやく形に出来た言葉を口に出してみる。

 そう、道から外れた脱落者が、何事もなく幸せそうに生活している。その事実が槙理の価値観との間に激しいコンフリクトを生んでいるのだ。

 しかも、それだけじゃない。と、槙理の思考はまた深く沈みこんでゆく。あいつは、私のことをまだ気にかけていたときた。それに全く知らない魔術も使って、顔は同じなのに――

「……ばっかみたい」

 2年の間、ずっと目を背けて堆積した感情のおりは、そう簡単に取り払えない。その事実に直面した槙理は、苛立ちを隠せない様子で髪をかき上げながら、自分に毒づく。

 ふと、グラスの氷が程よく溶けているのが目について、目覚ましに一つ口に含み、噛みしめる。奥歯がジンと痛んだ。

「おお、豪快だねぇキミ」

 視界の端に現れた人影に突然話しかけらた槙理は、どこかで聞いたことのある声色だな、などと頭の端で考えながら胡乱げな目つきで見上げる。

「やぁやぁ久しぶり槙理ちゃん。覚えてる?」

 目を向けた先には、すらりと長く伸びる肢体に、腰まで伸ばした濡羽色のポニーテールを蛇のように揺らす女性。その顔は、忘れるはずもない鮮烈な記憶と関連付けられた容貌かおだった。


「か、風見鶏さん……ですよね?」

 覚えていてもらえた事が嬉しいらしい歩は、伝票ホルダーで肩をたたきながら例の軽薄そうな笑みをニヒヒと浮かべている。そのワイシャツとスラックスの上にカフェエプロンを巻いた出で立ちをしげしげと眺めて、槙理が一言。

「まさかここで働いてるんですか」

「そんな信じられないみたいな顔されて言われると、ちとショックだなぁ。一応店名でバレてそうと思ったんだけど……まあいいか」

 一体何をしに来たんだ、と勘繰る間もなく槙理の目の前に出来立てのイングリッシュマフィンのベーコンエッグサンドがテーブルに置かれる。きょとんと見つめているうちに香辛料とバターのいい香りが鼻腔に入り、ゼリーと紅茶だけで四半分も満たされていない彼女の胃を刺激した。

「おねーさんからの差し入れ」いつもの軽薄そうな笑みを浮かべて言う。「私がシフト入った時からずーっと難しそうな顔してたから、ちょいと心配でね」

「で、あたしの相談相手になろうと?」

「君が良ければだけれど」

「じゃあアテは外れですね。あんまり他人ひとに話すような事じゃないですし」

「ありゃ、それは残念」

 どかりと対面に座った歩は口ではそう言いつつもさして残念がる様子もなく、「まぁほら食べてご。結構自信作だから」とマフィンを勧める。一口齧ってみると、なるほど確かに美味しい。空腹なこともあってか槙理は夢中になってかぶりつき、そのマフィンのサイズが通常より一回り大きいことにも、歩がさりげなく手に取ったテーブルの伝票の下に千円札を差し込んだことにも気づいていないようだった。


「腹が膨れて気は変わったかい?」良い食べっぷりに満足げに笑う。

 そう言われて槙理は食事の間ずっとこちらを見ている視線を思い出した。

「え、エサで釣ろうったって無駄ですからね」

 頬を赤らめ照れ隠しする槙理に、歩はにへらと笑って「やった、表情かおが緩んだ」と続ける。「空腹状態で頭はネガティブかつ非合理的になりやすい。考え事するなら、まずは腹ごしらえからしなくちゃね」

 なるほど、歩の主目的は話を聞くことではなかったのか。少し面食らった槙理は、屈託のない笑顔を浮かべている歩に向けて敵わない、と肩を竦める。

 ベクトルこそ違えども、槙理は歩に対して樒と同じ印象を抱いていた。変則的でマイペース、そして何より中立的。

 彼女にとって家柄も才能も関係なく、ご機嫌取りをするでも敵意を向けるでもなく、ごくフラットに接してくれる知り合いは数少ない。それ故に樒も歩も、彼女にとっては興味深く、付き合いがいのある人物たりえるのだ。


 そういえば樒は今何をしているのだろう? ふと気になりだしたところで槙理の携帯電話がメールの着信を告げた。懐から取り出してみると、間が良いことに背面の簡易液晶ディスプレイには“導樒”の名前が表示されている。

 休日に樒からメールということは、と槙理は考えを巡らせる。勉強で分からないところが出てきて私に聞きたいが、部屋が留守だから探している、といったところだろう。せっかくだし、この店まで呼び出してやろうか。

 そんな呑気な槙理の思考は、メールの件名を見て一瞬で吹き飛んだ。

“霊震 助けて”

 続く内容には地名と森をバックにした看板の写真だけ。その地名が魔術災害の対処マニュアルに記述されていた事ははっきりと覚えているが、土地勘のない槙理にはそこがどこにあるのか、すぐには分からなかった。助けを求める視線は自然と真正面、歩の方へと向けられる。

「トラブルのようだね。良くない報せかい?」その目線に応えて、いつもの陽気な装いから一転、神妙な顔つきで槙理と向き合う。

「この場所、分かります?」と携帯電話の画面に映るメールを見せる。

「んん、これは山の方だね」

「どうやったら行けます?」

「徒歩や自転車じゃあちょいと遠すぎる場所だよ」

「じゃあタクシーでも何でもとって行きます! とにかく住所を――」

「ヘイヘイヘイ! ちょい待ち、ちょい待ち」

 焦れて前のめりに立ち上がった槙理を、歩が大仰な身振りをして宥めた。辛うじて激昂を抑えている様子の彼女がまた何かを言い始める前にひとつ、尋ねる。

「君、私の魔術が何かお忘れじゃあないかな?」

 そう言われて怪訝そうな槙理。だからどうした、と言いかけた所で槙理は口ごもり、脳内で連想する。

 ――歩の魔術、純粋力学魔術、物理法則をごまかす、最近は第3法則キャンセル……

「あーっ!」歩の意図を理解して思わず叫ぶ。

「ふふん、そうさ」得意げに口角を持ち上げて、「私が連れてってあげよう。車より断然早いのは保証するよ」


***


 自分を睨みつけている深紅の瞳に、樒は気が咎めたような、少し怯えた表情を見せる。厳しくも優しい、高貴さと慈愛で満ちていたあの杏華が、こんなにも殺伐とした顔をするとは、思っても見なかった。あの顔は明らかに怒っている。樒は後ずさりしようとして、何かに躓く。

「私、言ったわよね? 通報したら逃げなさいって」

 樒の腕を引いて立たせながらそう言う杏華の声は静かで、それでいて火傷しそうな程に怒りの烈火が籠っていた。とはいえ、ここまで来てしまったからには樒も引き下がれない。

「ごめんなさい。でも、先輩が居なくなってから心細くって……逃げてもまた捕まるんじゃないかと思ったら、怖くって」

 嘘だった。今の樒は、恐怖など微塵も持ち合わせていない。彼女は極めて理性的に結界の中へと足を踏み入れ、杏華の元を目指していた。霊なのか実体なのかは知らないが、杏華と合流するより先に、中にいるであろう何がしかに襲われることもまた、織り込み済みだった。

 杏華は黙ったまま、樒を見つめる。まるで品定めするかのようなその眼光を前に、樒は表情の気まずさを強める。

 察しの良い先輩の事だから、と樒は考える。自分がただ衝動的に行動している訳ではない事に気付いていてもおかしくない。だが指摘したところでなんの解決にもならない。今の状況を考えてこれ以上の追求はしてこないはず。

 樒の見立て通り、杏華は視線の鋭さを別の方向へと向ける。

「この話は後にしましょう。鬼の霊は封じたはずなのに、まだ結界が残ってるなんておかしいわ」

 言われてみると確かに、頭上はまだ橙が宵闇に呑まれる寸前の色で止まっているし、生命の気配を感じさせるような物音も一切聞こえてこない。

 霊震によって現界した霊魂が作り出す、いわば狩場として機能するこの結界は、大元である霊を無力化することで支えを失い、次第に崩壊してゆくはずだ。それが今なお存在し続けているということは、まだどこかに結界を維持している霊が潜んでいる、ということになる。

 細く伸びる里道の只中に、生き物が2人きり。

 杏華の背後の木が微かに揺らめいたことに先に気付いたのは樒だった。

「先輩危ない!」

 突然、木の幹から溶け出すようにして姿を現した鬼の爪が振り下ろされ、杏華を突き飛ばした樒の左腕に、今、食い込む。

「……――ッ!!」

 引き裂かれる袖、迸る鮮血。樒の目が見開かれた。

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